【前編】【宇宙より古い星】メトシェラ星と、閉じていく宇宙の窓
【語り部の部屋】
ようこそ……。
今夜も、よくいらっしゃいました。
少し、窓の外をご覧ください。

星が見えますね。
冷たく、静かに。
ただ、そこにある光。
その無数の光の中に一つだけ、奇妙な年齢を持つ星があります。
てんびん座の方向。
地球から、およそ190光年。
宇宙の距離で言えば、ほとんど隣の家のようなものです。
正式な名前は、HD 140283
そこに物語を感じさせるものは、
何もない番号です。けれど、この星は別の名前で呼ばれています。
メトシェラ星。
旧約聖書に登場する、969歳まで生きたとされる人物の名前です。
なぜ、そのような名を与えられたのか。
理由は、一つです。
この星の年齢が精密に推定されたとき、その計算が指し示していた数字は。
……この宇宙そのものよりも古い、という結果だったのです。
もちろん、星が宇宙より先に生まれることなどあり得ません。では、間違っていたのは何だったのでしょう。
星の年齢か。
宇宙の年齢か。
それとも。
私たちが「時間」と呼んでいるものへの理解、そのものか。
今夜お話しするのは、一つの古い星の話です。
そして、
その星を見つめているうちに気づいてしまう、もっと静かで、もっと深い場所の話です。
さあ、ページを捲りましょう。
宇宙の幼年期を知る、証人たちのもとへ。

【第一章:宇宙より古い星、あり得ない矛盾】
この宇宙が誕生したのは、およそ138億年前だと考えられています。
ビッグバンと呼ばれる始まりから、今日まで。
それが、現在の宇宙論によって導かれた、この世界の年齢です。
ですから、この宇宙に存在するものが宇宙そのものより古くなることはできません。
親より年上の子どもが、
生まれることはないのです。
……そのはずでした。
HD 140283の年齢を調べた天文学者たちは、計算の中に、奇妙な数字を見つけました。
過去の推定では、140億年を超える値が示されたことがあります。
より精密な観測から導かれた推定でも、その中心値は宇宙の年齢を上回りました。
145億年。
そして考えられる誤差は、およそ8億年。
……お気づきでしょうか。
誤差の範囲まで含めれば、宇宙の年齢と両立する可能性はあります。
この星が本当に宇宙より古いと、証明されたわけではありません。
けれど、確かに親より年上の子どものような数字が、静かに置かれていたのです。
当然、問題になりました。
宇宙の年齢の推定が、間違っているのか。
星までの距離が、間違っているのか。
恒星がどのように生まれ、老いていくのか。
その進化モデルに、何かが欠けているのか。
あるいは。
私たちが、宇宙について正しいと信じているものの中に、まだ見つかっていない亀裂があるのでしょうか。
その後、距離の測定精度は上がりました。
恒星の進化モデルも改良されました。
星に含まれる元素の量や、内部で起きる核反応についての理解も進みました。
現在では、HD 140283の年齢は、
宇宙の年齢と矛盾しない範囲に収まり得ると考えられています。
親より年上の子どもが、
本当にいたわけではない。
ひとまず、そう考えてよさそうです。
……ただし。
この星が、宇宙の最初期に生まれた極めて古い星であることは変わりません。
そして星の年齢測定には、今も大きな不確かさが残ります。
距離。明るさ。質量。
化学組成。
そして、星の内部で起きている直接見ることのできない反応。
それらを組み合わせ、私たちは一つの星の過去を逆算しています。
星には出生証明書がありません。表面に誕生日が刻まれているわけでもありません。
私たちは、現在の姿から失われた過去を推測するしかないのです。
どの星が本当に最も古いのか。
それを完全に断言できる者は、今も、どこにもいません。

【第二章:足元に残された、宇宙の証人】
ここで、少し不思議に思いませんか。
宇宙の始まりを知りたければ、はるか彼方を見なければならない。
私たちはそう考えがちです。遠くを見ることは、過去を見ることだからです。
けれど。過去に生まれたものが今も遠くにいるとは限りません。
古い星の中には、長い時間を生き延び、現在の天の川に残っているものがあります。
メトシェラ星も、その一つです。
この星は、宇宙がまだ若かった頃に生まれました。太陽よりわずかに軽く、激しく燃えて短命に終わる大質量星ではありませんでした。
重い星ほど、燃料を激しく使います。
まばゆく輝き、短い一生の果てに巨大な爆発を起こすものもあります。
一方、軽い星ほど燃料をゆっくりと使います。
静かに。ゆっくりと。長く。
メトシェラはその静かな側にいた星でした。だからこそこの星は、宇宙の幼年期から今日まで生き延びることができたのです。
……130億年。
言葉にすれば、たった数文字です。
けれど、その間に何が起きたのか、少しだけ、数えてみましょうか。
最初の銀河が生まれ、
いくつも合体を繰り返し。
無数の星が生まれては死に、
その遺灰から、また新しい星が生まれ。
私たちの太陽が生まれたのは、
そのずっと後のことです。
更に地球ができ、海ができ、
そこに最初の生命が現れ。
恐竜が栄え、滅び。
やがて人が生まれ、文明が起こる。
そしてあなたが今夜、この部屋に辿り着くまでのそのすべての時間を。
あの星は、ただ静かに燃えたまま、通り過ぎてきたのです。
もっとも、永遠ではありません。
メトシェラ星は現在、中心部の水素を使い果たし、次の段階へ移りつつあると考えられています。準巨星と呼ばれる状態です。
約130億年の旅を続けてきたこの星にも、確かに、老いは訪れています。
この星が、どのような経路で現在の場所へ来たのか。若い天の川銀河の形成に初めから加わっていたのか。
それとも、後に天の川銀河へ吸収された、他の小さな銀河とともにやってきたのか。
その旅路のすべてが分かっているわけではありません。
ただ、一つだけ確かなことがあります。
宇宙の最初期に生まれた星が、今は私たちと同じ天の川の中を旅している。
地球から、わずか190光年。
私たちのすぐ近くに、宇宙の幼年期を知る証人がいるのです。
◇
そしてもう一つ、星をご紹介しましょう。
SMSS J031300.36-670839.3
長い名前ですね。
2014年に天の川銀河の中で報告された、宇宙最初期に生まれたと考えられる星です。
この星の光を調べても、その星の成分に鉄の明確な痕跡は検出されませんでした。
観測から求められた鉄の量の上限は、太陽と比べて、一千万分の一以下。
ほとんど存在しないと言ってよい量です。
これが何を意味するのか。
宇宙が始まったばかりの頃、物質のほとんどは、水素とヘリウムでした。
炭素も、酸素も、鉄も。
今の私たちにとって身近な重い元素は、まだほとんど存在していませんでした。
それらの多くは、星の内部や、星の最期に起きる現象の中で作られました。
そして、宇宙へまき散らされていったのです。
私たちの血液に含まれる鉄も。
骨を形作るカルシウムも。
今、あなたが吸い込んでいる酸素も。
全てはるか昔に生き、そして死んだ星々が残していったものです。
いわば、星の遺灰です。
だから、鉄をほとんど含まない星はこう語っていることになります。
自分が生まれた頃、宇宙にはまだ死んだ星がほとんどなかった、と。
宇宙に、まだ遺灰がほとんどなかった時代。
最初の星々が生まれ、ようやく世界に重い元素を配り始めたばかりの、あの時代。
その頃に生まれた星が、今夜も私たちの銀河の中で燃えています。
過去は、常に遠くにあるとは限りません。
時には、私たちの足元にまで、静かに流れ着いているのです。

【語り部の部屋:最後に】
さあ……。
今夜の話は、ここまでにいたしましょう。
窓の外を、もう一度ご覧ください。
てんびん座の方向に、あの星があります。
肉眼では、見えませんけれど。
でも、確かにそこにいます。
宇宙が生まれてまもない頃に火を灯し、それから今日まで。
一度も消えることなく燃え続けてきた星が、私たちのすぐ近くを一緒に旅している。
……不思議なものですね。
私たちは、宇宙の始まりを知るために、遠い彼方を見つめます。
けれど、その始まりの生き残りは、案外足元にいたのです。
もっとも。
彼らは厳密には最初の星ではありません。
メトシェラ星も。
鉄をほとんど含まない、あの古い星も。
すでに死んでいった、もっと古い星たちの遺灰から生まれた次の世代です。
……では。
本当に最初に生まれた星は、いったい、どこにいるのでしょうか。
宇宙が初めて光を灯した、あの瞬間の星々は。
今、どこにいるのでしょうか。
その答えを探しに行くと、私たちは思いもよらない場所へ連れて行かれます。
宇宙の果て。
観測の限界。
そして、今この瞬間も静かに閉じ続けている、ある窓の話へ。
この続きは、次の夜に。
どうか今夜は、ゆっくりお休みください。

窓の外に見える光はすべて、
過去から届いた便りです。
今度は、その便りが永遠に届かなくなる未来のお話をしましょう。
それでは……良い、夢を。
【後編】はこちらです⇩
単話完結の お話を纏めました。 ⇧⇧⇧
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