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「アタマイイ」は、つくれる。

 今回も短い記事に挑戦(2,700字)。
 前回の記事を読んでくれてありがとう。

 しかし前回の内容で講釈を終えてしまうのは、意地が悪いのかもしれないと思った。
 本来、今回の内容は「各々、自分で考えて欲しかったこと」ではある。


 ずばり「どうやったら天才を作れるか」である。



 人類はもう答えを作った。知ってか知らずか。
 天才の構成要素は「膨大な散在型知識」と「“無知”」である。

 つまり生成AIである。


 前回ああは綴ったものの、私は最近、ここnoteやSNS上で「天才の発想力をよく見かけるようになったな」と感じる。
 つまり「生成AIに溺れず、飲まれず、真に有効活用できる才能」達の勃興である。これは最早さほど珍しくなく、その辺に居る。

 もちろん私は全知全能ではないし、人類史上「最も全知全能に近い人間」からも程遠い。
 しかし、なら「いかにして今回の記事を書くモチベーションがあるのか」と気になってくれることだろう。何様なのだと。


 私は「所詮ヒトの描く “天才” 概念など、パターン化も再現も可能である」と結論付けているのだ。この仮説の証明のように、生成AIは世に出てきた。

 だから、以降の記事も前回の記事も、そこに出て来る「天才」という言葉の指すものは「イデアな天才」ではなく、「ヒトの描く “天才”」である。

 がっかりかもしれないが、実はそれで充分である。
 イデアな天才の真価を、等身大に評価できるのは、イデアな天才だけだ。つまり実在しないし、実在する旨味も意味も無い。
それは認識されず、捨て去られる。



天才の構成要素は「膨大な散在型知識」と「“無知”」である。

 こう言ったのは自分だが、明らかに言葉遊びに興じているので釈明する。


 実は後者の話は、noteでは二度目である。

――ピカソが逃れたかったのは、「大人の発想」であり、「常識」であり、「社会性」と呼び得る知識の総体です。――

――これらに囚われない “自由” を、子供の時分は誰もが持っていた…もとい「“不自由” を持っていなかった」のです。――

私の生成AI嫌いは「同族嫌悪」』より。


 要するに「“無知”」と表現したのは、
・非常識
・フラットな発想
・偏見が無いこと

 である。これらの3つは全く同じであるのに、人間は区別するよな。
対義語は「社会性(空気読み)」であって一語なんだが。

 それで言うと、面白いことにAIの無知は「イデアな無知」だと考えることができる。ヒトには・生物には到達不可能な領域だ。


 前者「膨大な散在型知識」については、説明するようなこともほぼ無い。
「理論として体系づけられてなくても良いから、とにかく他分野で多く!」くらいのニュアンスである。

 これで言うと「ガリ勉によって天才に近づける」というのは、まぁ半分は正解ではある。往々にして半分正解の凡人が、悲しきモンスターとなるが。



 結局、我々がAIに晒され、直面している現実というのは、
「天才の性質をよく理解し、うまく扱える知恵のある者だけが恩恵に与る」という、この「天才」の部分を「AI」に置き換えただけのパワーバランスの世界である。

 でもこんな話は自明なので、前座だ。
 以降「あなた(の脳)が天才の発想を得る方法」についてである。

ただし忠告。前回の記事で述べた通り、

天才は天才の役割を、そうでない者はそうでない者の役割を務める」ことを、もっと徹底した方が良い。

という思想を、私は尚も曲げない。


 あなたが以降を読み進めることは、少なくともこれに反抗し「生まれつきそうではない者が、生粋の天才との椅子取りゲームに参入し、かつ勝とうと目論んでいる」ことを意味する。
一昔前なら勇敢だったが、AI以降は無謀に思える。

 つまり、以降は「知っても、のし上がれそうには思えない戦略」が綴ってあるだけだ。

私は以降を「賞味期限が過ぎた」「既に私自身は他へ乗り換えた」から明かすだけだ。
現に今日までの私は、言う程のし上がっていないのだから。


🔸

1、「発想力・ひらめき」の問題を暗記ゲーに持ち込む

 前回も出たワードだが「天才の閃きが無いと解けない問題」は、もう既にこの世に存在している・既出である時点で雑魚である。
模範解答を覚えれば、閃きは不要である。

 そういう問題のリストを探し、片っ端からインプットすれば良い。
全てを「進研ゼミでやった所だ」化するということである。

 なおAIユーザーはそれをAIに食わせている。人間より速く。

🔹

2、水平思考の解体

 しゃらくさい言葉だが、要は「一つを固定して、他をずらす」を虱潰しに繰り返すことである。多分だけど「同型」とか「圏論」とかこれに同じ

 凡人は「いつも同じ部分ばかり固定化して、うんうん唸っている」のだ。
これを常識的発想と言う。

 なお水平思考の技能は「AIのアイデンティティ」とも呼べる。

🔸

3、「習慣」の敬遠、無礼の実践

 通常の人間は、いつ何時でも社会性を第一に考える。もはや自動的に
なぜなら社会性というクッションを挟まないと、互いが怖くて触れ合うことが出来ないからである。

 本項は要するに「俺、バカだからよくわかんねぇけどよ」の教えである。
 ここまで噛み砕けば、1は「2の補助」、3は「2の実践法」に過ぎない項目であることが分かるかと思う。

 なおAIには大した社会性が期待されていないので、AIが最も発揮できる。




 良いかよく聴け。

 世の “天才” 性は、以上の3パターンのどれかと、その帰結でしかない。

「誰でもノイマンの水準で」は難しくとも、別に性質の再現は可能である。


「天才」はそもそも評価であるから、その地平が「評価する大衆の知性」に依存してしまうのだ。

 それで言うと、折角の生成AIの真価でさえも、所詮は「人類」という檻(限界点)に閉じ込められたものになることが想像できる。


🔹



一つだけ、覚えて帰ろう。

AIの限界は、人間(主観)の限界が規定する。

そんなつもりは無くてもだ。

AIが人間の限界を超えた成果を出力しても、人間の側がそれを区別できない。
仮にピアノの鍵盤を音域2倍に拡張しても、超高音域は全て、同じ音でコンコンいう打楽器にしか聴こえない。

今日は「発想力」の話だから、それについての話だからね。
「高速で絵を出す」とかそういう「ヒトの身体的限界」の話してないよ。


 もしその限界を突破するとしたら、
 それはAIが「便利な道具」でも「善き友」でもなく
「人類を導く神」として、無批判に奉られた時のみ。

 人間の “想像力(妄想癖や信仰心)” ならば、限界点が無いからである。
 その救いの様相は、民草とグルの出来レースであり、八百万ならぬ八百長の神である。

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