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アラフィフ|ADHD|ホップの気づき|人を裁く声の正体


境界のないまなざしが痛む理由

こんにちは、ホップです。

窓の外では冬の雨が静かに降っている。街路樹の枝に残った葉は、もう数えるほどしかない。雨粒が葉を打つ音が、部屋の中まで届く。こんな日はなぜか、遠くから聞こえてくる声がよく響く。

誰かを責める声、断じる声、正しさを主張する声。

スマートフォンの画面を開けば、そうした声がタイムラインを埋め尽くしている。テレビをつければ、コメンテーターが誰かを糾弾している。日常の中で、私たちは常に「裁く声」に囲まれている。

そうした声に囲まれていると、ふと思う。この人たちは、いったい何と戦っているのだろう、と。そして、なぜこれほどまでに、他者を責めずにはいられないのだろう、と。

今日は、そんな「裁く声」の奥にあるものについて、少し考えてみたいと思います。

自己がわからない人は、他人を責める

責める人の声には、ある特徴がある。それは主語がいつも「あなた」であること。「あなたが悪い」「あなたが間違っている」「あなたが変わるべきだ」。そうした言葉の奥には、問いがない。ただ断定があるだけだ。

けれどその声は、実は問いかけでもある。「私は何者か」という問いに答えられない人が、他者という鏡に映して、自分を確かめようとしているのかもしれない。

自分の輪郭が見えない人は、他者を通してしか自分を認識できない。だから、他者の行動が気になる。他者の選択が許せない。他者の存在そのものが、脅威に感じられる。

自己がわからないというのは、単に自己分析が足りないという意味ではない。それは、自分という存在の輪郭が定まっていないということだ。どこまでが自分で、どこからが他人なのか。何が自分の責任で、何がそうでないのか。その境界が曖昧だから、すべてが混ざり合ってしまう。

境界が曖昧な人にとって、世界は常に侵入してくる。他者の言葉が、自分の内側に入り込んでくる。他者の行動が、自分の価値を脅かす。他者の幸福が、自分の不幸を証明するように感じられる。

だから他者の振る舞いが、まるで自分への攻撃に感じられる。相手の選択が、自分の正しさへの否定に見える。そして、その不安を消すために、相手を責めるしかなくなる。

責めることで、一時的に安心する。「私は正しい」「あなたが間違っている」という図式を作ることで、自分の存在を確認する。けれどその安心は、長くは続かない。なぜなら、それは他者に依存した安心だからだ。

他者が変わらなければ、また不安になる。他者が自分の思い通りにならなければ、また責める。そうして、責める声は繰り返される。エンドレスに、果てしなく。

それに対して、自己がわかった人は、他人を痛む。痛むというのは、共感するという意味だけではない。相手の苦しみを、自分のものとして引き受けることなく、ただ「そこにある」と認めることだ。

自分の輪郭が定まっていれば、他者の苦しみは自分を脅かさない。だから、距離を保ったまま、そっと寄り添うことができる。それは違和感を抱きながらも、その違和感を手がかりに、相手を理解しようとする態度だ。

違和感を否定しないこと。それが大切だ。「この人の言っていることは、私には理解できない」と正直に認めること。けれど、理解できないからといって、否定しないこと。ただ、「私とは違う世界を生きている人なのだ」と受け止めること。

自己を知るとは、境界を引くこと。そして境界を引くとは、他者の尊厳を守ることでもある。境界があるから、他者を尊重できる。境界があるから、自分も守れる。

自己の論理で人を裁く飽き飽きする構図

けれど現実には、そうした境界を持たない人の声があまりに多い。SNSを開けば、誰かが誰かを糾弾している。ニュースを見れば、コメント欄には「こうすべきだった」という事後諸葛亮の声があふれている。

そうした声のほとんどは、自己の論理だけで完結している。相手の背景も、事情も、痛みも、まるで存在しないかのように扱われる。ただ「私ならこうする」「常識ではこうだ」という一方的な物差しだけが振りかざされる。

もちろん、判断すること自体が悪いわけではない。けれど、判断と断罪は違う。判断には保留があり、断罪には余白がない。判断は「私にはこう見える」という一人称の語りだが、断罪は「これが正しい」という三人称の語りだ。

断罪する人は、自分の視点が絶対だと信じている。あるいは、信じたいと思っている。なぜなら、その絶対性こそが、自分の存在を支えているからだ。

飽き飽きする、というのは軽い言葉のように聞こえるかもしれない。けれど、それは決して軽い感情ではない。それは、繰り返される構図への疲弊であり、諦めに近い感覚でもある。

「この人はまた同じことを言っている」「あの人も結局、自分の正しさを押しつけたいだけだ」。そうした認識が積み重なると、やがて関わることそのものが、負担になる。

飽き飽きするというのは、ある意味で境界の自覚でもある。「この人とは分かり合えない」「この構図には入りたくない」という、静かな拒絶の意思表示だ。

けれど、飽き飽きすることを、自分に許していいのだろうか。そう思って、罪悪感を抱く人もいるかもしれない。「もっと理解しようとすべきではないか」「もっと寛容であるべきではないか」と。

でも、寛容さには限界がある。すべての人を理解しようとすることは、美しいけれど、不可能だ。そして、不可能なことを自分に課すことは、自分を苦しめることでしかない。

飽き飽きすることを、自分に許す。それもまた、自己の境界を守ることだ。

同じ構図は、日常の至るところにある。職場で、家庭で、友人関係で。誰かが誰かを責め、誰かが誰かを正そうとする。そして、その声に疲れた人が、静かに距離を取る。

けれど、距離を取ることは、逃げることではない。それは、自分を守ることだ。自分の尊厳を保つために、必要な選択だ。

飽き飽きしながらも、完全には切り捨てない。ただ、関わり方を変える。深入りしない。期待しない。相手が変わることを待たない。そうして、自分の心を守る。

当事者間でしか分からない話を裁く外野

もっと厄介なのは、当事者でもない人が、まるで当事者であるかのように語る構図だ。誰かと誰かの間にある複雑な事情を、まるで単純な善悪の物語に置き換えて、断じてしまう。

関係というのは、外から見えるものと内側で起きていることが、まったく違う。表面的には加害と被害に見えるものが、実際には共依存の構造だったり、逆に穏やかに見える関係が、実は抑圧と我慢で成り立っていたりする。

人間関係は、レイヤーが何層にも重なっている。表層には、社会的な役割がある。その下には、感情の動きがある。さらにその下には、無意識の欲望や恐怖がある。そして、最も深い層には、言葉にならない痛みや孤独がある。

外野は、表層しか見ていない。けれど、その表層だけを見て、すべてを知ったかのように語る。「この人が悪い」「あの人が被害者だ」「こうすればよかった」と。

それを、外野が「こうあるべきだ」と語ることは、ある種の暴力だ。なぜなら、その声は当事者の尊厳を奪うからだ。当事者には当事者の判断があり、葛藤があり、選択がある。それを無視して「正しさ」を押しつけることは、結局、自己の論理で他者を支配することに他ならない。

当事者は、外野が知らない痛みを抱えている。外野が知らない歴史を生きている。外野が知らない恐怖と、希望と、絶望を経験している。それを知らずに、ただ「正しさ」だけを語ることは、当事者の経験を無効化することだ。

外野の声が厄介なのは、それが「善意」の顔をしているからだ。「あなたのために言っている」「正しいことを言っているだけだ」という言葉の裏には、実は自己満足がある。

その声は、当事者を救いたいのではない。自分が正しい側にいたいだけだ。自分が善良な人間だと確認したいだけだ。だから、当事者の痛みや複雑さは、実はどうでもいい。

外野は、物語を単純化したがる。なぜなら、単純な物語のほうが、判断しやすいからだ。「この人が悪者で、この人が被害者」という図式があれば、自分がどちら側につけばいいかが明確になる。

けれど、現実の関係は、そんなに単純ではない。加害と被害は、時に入れ替わる。愛と憎しみは、同じ心の中に共存する。正しさと間違いは、時と場合によって変わる。

そうした曖昧さを、外野は受け入れられない。だから、強引に単純化する。そして、その単純化された物語の中で、自分が正義の側にいることを確認する。

そうした構図を見るたび、また飽き飽きする。けれどそれは、諦めではなく、見守りの選択でもある。外野として入り込まないこと。当事者の領域を尊重すること。それもまた、境界を守る態度だ。

見守るというのは、何もしないということではない。それは、当事者が自分で答えを見つけるのを、待つということだ。口を出さない。手を出さない。ただ、必要なときに、必要な形で、そっと支える。

それは、忍耐のいることだ。当事者が苦しんでいるのを見ながら、何もできない自分を受け入れることは、辛い。けれど、それが唯一、当事者の尊厳を守る方法だ。

外野でいることを、自覚する。それが、今の私にできることだ。

変わらない人と、変わらないと見なす自分

「この人は昔から変わらないな」と思う瞬間がある。何年経っても、同じ話をして、同じ怒り方をして、同じように誰かを責めている。

そうした姿を見ると、悲しくなるよりも、ある種の諦めが先に来る。おそらく、この人は変わらない。少なくとも、私が何か言って変わるわけではない。

変わらない人を見るとき、私たちは何を感じるのだろう。苛立ち? 失望? それとも、安心?

実は、変わらない人の存在は、ある意味で安定をもたらす。その人がいつも同じであることで、世界の一部が予測可能になる。「あの人はまた同じことを言うだろう」と思えることは、不思議な安心感を与える。

けれど、同時に疲れる。同じ話を何度も聞かされることの退屈さ。同じパターンに何度も巻き込まれることの消耗。

けれど、同時に思う。その「変わらなさ」は、病気なのかもしれない、と。メンタルの病気というのは、必ずしも診断名がつくものだけを指すわけではない。むしろ、診断名がつかないまま、日常の中で苦しみ続けている人のほうが多い。

他人を責め続ける人は、おそらく自分自身を責め続けてもいる。自己が定まらないまま、常に不安の中にいる。だから他者を攻撃することで、一時的に安心を得ようとする。それは、ある種の生存戦略なのかもしれない。

変わらないのではなく、変われないのかもしれない。変わろうとしても、変わり方がわからないのかもしれない。あるいは、変わることが怖いのかもしれない。

変わるということは、今の自分を手放すということだ。たとえその自分が苦しくても、それは慣れ親しんだ自分だ。未知の自分になることよりも、今の自分にしがみつくほうが、安全に感じられる。

そう考えると、飽き飽きしながらも、完全には切り捨てられない。ただ、関わらないという選択を取るだけだ。それは冷たさではなく、自分の境界を守るための、必要な距離感だ。

変わらない人を変えようとすることは、暴力だ。それは、その人の尊厳を否定することだからだ。「あなたは間違っている」「あなたは変わるべきだ」という言葉の裏には、「今のあなたには価値がない」というメッセージがある。

けれど、変わらないまま、その人を受け入れることもまた、難しい。なぜなら、その人の振る舞いが、自分を傷つけるからだ。

だから、私たちにできるのは、距離を取ることだけだ。変えようとせず、受け入れようとせず、ただ距離を保つこと。それが、唯一の現実的な選択だ。

変わらない人を見るとき、私は思う。その人もまた、苦しんでいるのだろう、と。けれど、その苦しみを引き受けるのは、私ではない。それは、その人自身の仕事だ。

関わらないという、静かな受容

関わらない、というのは、無視することではない。それは、相手の領域を尊重することだ。その人には、その人の人生がある。その人の苦しみがある。その人の選択がある。

私にできるのは、その領域に土足で踏み込まないこと。善意の顔をして、正しさを押しつけないこと。ただ、自分の境界を守りながら、必要な距離を保つこと。

それは冷たく見えるかもしれない。けれど、それこそが見守りだ。見守りとは、放置ではない。それは、相手の自律を信じること。相手が自分で答えを見つけることを、信じること。

見守りには、忍耐が必要だ。相手が苦しんでいるのを見ながら、手を出さないこと。相手が間違った選択をしているように見えても、口を出さないこと。それは、自分の無力さを認めることでもある。

けれど、無力さを認めることは、弱さではない。それは、現実を直視することだ。私には、他者を変える力はない。私にできるのは、ただ自分を変えることだけだ。

もちろん、関わらないという選択にも、痛みはある。その人が苦しんでいることを知りながら、何もしない。それは、自分の無力さを認めることでもある。

けれど、無力さを認めることは、弱さではない。それは、自分の限界を知ること。自分にできることとできないことを、区別すること。そして、できないことを無理にやろうとしないこと。それもまた、尊厳を守る態度だ。

自分の限界を知ることは、謙虚さだ。「私にはこれ以上のことはできない」と認めることは、自分を責めることではない。それは、自分を大切にすることだ。

無理をして関わり続けることは、結局、誰のためにもならない。自分も疲弊し、相手も本当の意味で助からない。だから、関わらないことを選ぶ。それが、今の私にできる、最善の選択だ。

他人を責める人を見るたび、思う。その人もまた、苦しんでいるのだろう、と。ただ、その苦しみを引き受けるのは、私ではない。それは、その人自身の仕事だ。

そして私にできるのは、ただ自分の境界を守り、自分の尊厳を保ち、静かに生きること。それだけだ。

飽き飽きしながらも、諦めきらずに、ただ距離を保つ。それが、今の私にできる、精一杯の受容だ。

受容というのは、肯定することではない。それは、「そうである」ということを、ただ認めることだ。「この人はこういう人だ」「この状況はこうなっている」と、ただ事実を見ること。

そして、その事実を変えようとせず、ただ自分の立ち位置を決めること。「私はこの距離にいる」と。

関わらないことを選んだ後も、罪悪感は残る。「もっと何かできたのではないか」「冷たい人間だと思われるのではないか」と。

けれど、その罪悪感を、自分に課す必要はない。私は、私にできることをした。そして、できないことは、できないと認めた。それで十分だ。

他者を救うことは、私の仕事ではない。私の仕事は、ただ自分を生きることだ。自分の境界を守り、自分の尊厳を保ち、自分らしく生きること。

それが、結局、誰にとっても一番いいことなのかもしれない。

ここに書いたのは、私のひとつの考え方です。
違っていても大丈夫。小さな気づきがあれば十分。
今日もどうか、あなたらしく、自分をかわいがってください。

#境界線を守る練習
#見守りという距離感
#関わらない勇気
#静かな受容の記録
#ホップの気づき


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