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【AI時代の教育改革】何を信じて、何を疑う? NZ教育省が導入する“認識論”

【はじめに】あなたは、本当にそれを「知っている」のか

あなたが今日、ニュースで見た出来事。
学校で先生から教わった歴史。
昔から正しいと記憶している知識。

そして、チャット型AIがもっともらしい出典とともに示した情報
SNSに流れてくる、ショッキングな海外の動画。

私たちは毎日、それらを「知っている」と表現している。

しかし、そのニュースが誤報だったら。
先生の説明が間違っていたら。
自分の記憶が、知らないうちに書き換えられていたら

AIが、デタラメな一次資料を堂々と提示していたら。(AIが大嘘こきする現象はハルシネーションと呼ばれ問題になっている)
SNSで見た映像が、AIによって作られたディープフェイクだったら。

それでも私たちは、本当にそれを「知っていた」と言えるのだろうか。

「正しい答えを持っていること」と、
何かを「知っていること」は、
同じなのだろうか。


ニュージーランド教育省が、Year 13(高校3年生相当)の生徒へ教えようとしているのは、この問いである。

教育先進国とも呼ばれるニュージーランドでは現在、高校教育と資格制度を大きく組み替える改革が進められている。

そのなかで新たに設計された選択科目の一つが、「Civics, Politics & Philosophy(市民・政治・哲学)」だ。

哲学だけを独立して学ぶのではない。

「私たちはどう生きるべきか」
「何を正しいと考えるべきか」
「知識とは何か」

といった哲学的な問いを、政治制度や市民参加、現代の情報環境と結びつけて学ぶ

2026年に公開されたYear 12・13(高校2〜3年生相当)向けカリキュラム草案には、高校生向けとは思えないほど大量の哲学的概念と思想家、思考実験が並んでいる

これまで筆者は、その哲学分野から二つの問いを読み解いてきた。

第1弾では、AIに心はあるのか」という問いを起点に、中国語の部屋、意識、心身問題、そして拡張された心を扱った。


第2弾では、トロッコ問題から出発し、功利主義、義務論、徳倫理、儒教、Kaupapa MāoriPacific Wayを通して、異なる文化のなかで「正しさ」をどう考えるのかを見た。


そして今回は、哲学分野の総仕上げとして、Year 13の「Epistemology(認識論)」を取り上げる。

AIに心があるのか。
異なる文化の正しさを、どのように考えるのか。
しかし、その答えを考えている私たちは、そもそも何を根拠に「分かった」「知っている」と言っているのだろう。

この草案は、高校生に倫理や心について考えさせるだけではない。

自分がそれらについて
何かを知っていると、なぜ言えるのか
まで疑わせようとしている。

私たちは、何から知識を得ているのか

草案が最初に挙げるのは、私たちが知識を得る四つの源である。

・Sense perception:感覚
・Testimony:証言
・Memory:記憶
・Reason and inference:理性と推論

どれも、私たちが世界を知るために欠かせない。

そして、どれも間違える

【感覚】「見たから知っている」は信用できるのか

まずは感覚である。

目で見る。
耳で聞く。
手で触れる。
舌で味わう。
鼻で匂いを感じる。

私たちは感覚を通して、自分の外側にある世界についての信念を作っている。

窓の外を見て雨が降っていれば、「今は雨が降っている」と考える。
大きな音が聞こえれば、「近くで何かが落ちた」と考える。

しかし、感覚は常に世界を正確に伝えるわけじゃあない。

遠くの道路に水があるように見えても、それは蜃気楼かもしれない。
暗い部屋で人影を見たと思っても、カーテンや家具の形を見間違えただけかもしれない。

見たこと自体が嘘なのではない。
私たちは確かに「人影のようなもの」を見ている。

問題は、その感覚から「そこに人がいる」という結論へ進むときに、解釈が加わっていることだ。

写真や動画も同じである。

「映像があるのだから事実だ」とは限らない。
撮影された角度によって見え方は変わり、前後を切り取れば出来事の意味も変わる。

なんならプリクラの盛り具合とかもはや別人じゃあないか。

現在では、画像や音声そのものをAIで生成することもできる。

草案は生徒に、感覚によって得た信念を自動的に信用するのではなく、周囲の状況や別の説明、他の証拠との一致を確かめるよう求めている。

【証言】「あの人が言っていたから知っている」はどうか

次は証言である。

私たちが持つ知識の大部分は、自分で直接確かめたものではない

地球が太陽の周りを回っていることも、
徳川家康が江戸幕府を開いたことも、
遠く離れた国で戦争が起きていることも、
私たちは基本的に誰かの報告を通して知っている。

専門家、教師、家族、友人、新聞、テレビ、SNS。

誰かから何かを聞くたびに、私たちはその人の証言を知識の入口としている。

だからといって、「他人から聞いただけなら知識ではない」と切り捨てることはできない。

それでは、人間が世代を超えて積み重ねてきた知識のほとんどが成立しなくなる。

問題は、どの証言を、どの程度信頼するのかである。

その人は本当に専門知識を持っているのか。
その分野について語る立場にあるのか。
自分に都合のよい情報だけを選ぶ利害関係はないか。
間違えたときに訂正し、説明する責任を負っているか。

同じ「有名な人が言っていた」でも、
料理人が料理について語る場合と、感染症の治療について語る場合では意味が違う。

権威を持つ人の発言だから正しいのではない。

何について、どのような根拠を持って語っているのかを見なければならない。

【記憶】「覚えているから知っている」はどうか

三つ目は記憶である。

記憶がなければ、私たちの知識は一瞬ごとに消えてしまう。

自分が昨日何をしたか。
どこに物を置いたか。
誰とどのような話をしたか。
学校で何を学んだか。

記憶は、過去の経験を現在へ運び、個人の経験だけでなく、社会や共同体の知識を継承する

しかし、記憶は録画された映像のように、そのまま保存されているわけではない。

時間が経つにつれて細部は失われる。
現在の感情や、その後に聞いた話によって意味づけが変わる。
他人から繰り返し聞かされた話が、自分自身の記憶のように感じられることさえある。

「私は確かに覚えている」という強い確信と、その記憶が正確であること同じではない

だから草案は、記憶が作り直される可能性、時間の経過、感情の影響、他の証拠との一致を検討するよう求める。

自分の記憶を疑うことは、自分の経験をすべて否定することじゃあない。
その記憶を、どの程度の確かさで扱うべきかを考えることである。

【理性と推論】「ちゃんと考えたから知っている」はどうか

最後は、理性と推論である。
推論には、大きく分けて①演繹と②帰納がある。

①演繹では、前提が正しく推論の形も正しければ、結論は必ず正しくなる

たとえば、

P1:すべての人間は死ぬ。
P2:ソクラテスは人間である。
C:したがって、ソクラテスは死ぬ。

という推論である。

②帰納では、観察された複数の事例から、まだ確認していない事柄確率的に推測する。

毎朝同じ時刻に電車が来ているから、明日も同じ時刻に来るだろうと考える。
これまで見たカラスがすべて黒かったから、次に見るカラスも黒いだろうと予測する。

帰納的な推論は、新しい知識を生み出すために必要だが、結論を絶対には保証しない。


また、演繹の形式が正しくても、出発点となる前提が間違っていれば、結論も信用できない

P1:すべての魚は空を飛ぶ。
P2:マグロは魚である。
C:したがって、マグロは空を飛ぶ。

推論の形だけを見れば成立している。
しかし、最初の前提が間違っている。

どれだけ真面目に考えても、間違った前提から出発すれば、間違った結論へたどり着く。


草案はここで、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームの議論にも触れている

人間の推論は、経験と習慣によって形づくられている。

私たちは「これまでそうだったから、次もそうだろう」と考えるが、過去と未来が同じように続くことを、過去の経験だけで完全に証明することはできない

だからこそ、ヒュームは信念の強さ証拠の重みに応じて調整することを求めた。

重要なのは、四つの知識源のどれか一つを完全に信用することではない

感覚を証言と照らし合わせる。

・記憶を記録によって確かめる。
・推論の前提が、感覚や複数の証言によって支えられているかを見る。

草案は、すべての知識源は間違いうると明記したうえで、その信頼性は文脈によって変わり複数の情報源による裏づけによって高められるとしている。

「知っている」にも種類がある

ここまで「知識」という言葉を一つのものとして使ってきた。

しかし、草案は知識をさらに三種類に分けている。

①一つ目は、「Propositional knowledge(命題知)」である。

「東京は日本の首都であると知っている」のように、「〜である」という文で表現できる知識だ。

②二つ目は、「Procedural knowledge(手続き知)」である。

自転車の乗り方、泳ぎ方、料理の作り方を知っている。

これは、正しい説明を暗記しているだけでは身につかない。実際に行動できることによって示される知識である。

③三つ目は、「Knowledge by acquaintance(面識による知)」である。

ある人を直接知っている。
ある場所を実際に行ったことで知っている。
ある経験を身をもって知っている。

東京について本を何冊読んでも、実際に東京で暮らした人が持つ「東京を知っている」という感覚とは同じではない。


→これら三つの「知る」は、同じ基準では評価できない。

「東京は日本の首都である」という知識は、その文が正しいかどうかを問うことができる。
一方、「自転車に乗れること」は実際の行動によって、
「ある人や場所を知っていること」は直接の経験や関係によって示される。

哲学で「私たちは本当に何かを知ることができるのか」と問うとき、主な対象となるのは、このうち①の命題知、とりわけ外の世界についての「〜である」という知識だ。

草案が三種類を分けるのは、すべての「知る」に同じ基準を当てはめないためでもある。

知識に必要な三つの条件

それでは、命題知は何を満たせば知識になるのだろう。

認識論で古くから語られてきたのが、
「Justified True Belief」、略してJTBである。
(旅行会社ではない。)

日本語では「正当化された真なる信念」と訳される。

難しそうに見えるが、条件は三つしかない。

1.Belief――信じていること

まず、本人がその内容を信じていなければならない。

テストで適当に選んだ選択肢が偶然正解しても、本人が「これは違うと思う」と考えていたなら、その答えを知っていたとは言いにくい。

2.Truth――真実であること

次に、その信念が実際に正しくなければならない。

「東京はフランスの首都である」とどれほど強く信じ、もっともらしい理由を持っていたとしても、それは知識にはならない。

誤った内容を「知っている」と言うことはできない。

後から間違いだと分かったとき、私たちは「知っていたのではなく、知っていると思い込んでいた」と言い直す。

3.Justification――正当な理由があること

最後に、そう信じるだけの理由や証拠が必要になる。

窓の外を見て、道を歩く人が傘を差し、地面が濡れ、雨音も聞こえる。

そこで「雨が降っている」と信じる。

このとき私たちは、ただの勘で雨を当てたのではない。
信念を支える理由がある。

→つまり、
・私は「雨が降っている」と信じている
・実際に雨が降っている
・そう信じるだけの証拠がある

この三つがそろえば、「私は雨が降っていると知っている」と言えそうである。

草案では、古代ギリシアの哲学者プラトンの『テアイテトス』において、
知識には信念、真理、説明や正当化が関わる
という考えが提示されたと説明している。

厳密には、『テアイテトス』はこの定義を完成した答えとして採用して終わるわけではない。

それでも後の認識論では、JTBが知識の古典的な定義として長く議論されてきた。

信じているだけでは思い込みになる。
正しいだけでは偶然かもしれない。
理由があっても、その結論が間違っていれば知識ではない。

信念、真実、正当化。

三つを組み合わせることで、
知識単なる正解区別できるように思える。

しかし、本当にこれで十分なのだろうか。

三つ全部そろっても、「知っている」とは言えない?

時計を見たら、午後3時を指していたとする。

その時計は、毎日正確に動いている
・あなたは普段から時計を信頼しているため、「今は午後3時だ」と信じた
・そして実際に、時刻は午後3時だった。

その信念は正しい。
普段から正確な時計を見たという、信じるだけの理由もある。

JTBの三条件は、すべてそろっている。

ところが、その時計はちょうど24時間前から止まっていた。

たまたま時計を見た瞬間だけ
止まった針と本当の時刻が一致したのである。

それでも、あなたは本当にその時の時刻を「知っていた」と言えるだろうか。

おそらく、多くの人は違和感を覚える。

答えは正しい。
本人も信じている。
信じる理由も、本人の立場から見れば十分にある。

しかし、正解できたのは偶然である。

このように、正当化された真なる信念(JTB)でありながら、偶然によって正しくなった事例を「ゲティア型事例」と呼ぶ。

アメリカの哲学者エドマンド・ゲティアは、1963年に発表した「正当化された真なる信念は知識か?」というわずか3ページほどの論文で、JTBだけでは知識の十分条件にならないことを示した。

原論文をかいつまんで紹介しよう。

面接に来たスミスは、
「採用されるのはジョーンズだ」
と信じる十分な理由を持っていた。

ジョーンズのポケットには10枚の硬貨が入っていた。

そこでスミスは、
((採用される人のポケットには、10枚の硬貨が入っている。))
と考えた。

ところが、実際に採用されたのはジョーンズではなく、スミスだった。

しかもスミスは知らなかったが、
偶然にも自分のポケットに10枚の硬貨が入っていた

スミスの結論は、結果として正しかった

しかし、
スミスがその答えへたどり着いた理由と、
実際にその答えが正しくなった理由は、
まったくだったのである。

ここには、「Epistemic luck(認識的な幸運)」が入り込んでいる。

ゲティア問題が示したのは、
人間には正しい答えと十分な理由があっても、その理由と真実が適切につながっているとは限らない
ということだ。

では、何を追加すれば知識になるのだろう。

一つの考え方は、間違いや偶然が入り込まないほど、厳しい根拠を求めることである。

草案が生徒に評価させようとしている「Infallibilism(不可謬主義)」は、知識に誤りを許さないほど強い基準を求める。

しかし、その基準を厳しくしすぎれば、
私たちが日常で「知っている」と呼んでいるものの大部分が、知識ではなくなってしまう。


もう一つは、「Reliabilism(信頼性主義)」である。

信頼性主義では、その信念を生み出した過程が、通常どれほど高い確率で正しい答えを生むかを重視する。

十分に明るい場所で物を見る。
適切に管理された温度計で温度を測る。
複数の資料を照合し、訂正の仕組みを持つ報道機関から情報を得る。

絶対に間違えないわけではない。
しかし、同じ方法を繰り返したときに、
高い割合で真実へ到達できる

止まった時計は、たまたま一度だけ正しい時刻を示した。

しかし、時間を変えて何度も確認すれば、正しい答えを生み続けることはできない。

不可謬主義が「絶対に間違えない根拠」を求めるのに対し、
信頼性主義は「間違う可能性はあっても、通常は正しい答えを生む方法」を重視するのである。

AIが偶然正解したら、それは知識なのか

ここで、AIの話に戻ろう。

生成AIは、ときに存在しない文献や数字を、まるで確認済みの事実であるかのように答える。

しかし、いつも間違えるわけではない

一次資料を確認していなくても、
学習した大量の文章のパターンから、正しい答えを生成することがある。

では、AIが根拠を持たないまま偶然正解したとき、そのAIは答えを「知っていた」のだろうか。

これは、第1弾で扱ったAIは本当に理解しているのか」と似ているようで、少し違う問いである。

理解しているかではなく、その正解が知識と呼べる条件を満たしているかを問う。

AIに信念があると言えるのかという問題は残る。

それでも、少なくとも私たち人間がAIの出力を知識として利用する場合には、
その答えが生まれた過程の信頼性が問題になる。

答えが正しかったという結果だけでは足りない

どの資料を根拠にしたのか。
その資料は実在するのか。
同じ質問をしたときにも、安定して正しい答えを返せるのか。
反対の証拠を与えたとき、結論を修正できるのか。

AIが提示した答えをそのまま受け取った人間についても同じである。

たまたま正しいAIの回答を信じたことで、
「自分は知識を得た」と言えるのだろうか。

それとも、正しい答えを偶然拾っただけなのだろうか。

AIが知っているかを問うことは、同時に、そのAIを使う人間何をもって「知った」と考えているのかを問うことになる。

ここまで私たちは、「正しい答え」「知識」分けるものについて考えてきた。

しかし、どれほど条件を加えても、人間が間違える可能性を完全に消すことはできない。

感覚は錯覚する。
証言には偏りがある。
記憶は書き換えられる。
推論は誤った前提から出発する。
十分に正当化された信念さえ、偶然によって真になることがある。

それならば、もう絶対に間違えないことを「知識」の条件にすればよいのだろうか。

だが、その条件を本気で採用すると、私たちはさらに恐ろしい問いへ行き着く。

「目の前にある世界そのものが、すべて偽物だったらどうするのか。」

ニュージーランド教育省は、
高校生をこの問いから逃がさない

デカルトの悪霊仮説から思考実験「水槽の脳」、
そして現代のシミュレーション論証まで扱い、
本当に世界全体を疑わせようとしている

しかし、目指しているのは「何も知ることはできない」という結論ではない。

草案には、生徒が身につけるべき力がこう記されている。

“fallibility without collapsing into scepticism”
「誤りうることを認めながら、懐疑論へ崩れ落ちないこと。」


世界のすべてを疑ったあとで、それでも私たちは何を「知っている」と言えるのか。

草案はここから、知識を一度壊しもう一度組み立て直すところへ進んでいく。

ここでもその思考の道筋をたどりながら、
NZ教育省が高校生に世界のすべてを疑わせた先で、何を信じる力を残そうとしているのかを読み解いていきたい。

世界がすべて偽物だったら、私たちは何を知れるのか

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