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アラフィフ|ADHD|ホップの気づき|過信という名の足枷(あしかせ)

ありのままの今日が、最高の自分である理由

ホップです。夕暮れ時、オフィス街の喫茶店で、窓の外を行き交う人々を眺めていた。誰もが前を向いて歩いているように見えて、ときどき立ち止まる人がいる。信号待ちではなく、ふと足が止まる瞬間。あの一瞬に何があるのだろうと考えると、自分の中にも似た感覚があることに気づく。


理想が重くなる時

落ち込む人は、自分を過信しているのかもしれない。そんな話を、協力会社の経営者から聞いたのは、数週間前のことだった。「過信」という言葉に最初は違和感があった。

むしろ自分を信じていないから落ち込むのではないか、と思ったからだ。けれど彼の言葉を反芻するうちに、少しずつ意味が見えてきた。自分はもっとできるはずだ、と思うこと。それ自体が、ある種の過信なのかもしれない。

理想の自分と今の自分のギャップに、私たちは日々悩まされている。

そのギャップが大きいほど、落ち込みは深くなる。けれどそもそも、その理想はどこから来たのだろう。自分が設定したものか、誰かの期待か、社会が求めるものか。いつの間にか、勝手にハードルを上げていることに気づかないまま、自分を責めている。

朝、目覚めた瞬間から「今日はこれをやらなければ」と思う。昨日できなかったことを取り戻そうとする。そうして一日が始まる前から、すでに重荷を背負っている。その重さに耐えられなくなったとき、人は落ち込む。

ある友人は、毎朝ジョギングをしていた。健康のためだと言っていたが、ある日ぱったりとやめた。理由を聞くと「走らない自分が許せなくなったから」と答えた。走ること自体が目的ではなく、走れる自分でいることが目的になっていたのだ。

それは苦しい。

比べることの終わりなさ

人と比べることをやめよう、という言葉はよく聞く。けれど実際には、比べる対象は他人だけではない。過去の自分、未来の自分、理想の自分。比較する相手はいくらでもいる。

そして、比較は決して終わらない。

SNSを開けば、誰かの充実した日常が目に入る。それを見て「自分も頑張らなければ」と思う。けれどその「頑張らなければ」は、本当に自分が望んでいることなのか。他人の幸せの形を、自分の目標にしていないか。

ある日、協力会社の担当者と打ち合わせをしていたときのことだ。彼は資料を広げながら「最近、疲れているんです」と言った。理由を聞くと、同業者の成功事例ばかり追いかけていて、自分の進み方を見失ったのだという。

「誰かのやり方を真似しても、結局は自分じゃないから続かないんですよね」

彼の言葉に、深くうなずいた。人には限界がある。それは能力の限界ではなく、自分らしさの限界だ。誰かの方法が正しくても、それが自分に合うとは限らない。

理想の自分と今の自分のギャップに苦しむとき、私たちはその理想が本当に自分のものか、問い直す必要がある。誰かの期待や、社会の基準を、自分の目標だと錯覚していないか。その問いは、痛みを伴う。

けれど問わなければ、ずっと他人の物差しで自分を測り続けることになる。

今日がベストである理由

今日の自分は、一番のベストだ。そう言われても、すぐには信じられないかもしれない。昨日よりうまくいかなかったこと、できなかったことばかりが目につくからだ。

けれど、今日という日は、これまでのすべての積み重ねの上にある。

失敗も、挫折も、迷いも、全部含めて今日がある。その意味で、今日の自分はこれまでで最も経験を積んだ自分だ。たとえ成果が見えなくても、見えないところで何かが蓄積されている。

ありのままの今日を受け入れることは、諦めではない。

むしろ、現実を正確に見ることだ。自分を過信して高すぎる目標を掲げるのではなく、今の自分にできることを丁寧にやる。それが、明日への確かな一歩になる。

友人の一人は、長年の夢を諦めた。諦めたというより、手放したと言った方が正しいかもしれない。その夢に向かって走り続けることが、彼を苦しめていたからだ。

「夢を手放したら、楽になった」

彼はそう言った。夢を持つことが美しいとされる社会で、夢を手放すことは敗北のように思える。けれど彼は、敗北したのではなく、自分の限界を知ったのだ。人には限界がある。それを認めることは、弱さではなく、強さだ。

限界を知った上で、できることをする。その姿勢こそが、ありのままの自分を生きることなのかもしれない。

ハードルを上げる癖

勝手にハードルを上げているのは、自分だ。そのことに気づくまで、私は長い時間がかかった。誰かに強制されたわけでもないのに、いつの間にか「これくらいできて当たり前」と思っていた。

当たり前の基準は、どんどん上がっていく。

できたことは当たり前になり、次の目標が現れる。そうして永遠に満足しない自分ができあがる。それは向上心ではなく、自己否定の連鎖だ。

ある日、取引先の担当者が言った言葉が忘れられない。「完璧を目指すのをやめたら、仕事が楽しくなった」と。彼は以前、すべてのプロジェクトで完璧を求めていた。けれどそれが自分を追い詰め、周囲にも負担をかけていたことに気づいた。

完璧でなくても、十分なことがある。

その気づきが、彼を楽にした。完璧を目指すことは美しいように見えるが、実際には自分を苦しめる呪いになることがある。ハードルを上げることで、達成感よりも不全感ばかりが増えていく。

理想の自分と今の自分のギャップを埋めようとするとき、私たちはしばしば無理をする。無理をすることで一時的には近づけるかもしれないが、その代償は大きい。心身の疲労、人間関係の摩擦、自己肯定感の低下。

ハードルを下げることは、妥協ではない。

現実的な目標を持つことだ。今の自分にできることを積み重ねることだ。その積み重ねが、やがて遠くまで運んでくれる。

明日の自分を信じる

今日の自分が一番のベストだとしたら、明日の自分もまた、明日にとっての一番のベストになる。そう考えると、未来は少し軽くなる。明日、劇的に変わる必要はない。

今日より少しだけ、何かが変わればいい。

その「少し」が積み重なって、いつか振り返ったときに大きな変化になっている。けれど、その変化を焦ってはいけない。焦りは、また新しいハードルを生む。

明日にはまた最高の自分に出会える。

その言葉を信じることは、今日の自分を否定しないことだ。今日が不完全でも、それでいい。明日もまた、その日なりのベストがある。完璧な日は来ないかもしれないが、それぞれの日に意味がある。

協力会社の担当者が、こんなことを言っていた。「毎日、昨日の自分よりマシだと思えれば、それでいいんじゃないですか」と。マシ、という言葉は謙虚で、同時に優しい。劇的な変化を求めず、小さな前進を認める姿勢。

それが、ありのままを生きるということなのかもしれない。

夕暮れの喫茶店で、窓の外を見ていたとき、ふと気づいた。立ち止まる人も、歩き続ける人も、それぞれのペースで生きている。誰かと比べる必要はない。理想と比べる必要もない。

今日の自分が、今日にとっての最高だ。

そう思えたとき、少しだけ肩の力が抜けた。落ち込むことがあっても、それは過信していたからかもしれない。過信していたということは、自分を信じようとしていた証拠でもある。その優しさを、自分に向けてもいい。

理想を手放すことは、夢を諦めることではない。今の自分を受け入れることは、成長を止めることでもない。ただ、無理なハードルを取り払い、ありのままの今日を丁寧に生きること。その積み重ねが、いつか遠くまで運んでくれる。落ち込んだときは、過信していた自分を笑ってもいい。そして、今日という日に小さな感謝を見つけてもいい。明日にはまた、新しい自分に出会える。それだけで、十分だと思う。

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