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「子音」を封じられていた昭和の教室―― 音源なき時代の言語受容

ヘンリエッタの教室と1970年代のねじれた言語語り ②

☝️躍動刷る中学生&女性 🆚 母音の言語語り

1.ヘンリエッタたちの背後で起きていたこと

前回は、ヘンリエッタスタニスラスという少し異国めいた名前から、中学英語教科書の世界にしみ込んでいた「国際情勢」と「国際理解」の気配をたどりました。

フランス系の女子中学生の『ヘンリエッタ』さん(あくまでもイメージ)
ロシア系(旧ソ連)の男子中学生のスタニスラス(あくまでもイメージ)

今回は、その同じ時期に、教室の外側でどんな「言葉の物語」が語られていたのかを見ていきます。

1970年代初頭のねじれ

中学英語教科書のページでは “I think …” という文が増え、女性誌の誌面では「自分で生き方を選ぶ若い女性」が前面に出てくる。
その一方で、ロックの世界では「邦詞(日本語の詞)でロックは可能か」という邦詞ロック論争(いわゆる日本語ロック論争)が巻き起こり、英詞か邦詞かについて、かなり乱暴な言説が飛び交っていました。(ja.wikid.org)

『邦詞ロック論争』(所謂日本語ロック論争)
英語や日本語の言語の本質を論争したものでは全くなく、
単に歌う時の歌詞を英詞にするか邦詞にするかの選択論争

同じ「言葉」と「世界の見え方」をめぐる話でありながら、これらはなぜここまで方向が違ってしまったのでしょうか。
ヘンリエッタのいる英語教室と、当時の女性誌、そして邦詞ロック論争を並べて、そのねじれを見ていきたいと思います。

2. 1970〜72年の空気:デタントと「世界が近くなる」感覚

① 冷たい戦争下

1970年前後の世界は、まだ冷戦のただ中にありました。アメリカとソ連は核兵器をにらみ合い、ベトナム戦争も続いている。ニュースだけを見れば「不穏さ」が先に立つ時期です。

② デタント(緊張緩和)へ

それでも、1970年から 1972年にかけての数年間には、別の風向きも静かに吹き始めます。米ソの戦略兵器制限交渉(SALT)が進み、七二年にはニクソン大統領の中国訪問が実現する。長く続いた全面対決の構図が、「管理された緊張」と「対話」へと、ほんの少しだけ舵を切り始めた時期でした。

ブレジネフ(ソ連)とニクソン(米国) 1972年5月

③ 世界に繋がる予感の日本

日本でも、1964年東京オリンピックと1970年大阪万博を経て、高度経済成長のピークを過ぎつつありました。カラーテレビ海外旅行のパンフレットが家庭に入り、世界のニュースで見ていた国々が「行ってみたい場所」としても意識され始めます。
地球儀の向こう側は、恐ろしい冷戦の最前線であると同時に、ガイドブックに並ぶ観光地やブランド名のリストにもなっていく。そうした空気のなかで、「国際理解」や「世界とつながる」という言葉が、現実味を帯びて立ち上がってきました。

3. 女性誌が写した「自立するわたし」

1970年、マガジンハウスから『anan』が創刊されます。(ananweb.jp)
翌1971年には、集英社から『non-no』が登場します。(shueisha.co.jp)

いずれも、それまでの主婦向け女性誌とは違い、都市部の未婚女性女子大生をメインターゲットにした雑誌でした。
大きな写真とカラーページをふんだんに使い、ファッション、街角スナップ、海外旅行、カフェや雑貨までを連続写真で見せていきます。

そこにいるのは、家族に付いていく娘ではなく、自分で働き、自分の財布で服を選び、ときには友だち同士で海外にも出かけていく「自立する若い女性」です。

旅の特集では、パリやロンドン、アジアのリゾートが「行ってみたい街」として並び、その横にはホテル名や持ち物リストが添えられます。
anan』『non-no』を手に日本中を旅する若い女性を「アンノン族」と呼んだことは、当時の社会現象としてよく知られています。(oya-bunko.or.jp)

『anan』(1970年)と『non-no』(1971年)

誌面のインタビューや読者欄では、モデルや読者自身が
「私はこう思う」「私はこう生きたい」と、1人称で自分の考えや生き方を語ります。

女性誌は、世界の情報を並べるだけでなく、「それをどう選び、どう生きるか」という視点を、若い読者に求めていたと言えるでしょう。

4. 『TOTAL ENGLISH』 “I think …” の世界

同じころ、中学英語の教科書の中身も大きく変わっていきます。

①旧 英語教科書(「This is a pen.」の時代)

戦後すぐの教科書に並んでいたのは、
・This is a pen.
・He is a boy.

といった、世界の事実を淡々と説明する文が中心で、そこからが英語のスタートでした。世界はそこにあって、学習者はそれを指さしながら英語で名前を言うだけ。文の主語は this や he や she であり、そこにいる「私」がどう感じるかは、ほとんど問題にされません。

②新 英語教科書(I think…の「I」の時代)

ところが、1970年代前半の学習指導要領改訂に伴い、文型練習や会話文の中に、少しずつ別のタイプの英文が紛れ込んできます。

・I think …
・In my opinion …
・I agree. / I disagree.
・We should …

This is a pen. → I think…

世界の説明ではなく、自分の判断や意見を言うための表現です。
主語の位置に this や he ではなく、 I や we が据えられ、「あなたはどう思うか」「あなたは賛成か反対か」が問われ始めます。(en.wikipedia.org)
中学生にその意味がわかっていたかどうかは別として、教科書の側は確実に、「I を主語にして世界を語る」方向へと重心を移していました。

③ 「I」の時代: 当時の女性と中学生の奇妙な一致

👧 女性誌の誌面で「わたしはこう生きたい」と語る若い女性たちと、
👩‍🎓 教室で “I think …” を口にする中学生たち。

紙の上で、主語が this や he から I へと入れ替わったのは、教科書と女性誌の双方で、ほぼ同じ時期に起きていた変化だったのかもしれません。

5. 教科書の世代ギャップと音響なき教室の記憶

ここで重要なのは、この『TOTAL ENGLISH』で「I」を主語にして語り始めた中学生たちと、当時ロック論争を戦わせていた大人たちとの間にある決定的な「教科書ギャップ」です。

① 「This is a pen」の時代

当時の論客たちは、バリバリの旧教科書、つまり「This is a pen.」の世界で育った世代でした。世界を指さして客観的に説明する訓練ばかりを受け、「私はこう思う」という主体的(内省的)な「I」の言語表現を学校で手渡されていなかった人たちが、大人のロック論を展開していた訳です。

さらに言えば、当時はまだ教室にカセットテープレコーダーなどの音響機器すら十分に普及していない、あるいは乏しかった時代です。 英語の授業と言えば、ネイティブの生きた音声を聴く機会は限られていました。
ちなみに国産カセットテープレコーダー登場1966年ごろと、東京五輪後の話です。そしてそれは登場であって、すぐに学校現場に普及した訳ではありませんでしあ。つまり、当時ロック論争を主導していた大人たちが中学生だった時代、教室には「英語の音声を再生する機械」そのものが乏しかった時代です。

②昭和の時代の英語の授業展開

当時の授業形態は以下のように展開されていたはずです。
まず、先生が(日本人の発音で)最初に1〜2ページくらいを音読

その後指名された生徒が1文音読し、すぐにそれを「和訳」して答える

次に指名された生徒が、同じ形式で一文音読→和訳を順次繰り返す
というスタイルが当たり前でした。
耳から入る「音声」ではなく、教科書に印刷された文字をひたすら目で追い、日本語に置き換えるという、徹底した「視覚情報偏重」の空間がそこにはありました。

③ 「母音」の語り場だった中高の英語の授業

❶ 先生の「母音バリバリ」のゆっくり音読
日本人では発音が難しい /t/ を、先生自身が「ト(to)」や「ツ(tsu)」とはっきり母音を足して、ゆっくり親切に丁寧に発音してくれました。
生徒の耳は、英語のリアルな子音の塊(シラブル)ではなく、「わざわざ先生が生徒にわかりやすように、日本語の母音の枠組みに取り入れてくれた「記号」をそのまま吸収して生徒は育ちます。

❷ 「カッコつけるな!」という強力な『同調圧力』
もし奇跡的に耳の良い生徒がラジオや洋楽からリアルな「子音の抜け(ベストの [best] 、ストライクの [straɪk] )」を掴み取って教室で発音しようものなら、周囲からは間違いなく、
🗣️「何お前、カッコつけてんだよ❗️
🗣️「普通に発音しろよ❗️
と冷笑される始末です。つまり、学校空間全体が「英語を正しく(子音のまま)発音することをスイッチオフにさせる構造」になっていた訳です。
ちなみに、「普通に発音する」と言うは、子音を極力なくし、母音をバリバリ全開につけて英文を読み上げる暗黙の了解のことを指します。

🫢 考えてみたら、おかしな話です。
英語は英語らしく話すものなのに、英語発音の子音を禁じられる‼️
こう考えると、まさに学校の英語の時間は、日本語と同じ、母音中心の語り場ったという衝撃な事実に直面します。

④ 疑問の余地が残る、論争当事者の英語の理解度

このような環境で英語記号として処理してきた人たちが、いくらロックを聴いたからといって、急に音声学的な緻密さをもって「英語の子音とロックのビートの親和性」などを語れるはずがありません。彼らが、
🗣️「ロックは英詞でなければならない!」
🗣️「日本語は母音まみれだからダメだ!」
と語っていた議論のすべては、耳からの聴覚体感ではなく、あくまでも学校教育から地続きになった視覚情報を頼りにした「脳内論議」に過ぎなかったと想像するのです。

【小まとめ】 論争当時の英語認識

邦詞ロック論争のリアルな現場は、私たちが想像していたものとはかなり距離の隔たりが大きかったことが想起されます。

「母音の語り場」が生み出した病理

❶ 子音の封印:本来の主役であるはずの「子音」が、先生のゆっくり母音混じり音読と生徒間の同調圧力によって実質的に禁止され、すべての英単語に無理やり母音が肉付けされている。

❷ ロックの論争: そうした「母音の語り場」で純粋培養された大人たちが今度は「日本語は母音まみれだからロックに不適合だ」と日本語を断罪し、文字のスペルだけを見て「英語の子音の連続は素晴らしい」と崇める傾向が見て取れます。

終わりに

私たちの口と耳が、学校という空間で「子音」を禁じられ、徹底的に母音を肉付けする訓練を受けていたという厳然たる事実。あまりにも自明な共通認識ゆえに、公式な歴史(史料)には一切残らないこの「空気」こそが、実は当時の国内情勢のリアルでした。

では、この「母音の語り場」で純粋培養され、子音の単体発音を奪われた大人たちは、教会の外側で一体どんな「言葉の物語」を編み出していたのでしょうか。

次回、第3回の予告

視覚(文字)に踊らされた「邦詞ロック論争」 ―― 耳を使わなかった教条主義の正体

彼らが耳(リアルな音声)を完全に塞いだまま、五十音図という文字の配列と、strike や best という英語のスペル(視覚情報)だけに踊らされて肥大化させていった「ある巨大な神話」の正体を解体します。

第1回「Junior Crown からTOTAL ENGLISH へ──ヘンリエッタとスタニスラスの違和感」はこちら
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