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日本人は、なぜ個人を責め続けるのか?

誤った行動や意思決定は、問題の「原因」ではなくて「症状」である。
—— Erroneous actions and decisions are symptoms, not causes.


会議室の魔女狩り


会社でミスが起きる時、いつも同じパターンが繰り返される。プロジェクトが失敗し、上司が詰められると、誰かが「根本原因」に選ばれる。選ばれるのは、必ずしも弱い人とは限らない。昨日まで有能だった社員が、突然「戦犯」になることもある。選考基準は能力でも責任の重さでもない。「空気」だ。なんとなく嫌われている人、最近ミスをした人、声を上げすぎた人——それだけで十分だ。会議室で全員に責められ、非難され、始末書を書かされ、異動させられる。さらに悪いことに、失敗した後になって「最初からおかしいと思っていた」と言い出す者が必ず現れる。後知恵だ。当時誰も止めなかったくせに。組織は一時的に安定し、問題が解決した「気がする」。

しかし本当の問題——無理なスケジュールを承認した管理職、リスクを報告できない空気を作った組織文化、失敗を許さない制度設計、そして戦略・見積もり・意思決定という組織全体の構造的失敗——は何一つ問われない組織の構造的問題が長い時間をかけて静かに「腐った毒入りスープ」として煮込まれてきている。つるし上げられた人は、その組織の抱える潜在的問題の「腐った毒入りスープ」に、最後のひとさじを加えただけにすぎない。

そしてその場にいる全員が、心のどこかでこう思っている。「次は、自分かもしれない」と。この恐怖が、誰も声を上げられない組織を作る。これは特定の悪い上司の問題ではない。「空気」で個人を根本原因に仕立てることで思考を止める、人間という種が持つ根深い個人非難のバイアス、進化の過程で埋め込まれた思考のバグだ。そのバグに気づかない限り、次のスケープゴートは必ず生まれる。

なぜ私たちは個人を責め続けるのか?

理由1:勝手に、「根本原因」を決めるから

  • 問題が起きた後に、根本原因を分析する方法(Retrospective study)は後知恵バイアスがかかり、本当の原因がわからない。例えば、私はITのサポートセンターに寄せられた大量の問題を分析していて、あることに気づいた。「なぜ?」「なぜ?」を5回深く繰り返すナゼナゼ分析や根本原因分析をやっていると、どの原因も「根本原因」になりうるのだ。私が「根本原因」と名付けたのは、実は改善コストが最も安くて、効果が最大のものを選んでいただけだった。

つまり、根本原因は「発見」するものではなく、「選ぶ」ものなのだ。

具体的な話をしよう。そのヘルプデスクのコールログで最も多かった顧客からの問い合わせのひとつが「ログインできない」だった。根本原因分析手法として、「なぜ?」を5回繰り返してみる。

  1. なぜログインできないのか? →パスワードを忘れたから。(原因1)

  2. なぜ忘れるのか? → 紙に書き留める習慣がないから。(原因2)

  3. なぜ習慣がないのか? → 覚えられると思っているから。(原因3)

  4. なぜ覚えられると思うのか? → 面倒くさいから。(原因4)

  5. なぜ面倒くさいのか? → 自分の記憶力に自信過剰だから。(原因5)

さて、ここで問題が起きる。じゃあ「自信過剰」(原因5)が根本原因なら、自信過剰を直せばいいということになる。でも、外資系IT企業の社員が顧客ユーザーの自信過剰な性格を変えることなど本当にできるだろうか? コストは予測不能で、効果はほぼゼロだ。

では「紙に書き留める習慣がない」(原因2)はどうか。これなら全ユーザーへの周知メール1本という最小のコストで、ログイン問題の大幅削減で効果絶大だ。私はこれを「根本原因」と特定した。

しかしここで、ある疑問が頭をよぎった。「「紙に書き留める習慣がない」は本当に根本原因なのか? 根本原因は、分析する人によって変わるのではないか?」そうなのだ。「なぜなぜ」を続ければ、原因の連鎖は無限に遡れる。「自信過剰」の先には「日本の教育が失敗のリスク教育をしていない」があり、その先には「明治以来の画一的教育制度」がある。どこで止めるかは、分析者が勝手に決めているに過ぎない。私が「紙に書き留める習慣がないから」を根本原因と呼んだのは、それが真実だったからではない。「コストが安くて効果が高い」ものを根本原因にすると私が勝手に選択したからだ。

理由2:個人を悪者にする方が、コストが安いから

問題が起きた時、その原因は無数に考えられる。そのうち「何を根本原因と呼ぶか」は、決める人の価値観・権力・都合を反映している。歴史と社会を見渡すと、この構造が繰り返されているのがわかる。根本原因に選ばれるのは、ほぼ常に弱者・孤立した個人だ。なぜか。

「個人」を非難するほうが、コストが安いからだ。

権力者・組織・制度・メカニズムを根本原因にすると、面倒臭いと思ってしまう。また本当の問題は「ステルス」で見えにくいしかし目立つ個人を根本原因にすれば、非難して処罰して簡単に終わりにできる。問題が解決した「気がする」。しかし問題のメカニズムは変わらず、同じ悲劇が繰り返される。

イエス・キリストの処刑

古代ギリシャやローマの世界には、「スケープゴート」という儀式があった。社会に蓄積した罪や不浄を一人の奴隷や動物に象徴的に背負わせ、殺すか追放することで共同体が「浄化」される——そういう発想だ。イエスの処刑は、この古代からの人間のバグが歴史上最も劇的に現れた瞬間かもしれない。ユダヤの指導者たちは「イエスが社会秩序を乱している根本原因」と判断した。しかし実際には、イエスは貧しい人々を救い、腐敗した宗教権力に異議を唱えた人物だった。イエスが「根本原因」に選ばれた本当の理由は、彼が既存の権力構造にとって都合が悪かったからだ。そしてその処刑後も、貧困はなくならなかった。腐敗もなくならなかった。当然だ。本当の問題は何一つ解決されていなかったのだから。

魔女狩り(中世ヨーロッパ)

中世ヨーロッパで疫病や不作が起きると、「魔女がいるからだ」と決められた。大抵は社会的に孤立した老女や、変わり者と見なされた人物が「根本原因」に選ばれた。処刑しても疫病はなくならなかった。当然だ。本当の原因は衛生環境・栄養不足・ネズミによる感染拡大だったから。攻撃しやすい弱者を根本原因に仕立てることで、権力者は責任を免れた。


2026年4月の自転車法改正:個人へ責任転嫁

今年4月から、自転車は車道を走ることが義務化された。理由は「歩行者と自転車の衝突事故を減らすため」だ。しかし今度は自転車と車が衝突する。自転車乗りは車との事故ではるかに重篤な怪我をする。本当の根本原因は個人じゃない。

自転車事故の本当の根本原因は、道路が狭すぎること、自転車専用レーンがないこと、朝8時に全員が集中する通勤・通学文化、東京への異常な人口集中、車道にも歩道にも居場所がない自転車を生んだ戦後の道路設計、安全性を無視した事故が起きやすい道路設計だ。事故が起きやすい道路設計の失敗を認めると官僚の責任になる。通勤文化を問うと企業・政府の責任になる。それらは権力者は認めたくない。だから簡単で、安くて、責任が取りやすい、個人(自転車乗り・ドライバー)が「根本原因」に選ばれて個人が非難される。しかし、個人が根本原因でないことは明らかだ。なぜなら、また来年も同じ問題が繰り返されるからだ。

事故が確率的に起きる危険な道路設計・制度が一番の問題なのに、交通事故という「ババ抜きゲームで最後にババを抜いた」ドライバーや自転車が悪いと個人に責任を押しつける。

私たち日本人は個人を根本原因にして非難するパターンを子供の頃から学習して無意識に脳に刷り込まれている。水戸黄門を見れば、複雑な社会問題も最後は「この紋所が目に入らぬか!」の一言で反射的に悪者個人のせいにして終わる。「悪人が根本原因だ」と決めつければ、頭を使う必要もない。ところが、水戸黄門も暴れん坊将軍も、毎週悪代官を懲らしめるのにも関わらず、翌週にはまた新しい悪代官が現れる。つまりドラマ自身が証明しているのだ。「人を根本原因にして非難しても、問題は何も解決しない」ということを。

テレビのニュースは、水戸黄門と同じバイアスを私たちにかけている。テレビが毎回「自転車が悪い」「ドライバーが悪い」と報道し続けることで、私たちの脳は無意識に「誰かを非難する」モードになってしまう。テレビカメラは自転車に乗った「加害者」を追いかける。本当に状況を改善したいなら、テレビ局は、個人を責める続けるよりも、次のような問いを放送するべきだ。

  • 道幅が狭くて交通量の多い車道に自転車を通せば事故が起きる確率が上がると分かっているのにも関わらず、なぜ自転車に車道を走らせる法律が作られたのか?

  • もっと効果的・根本的な解決策として、道路拡張、自転車専用レーン、会社員・学校の出勤時間をずらす、オンライン授業やリモートワークで交通量を減らす発想はないのか?(例えば、オランダやデンマークでは自転車専用レーンの整備で事故が激減した)

  • 小学校の前でスピードを出す車が後を絶たないのに、なぜ、速度を物理的に抑制するハンプ(段差)を道路に設置しないのか?

しかし、こうした道路設計や都市計画への問いや創意工夫のアイデアを、テレビのニュースは決して提起しない。頑固に個人を責め続けて非難することで思考を止める日本の習慣は、交通事故にとどまらない。いじめ・うつ・自殺が増えても、日本社会はいつも「本人の意志が弱い」「ちゃんとしないからだ」等の個人非難で終わる。本当に状況を改善したいなら本来の問うべきは、「なぜ虐められても子供は学校を自由に選べないのか? なぜ嫌な職場でも我慢するしかない転職市場なのに35年ローンで家を買わせる制度設計なのか? なぜ職を失うと健康保険も住居も同時に失う制度設計を変えないのか?」だ。個人を責めて反省させるのはコストが安い。本物の改善は面倒だ。だから個人を責めて反省だけして、改善から逃げる。

複雑な問題を人を責め続けて個人を非難して全部個人の責任に押しつける習慣があるから、何十年経っても問題は全く解決していない。人を責めることが正しいと信じている人々は、実は問題のメカニズムを考える知的労働から逃げているのだ。

日本のテレビや新聞は、事故というババをひいた個人(ある意味被害者)だけを責める。個人の責任を追及する方が、コストも時間も頭も使わずにすむからだ。本来報道すべきは「なぜ危険な道路設計や制度が放置されているのか」という問いだ。そして、海外の成功例である、配達車両の時間帯規制、路上駐車スペースの整備、自転車専用レーン、道路設計基準の改定、などの建設的な改善案をニュースや記事にするべきだ。

人を責めない。だから航空機業界は40倍も安全になった

 Don't fit the person to the job. Fit the job to the person.
人を仕事に合わせるな、仕事を人に合わせよ。

日本社会が個人を責め続ける一方で、世界の航空機業界はまったく逆の方向に進化した。個人を問題の根本原因にするのをやめた人を責めることをやめた。その原点は、第二次世界大戦中にさかのぼる。心理学者アルフォンス・チャパニスは、B-17爆撃機で熟練パイロットが着陸直後に車輪を引っ込めてしまう事故が頻発していることに気づいた。当初、軍は「人間が根本原因(パイロットの不注意)」と結論づけた。しかしチャパニスは別の問いを立てた。「なぜ優秀なパイロットが同じミスを繰り返すのか?」調べると、フラップ(翼)と車輪のスイッチが同じ形・同じ位置に並んでいた。飛行機の着陸時の夕方の暗い中、疲労と緊張の中では、誰でもスイッチを間違える。

B17は、22か月で400件もの事故が起きていた。
B-17爆撃機では、車輪とフラップのレバーが似た形で近くに配置されていたため、熟練パイロットでも着陸時に操作を間違えた。

チャパニスの解決策はユニークだった。車輪のスイッチをタイヤの形に、フラップのスイッチを翼の形に変えたそれだけで事故は激減した。パイロットを責める代わりに、変えたのはコクピットの設計だった。人間が機械に合わせる必要はない。機械が人間に合わせればいいという、いわゆる「人間中心設計(Human-Centered Design)」だ。

改善後、車輪レバーは車輪の形に、フラップレバーは翼の形に変えられた。パイロットのヒューマンエラーを責めないで、間違えにくいコクピット設計に変えたことで航空機事故は激減した。

チャパニスがすごいのは、パイロット個人を責めて終わる(トカゲのしっぽ切り)ではなく、なぜ事故の時、パイロットにとってその行動が「合理的」に見えてしまったのかという背景に目を向ける事こそが、真の安全につながるという事に気づいたことである。

アルフォンス・チャパニス Alphonse Chapanis (1917–2002) 人間工学 ・人間中心設計 (Human Centered Design)の父。「パイロットのミス」は「コックピットの設計改善」で克服できる事を初めて示して安全工学を推進した。

さらに逆転の発想だったのが「ヒヤリハット報告制度」だ。「ヒヤリハット」とは、事故には至らなかったが「ヒヤリ」と冷や汗をかいた瞬間「ハッ」と危険に気づいた瞬間のこと。例えば航空機なら、滑走路に別の飛行機がいることに直前で気づいて着陸をやり直した、というような「あと少しで大惨事だった」出来事を指す。このような「ヒヤリハット」、つまり事故に至らなかったミスや危険な状況を報告しても、罰則を受けない。むしろ報告が奨励される。その結果、膨大なデータが集まり、事故が起きる前にシステムや組織を改善できるようになった。「人を責める」文化では、誰もミスを報告しない。報告しないから問題が隠れ、やがて大事故になる。人を責めないこと」が、実は最も効果的な安全対策だったのだ。

人を責めないで仕組みを直す結果が数字に表れている。航空業界の安全性は約40倍も向上した。MITの研究者アーノルド・バーネット教授の研究によると、1968年〜1977年の航空機の死亡事故率は搭乗者35万人に1人だった。それが2018年〜2022年には1,370万人に1人にまで下がっている。同じ期間、航空機の利用者数は爆発的に増えているにもかかわらず、だ。航空機の安全性はほぼ10年ごとに2倍になってきた。私たちは、この航空機業界の人間中心設計や人を責めないで創意工夫をする科学的精神を日本社会全体で学ぶべきだと思う。


普段は見えない。事故の日だけ、犯人にされる

事故の要因は、システム(組織や仕事の仕組み)の中に常に潜んでいる。
—— Some of the contributing factors to incidents are always in the system.

「ヒューマンエラー」とは、単なる個人の不注意や能力不足ではない。ヒューマンエラーは、組織の文化・仕事のやり方・制度設計の中に最初から埋め込まれており、普段は「正しい仕事のやり方」として機能しているものが、複数の条件が重なった瞬間に事故として表面化するにすぎない。例えば、病院で患者が中毒症状を起こしたとしよう。

  1. なぜ? → 看護師が「カリウム製剤」を原液で静注し、患者が心停止したから。(原因1)

  2. なぜ? → 指示書には「希釈」とあったが、看護師はそれを読み飛ばしたから。(原因2)

  3. なぜ? → その時、ナースコールが鳴り止まず、医師からは別の急ぎの指示が飛び、彼女の脳内は「速やかな処置」という目標に占拠されていたから。(原因3)

  4. なぜ? → 普段、彼女は「テキパキ動く優秀な看護師」と評価されており、そのスピードを維持するために、無意識に「確認作業のショートカット」を日常化(ノーマライゼーション)させていたから。(原因4)

  5. なぜ? → 結局、「極限状態で慢心し、基本を怠った看護師がダメだった」。(原因5)

このナゼナゼ分析は、結果を知った後で過去の行動を裁く「後知恵分析」に過ぎず、次の事故防止には全く役立たない。事故の後では、事故が起きたという「結果」から逆算するので、複雑な多くの要因を単純化して「注意不足」とか「わざと間違えた」とラベル付けをしてしまう。そして、個人を根本原因として責めてしまう。結果から逆算する後知恵バイアスによって、事故分析者は「なぜ明白なことを間違えたんだ? なぜ看護師は見えなかったんだ? 見えなかったら大変なことになるのは分かっていただろう?」と勘違いしてしまう。

事故分析者は、看護師が直面していた状況における不確実性、見通しの悪さ、限られた情報、リスク、そしてどちらを選んでも叱られる板挟み状態を、心の中では本当に理解できていない。海外の多くの研究によると、後知恵バイアスは非常に強力であるため、事故分析者が後知恵バイアスにならないように努力しても、結局は間違った個人責任の追及に終わってしまうことが多い。

その時、現場の人間にとって、なぜその行動が『正しい選択』に見えてしまったのかを考える必要がある。この看護師は、サボったのではない。普段通りの仕事のやり方で、その瞬間の「正義」、つまりスピードを選択した結果、エラーという形で表面化したにすぎない。事故が起きた後から見れば、「希釈」という文字は赤く光って見える。しかし、その瞬間の彼女には、鳴り響くナースコールと医師の怒号というノイズの中で、その文字は透明だった。気づかなかったのだ。

事故が起きた後、私たちは「結果」(事故)を知っているがゆえに、「あの一つの原因があったから、こうなった」と一本の因果関係の直線で単純化してしまう。しかし、当事者の看護師は、その瞬間、その結果(事故)はわからなかった。彼女は普段と同じ「正しい仕事のやり方」をしていただけだ。

限られた情報の中で、「早くしろ、でも正確に!」という相反する目標を同時に達成しながら、一人で多くの患者を抱えてベストを尽くしていた。エラーが起きたのは、彼女が「だめだったから」ではない。そういうエラーが起きやすい組織・環境・状況に、彼女が置かれていたからだ。事故が起きた瞬間、その場にいた現場の人間、つまり看護師、医師、作業者、運転手、オペレーター等は自動的に「原因」というラベルを貼られやすい。なぜなら、物理的にそこにいないと事故が起きえない場所にいるからだ。これは単なる「配置」の問題という残酷な事実である。さらに、これらの個人は、安全な運用をしながら、同時にテキパキと動くことを制度的に義務付けられているのだ。

もっと残酷なことに、医療事故の原因が「ヒューマンエラー」「個人責任」とされ、看護師個人が責められる理由は、皮肉なことに彼女の日ごろのパフォーマンスが非常に優れているからだ。現場の看護師が超人的なスキルで事故を防ぎ続けている間は、「当然」「組織や標準的な仕事のやり方は問題ない」と勘違いされる。看護師は、当たり前の仕事をしただけだと思われる。しかし一度事故が起きると、それまでの数万回の成功は無視され、その一回が看護師のヒューマンエラーとしてカウントされる。たまたま条件が重なって事故が起きた日だけ、「犯人」「個人の責任」を問われる。運が悪かっただけで、末端にいる実務者がスケープゴートになるのだ。これは悲劇である。

では、なぜ彼女は「確認作業のショートカット」(原因4)を日常化してしまったのか? 本当の根本原因は彼女が働いていた組織にある。彼女が「テキパキ動く優秀な看護師」と組織に評価されていたからだ。つまり組織が速さを褒め、丁寧さを褒めなかったし、認めなかった確認作業をきちんとやる看護師より、素早く動く看護師の方が「優秀」と見なされる組織の文化が、彼女のショートカットを育てた。これは彼女だけの問題ではない。評価制度の設計ミスだ。根本原因は看護師ではなく、速さだけを評価してきた組織の設計にあった。

事故の日に責められた看護師は、普段から危険な仕事環境の中で個人の努力だけで支えてきた人でもある。人手が足りない現場で「急げ急げ」とせかしておきながら、間違いを犯した個人が根本原因であると非難して終わるトカゲのしっぽ切りが、実は次の事故を準備しているのだ。だから本当に改善するべきなのは、その人ではなく、その人の注意力に依存し続けた仕事の仕組みである。

  • 「なぜそのミスをしたか」を心理的に分析するのではなく、「その時、現場の人間にとって、なぜその行動が『正しい選択』に見えてしまったのか」を、時間的制約や情報の不足から分析して、改善策を考えると、最も効果の高い改善策は、複数の層で同時に対処することだ。

    第一層:物理設計(最も確実)

  • カリウム製剤のような劇薬を、通常の点滴ラインに物理的に接続できない形状にする。カリウム製剤の容器の口を「四角形」にして、点滴チューブの接続口を「丸形」にする。形が違うから物理的にはまらない、つまりどんなに焦っていても間違った薬は絶対に投与できない。どれだけパニックでも、物理的に不可能なら事故は起きない。人間の注意力に依存しない、最も強力な方法の一つだ。

第二層:環境設計
劇薬と通常薬を保管場所から分離する。「取り出す手間」を意図的に設計する。取り違えが起きる確率を上流で下げる。

第三層:評価制度の変更
「確認をきちんとやった看護師」を褒める文化に変える。仕事の速さではなく正確さを評価する。ここを変えないと、誰が来ても確認作業を削る圧力が生まれ続ける。

個人を責める文化は、組織の学習を止める

競争力とは、個人の勤勉さだけではない。環境変化に合わせて、どれだけ早く学習し、制度を変えられるかである。しかし組織の自己否定を恐れて、個人を責める文化では、ミスは隠れ、データは集まらず、真因は見えず、制度は変わらない。その結果、組織の学習は止まり、環境への適応は遅れ、競争力は静かに失われていく。個人を責める社会は、問題を解決しているのではない。問題から学ぶ機会を失っているのだ。

人間を責めたい本能に逆らって、仕組みを直す

人間には、誰かを責めたくなる本能がある。事故や不良が起きると、多くの人はすぐに「誰がやった?」「誰の確認不足だ?」「誰の責任だ?」と考える。人類は昔から、疫病、不作、事故、失敗を、個人の罪に押しつけて魔女狩りで人間を火炙りにしたりイエスキリストを処刑するなど残酷なことしてきた。いじめも、不当な個人批判も、その延長線上にある。自転車専用レーンを作らずに、事故に遭った自転車乗りやドライバーだけを責める社会も同じだ。本当に深刻な問題は、多くの人々が原因を見抜けないまま、後知恵バイアスによって個人を責めることを「原因分析」「課題解決」だと勘違いしてしまうことである。

本物の改善は、人を責めたい本能に逆らう「勇気」と、仕組みを直す「知性」がある本当に必要なのは、誰かを悪者にすることではない。問題の構造を見抜き、次の犠牲者を生まない仕組みに変えることだ。本当に必要なのは、人間がダメな仕組みに無理に合わせることではない。機械・環境・制度の側を、人間に合わせて設計する「人間中心設計」である。


おすすめ書籍

このテーマをもっと深く知りたい方には、次の5冊がおすすめです。

1.『失敗の科学』

なぜ組織は失敗から学べないのか。
航空や医療の事例から、「誰が悪いか」ではなく「なぜ起きたか」を考える重要性がわかります。特に第5章:「犯人探し」バイアス
脳に組み込まれた「非難」のプログラム
「魔女狩り」症候群 そして、誰もいなくなった

2.『「空気」の研究』

なぜ人は、おかしいと思っても集団に従うのか。
日本社会の「空気」や組織文化を考えるのに役立つ本です。なぜ日本人は論理や事実ではなく「その場の空気」で物事を決め、失敗すると特定の個人を血祭りにあげて思考停止するのか。旧日本軍の戦艦大和の出撃判断や公害問題などを題材に、日本人が無意識に囚われている「空気という名の絶対権力」を鋭く解剖しています。

3.『ファスト&スロー』

人間はなぜ判断を間違えるのか。
思い込みやバイアスを理解し、「人は間違える」という前提で仕組みを作る大切さがわかります。行動経済学の創始者(ノーベル経済学賞受賞者)が、人間がいかに「結果を知った後に、最初から分かっていたと錯覚するか(後知恵)」や「因果関係を単純化して犯人を作りたがるか」を豊富な心理実験でテンポよく明かしています。読めば「自分自身の脳の判断」がいかにあやふやで、人を責めやすくなっているかを実感できます。

4.『ネット私刑(リンチ)』

なぜ人は誰かを責めたくなるのか。
SNS時代の犯人探しや集団心理を考える本です。たった一つの失言やちょっとしたミスをした一般人が、SNS上で一瞬にして「悪魔」に仕立て上げられ、職を失い、人生を破壊される現代のリアルな魔女狩りを追ったノンフィクションです。人はなぜ正義の名のもとに他人を徹底的に責めたがるのか、その残酷な心理的快楽をユーモアと恐怖を交えて生々しく描いています。

5.ヒューマンエラーはさばけるか:安全で公正な文化を築くには

医療事故や航空機事故など、重大な失敗が起きたとき、私たちはつい「誰が悪かったのか」と犯人探しをして処罰を求めがちです。しかし個人を責めて処罰すると、現場はミスを隠蔽するようになり、再発防止のチャンスが永遠に失われてしまいます。

本書は、安全研究の世界的権威であるシドニー・デッカーが提唱した「ジャストカルチャー(公正な文化)」の決定版です。「処罰」ではなく「学習」によって前に進む組織をつくるには、許される失敗と罰すべき過失の境界線をどこに引くべきなのか。誰かを断罪して終わりにする安易な正義感を解体し、組織が本当に強くなるための「前向きな責任の取り方」を提示してくれる一冊です。

6.『ヒューマンエラー』

世界におけるヒューマンエラー研究の第一人者であるイギリスの心理学者、ジェームズ・リーズン(James Reason)による記念碑的な著作です。

本書は、安全工学や人間工学、リスク管理に関わる専門家の間で世界的な名著として読み継がれており、まさにこの分野の「バイブル」とも呼べる一冊です。個人の注意不足やスキルの問題として片付けられがちな失敗を、認知プロセスのエラーや背後にあるシステムの脆弱性(有名な「スイスチーズモデル」の基礎)から体系的・科学的に解明しています。

なお、専門用語のニュアンスや学術的な厳密さなど日本語翻訳の表現が気になる方には、原著である英語版(Human Error)で直接読み進めることをおすすめします。


1冊だけ読むなら、『ヒューマンエラーはさばけるか:安全で公正な文化を築くには』がおすすめです。


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「17世紀ドイツの刑務所『魔女の家』とは?」

昔も今も、人は複雑な問題が起きると、原因を仕組みではなく「誰か悪い人」に求めがちです。病気や不作、経済的な苦境への恐怖が共同体の内側に向かい、最も責めやすい人を災難の原因に仕立て上げるという流れは今も変わっていないと締めくくっています。



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