映画「晩菊」の原作を読む(その2)〜林芙美子「水仙」は“女と息子“
(承前)
成瀬巳喜男監督「晩菊」の原作としてクレジットされる、3つの林芙美子作品。二つ目の「水仙」を読む。これは、“女と息子“の話である。“女“は息子の母でもある。
台湾生まれのたまえは、きびしい教育を受けたが、女学校を卒業した翌年、伊部という男と駆け落ちのような状態で東京に出てくる。そこで、息子・作男をもうけるが、伊部はたまえの友人で、一時同居していた多津子と関係し、それに気づいたたまえは多津子を厳しく責め立てる。結果、多津子は自殺、伊部はたまえのもとを去る。
こうした境遇を経て、たまえは四十三歳、作男は二十二になるが就職する気もなく、母に甘えて暮らしている。そのくせ、自分が就職できないことを、母に対して、<「お前さんが子不幸な人だから駄目だった」>と言い放つ。
たまえは“女“である。伊部と別れてから、ずっとそうである。作男はそんな母親に育てられて、大きくなった。
私が所有しているのは、電子書籍で出ている「【復刻版】林芙美子全集第13巻」というもので、昭和26年11月30日発行の新潮社版を複写したものだが、本作の初出情報が見当たらない。ネットで調べると、昭和24年(1949年)に発表されたようだ。ちなみに、旧仮名使いで書かれているので、Amazon Audibleを聴きながらテキストに当たると楽である。
そんな昔に書かれたものなのに、古臭い感じがしない。現代に通じるものがある。「晩菊」には、やはり戦争の影があり、“時代“を感じた。「水仙」も、その舞台や風俗は当然過去のものだが、そこで描かれている世界は、今も続く“女と息子“の世界のように思う。
林芙美子は、日本各地を転々とし、さまざまな職業を経験、人気作家となり、従軍作家にもなった。こうした、多くの経験をもとに、多彩な作品を生み出し、人々に愛された。
その根っこにある、一種の普遍性をこの「水仙」に感じる。ここで描かれるのは、特殊な世界である。しかし、その本質は身近にあるのかもしれない

