東京大学「内田ゴシック」の本当の目的は!?〜東京建築祭2025④〜
東京大学 理学部2号館
めちゃくちゃ遅くなってしまったが、2025年5月に開催された「東京建築祭」のプログラムのひとつ『【東京大学理学部2号館】紡がれてきた知の風景ー東京大学キャンパスの建築を読み解く』(東京大学理学部2号館 4F講堂にて)に行ってきた。その話を書いておく。

このイベントの楽しさは、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授である加藤耕一さんが語る<東京大学の建築に関するお話>を、内田祥三さん設計で有名な内田ゴシックのひとつ「東京大学理学部2号館」(1934年竣工)にある4F講堂で聞けるということ。そう、建物好きの人間にはたまらない、2つの幸せを同時に味わうことができるのだ!
さて、イベント当日。
東京大学「赤門」からもほど近い「理学部2号館」を訪ねた。

このキャンパスにはこれまでも何度か入ったことがあるが、建物の中となると数えるほどしかない。そして「理学部2号館」に入るのは初めてだ。とても興奮したし、実際、入ったらもう、いきなりテンションが上ってしまった。まず、その階段である。

手すりの角度がめちゃくちゃ気持ちよくて、しかも踊り場のたびにそこが小さな展示スペースになっている。登っているだけで楽しくなる。
そんな階段を4階まで上ると、ちょっとした広場があって、そこから100人規模の大きな講堂に入ることが出来る。この広場には東大建築についてのパネル解説などもあった。で、ここから講堂に入ると、テンションはますます上がった。


格天井の階段教室。各所にかつての味わいを残しながらも、現役教室としての機能もちゃんと備わっている。そして、一番の感動は、左右両方の窓から見下ろした風景である。この二種類の風景を目の当たりにしただけでもお金払った価値があった。そこから見えたのは、「理学部2号館」の両翼の建物内景と中庭が作る圧倒的な風景である。
左が植物学教室側で、中庭には植栽がある。

右の動物学教室側には、中庭に飼育池がある。


ずっと見ていたいぐらいに楽しい風景だった。リズミカルなタイル壁、表情豊かな雨樋など、もう、最高である。いい感じの陰気さが、もう最高である。中庭の空間をバットマンが飛び交ってる姿が妄想できそうな、そんな風景である。
さて、そんな窓外を眺めているうちに、本日の主役、加藤耕一さんの講演が始まった。

(大学院工学系研究科建築学専攻)
加藤さんの講演は、彼の持論である「点の建築史」から「線の建築史」へ、という話から始まる。
どういうことか?
「点の建築史」とは、まさに「出来た瞬間」のことだけを重ねていく歴史。だから、○○○○ビル▢▢▢▢年竣工、○○○○ビル▢▢▢▢年竣工、○○○○ビル▢▢▢▢年竣工…みたいな「点」だけが積み重なっていく。
でも、それだと建築の「出来た瞬間」のあとのこと、つまり、「アフターライフ」があまりにも無視されている。建築には本来、完成したあとに長い年月の中で変化していく歴史がある。場合によっては、時間経過の中で同じ建築の機能が変わっていくことも多い。
そんな「作る建築史」だけじゃない「作ったあと」も扱う建築史こそが、「線の建築史」だと加藤さんは言う。20世紀までは「新築」のことばかり考える建築史が主流だったが、これからは「建てた後のこと」まで考える建築史が必要だ、と。
そんな方向性に続いて、以下、東京大学の「線の建築史」が語られていく。
その主人公となるのは、「内田ゴシック」という言葉でもおなじみ、内田祥三(よしかず)さん。1921年に東大工学部教授となり、1923年からは同大学営繕課長を兼務した。営繕とは、建築物の新築、増築、修繕、模様替えなどの工事を管理することで、その責任者となった。

近代日本の建築学者、建築家。
東京帝国大学第14代総長(1943〜45)。
※画像引用
今回の講演の会場となった「理学部2号館」も内田祥三さんの設計であり、内田ゴシックと呼ばれているが、丸いアーチだったりして、必ずしも純正ゴシックじゃない。フライングバットに似てる飾りもあるが、必ずしもそうではない。では、<内田ゴシック>とはいったい何だったのか?それについても、のちほど話す。

ちなみに、すぐ隣に、「医学部1号館」がまるで双子のように並んでいる。

※画像引用
なお、「今、この理学部2号館を救えキャンペーンをやっているよ」という説明もあった。→https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt197
で、この話から「お金」の話へ展開。
とにかくお金が必要になるよ、と。これまでも様々な篤志家たちのおかげで東大の施設は建てられ、そして、守られてきた。
例えば、
有名な「安田講堂」はそもそも安田財閥の安田善次郎氏の寄付のおかげで建てられた。「伊藤国際学術研究センター」は、株式会社セブン&アイ・ホールディングス名誉会長の伊藤雅俊氏と伸子夫人による寄付のおかげだった。さらに、「福武ホール」は、福武書店の福武總一郎らの寄付のおかげで建てられてきた。建物を作るためにも守るためにもお金が必要だ。

通称「安田講堂」
ここまでが前説で、ここから加藤耕一さんの話の本題が始まる。
東京大学の「線の建築史」だ。
1、キャンパスの歴史
現在、東大本郷キャンパスがある場所は、江戸時代は加賀前田藩の上屋敷があった場所だ。明治維新ののちこの土地が文部省のものとなり、1876年に東京医学校(東大医学部の前身)が移転してきた。翌1877年には、東京開成学校と東京医学校が統合されて「東京大学」が発足した。

※画像引用
ところで、加賀前田藩の上屋敷は安政の大地震(1855年)や明治元年(1868年)の火事ですでに消失しており、残っているのは「赤門」だけだった。赤門が作られたのが1827年、東大の発足が1877年なので、この時点で赤門は竣工からすでに50年経っていた。という訳で2025年現在、東京大学の歴史はだいたい150年、赤門の歴史は200年ということになる。なお、赤門が閉じている理由は耐震性の問題による。

※画像引用
さて、再び東京大学の話だ。
まず、学部の話。
東京大学は1877年に<医学部>が発足して以降、1884年に<法学部>と<文学部>、1885年に<理学部>、1888年に<工学部>、1919年に<経済学部>が誕生している。
続いて、学校名の話。
当初こそ「東京大学」という現在と同じ名前だったが、以来たびたび、まるで出世魚のように名前を変えてきた。その歴史をささっと振り返る。
1977(明治10)年に「東京大学」として誕生。以来、1886(明治 19)年に「帝国大学」、1897(明治 30)年に「東京帝国大学」、1947(昭和 22)年に「東京大学」と名前を変えてきた。
ところで、本郷キャンパスの地図を歴代見ていると、気になる場所がある。

※画像引用
上の地図の赤枠で囲った場所だ。
そう、この赤枠で囲われた、ちょうど今みなさん(理学部2号館で加藤さんの話を聞いている皆さん!)のいるあたりが、1900年当時は東京帝国大学の敷地じゃなかった。地図を拡大してみると、そこには「前田邸」と書いてある。そう、ココはかつて<加賀前田藩の藩邸>だった名残で<前田公爵家の敷地>だった。そこには、屋敷とお庭が残っていた。

※画像引用
ところが、関東大震災(1923年)の時、理化学教室から出火して三四郎池周辺の建物が焼失した。
そんなこんなもあって1926(昭和元)年に、この「本郷の前田家敷地」と「東京帝国大学が持っていた駒場の演習用農地」を交換することになり、前田家が駒場に引っ越した。その後も前田家の屋敷は帝国大学敷地内で保存されていたが、太平洋戦争で帝国大学の建物の多くは残ったが、旧前田家屋敷は残念ながら焼失した。

※画像引用
一方、前田公爵家のお引越しのあと、前田家の土地のうち北側の土地(地図だと左側)の建物類は取り壊されて、そこに新しい校舎が建てられた。「医学部1号館」(1931年竣工/設計:内田祥三)と、「理学部2号館」(1934年竣工/設計:内田祥三)である。
2、関東大震災から考える東大の「線の建築史」
先程も前田公爵邸の話の中で紹介したが、大正時代の後半、関東大震災(1923年)が関東地方を襲った。
結果、震災で煉瓦造の建物は壊れなかったが、屋根だけが火災で燃え落ちた。結果、屋根、床、家具が燃えて、下の写真のように煉瓦造の<構造>だけが残った。

※画像引用
ほら、ノートルダム大聖堂の火災(2019年)の時も屋根だけが焼け落ちたように、煉瓦造の建造物では屋根だけが木製であることが多い。木製だと日に弱い。火事が起こると焼け落ちてしまう。
そんな中、当時は通称「八角講堂」と呼ばれていた「法科大学講義室」の屋根だけは例外的に鉄骨製だったおかげで震災後も残ったが、火災の高熱のために溶けて使えなくなってしまった。(2枚前の写真を参照!)
しかし、煉瓦造の<構造>は問題なく残っていた。その気になれば、この時の煉瓦造の建築はその後も使えたと思う。と、加藤さんは言う。

東京帝国大学 法科大学講義室(1914年竣工/設計:内田祥三)の模型
@東京大学総合研究博物館のJPタワー学術文化総合ミュージアム
※画像引用
ところが、当時東京帝国大学の工学部教授を勤めながら大学の営繕課長も兼務していた内田祥三(よしかず)は、八角講堂の建物を壊し、この時代の最新の建築方法だった<鉄骨鉄筋コンクリート>によって新しい建物を作ることを決断した。

※画像引用
というのも、彼が震災(1923年)前から建て始めていた「工学部2号館」は、同年7月には完成していた(竣工は1924年)。だが、鉄骨鉄筋コンクリートだったおかげで震災を経験してもまったく無事だった。そこで内田は、震災前から始めていた大学全体の鉄骨鉄筋コンクリート化をさらに推し進めるようになった。

<キャンパスの復興と建物の解体/再利用>
そんな内田祥三がこの震災の頃から建て続けた建築群は、のちに「内田ゴシック」と呼ばれるようになる。
ここからは、そんな内田ゴシック絡みの「線の建築史」について。
1)解体された建物から部材を再利用
東大本郷キャンパスの中心部のあたりに「御殿下グラウンド」と呼ばれる本郷キャンパス内の運動場があるのだが、その北側に「御殿下記念館」(1988年竣工/設計:芦原義信)と「東京大学学生支援センター」(2010年竣工/設計:岸田省吾)が連なる複合施設がある。

ここに、わかりやすい「線の建築史」がある。
下の写真のように、「学生支援センター」についている複数の尖頭アーチのモチーフは、関東大震災で被災し取り壊された「旧工学部本館」(1888年竣工/設計:辰野金吾)の部材が再利用されていると言われている。

下の写真は、現在の「学生支援センター」の元になった建物(1933年竣工/設計:内田祥三)を建てた当時の写真。すでに、「旧工学部本館」からの部材転用が行われていることがわかる。この部材がそのまま「学生支援センター」(上の写真)に受け継がれている。

※画像引用
こんな風に、過去の建造物の部材を再利用する手法を「スポリア」と呼ぶが、内田祥三はこれらの建物を作る際に、いくつかのスポリアを実行している。
他にも、こんな例がある。同じ複合施設である「御殿下記念館」の北東の角にはエントランスがあって、下の写真のように3連のアーチが設置されている。これも同様に、辰野金吾設計の「旧工学部本館」からスポリアしてきたものだ。

※北東側エントランス
この3連のアーチをかつての「旧工学部本館」の写真から探してみよう。

※画像引用
ちょうど写真の真ん中に3連アーチが見つかるのだが、よく見ると、こちらの3連アーチは現存する3連アーチとは違って、真ん中のアーチのサイズだけが大きい。あれ、違う!
ところが、加藤さんは見つけた。

※中庭側3連アーチ
※画像引用
上の震災直後と思われる「旧工科大学本館」の写真を見てもらうとわかるように、中庭側の3連アーチは3つが同じサイズだった。たぶん、コレだ。高さが多少違っているが、それは石材を少し間引いたのでは?と加藤さんは考えている。
他にも、下の写真のように、同じ建物の両脇の壁面に印象的なデザインの窓があるのだが、これもスポリアのようである。

※北東側エントランス側面
※画像引用
この窓について加藤さんは、窓上部の正方形の飾り部分はかつての「工科大学本館」の2階の窓の最上段で、窓下部の十字窓はサイズ的に同1階の窓の下段を持ってきたのでは?と想定している。

※画像引用
このように、内田祥三は「ゴシック様式を基調とした鉄筋コンクリート造りのキャンパス」という合理的思考とは別の作業としてのスポリアを実行している。とくに窓枠などは、たまたま部材が無事だったから使った、という理屈では考えられない面倒なことをしてまで、「過去」を引用している。
だが、ここでひとつ考えるべきことがある、と加藤さんは言う。
内田が大学の建築に関する最高責任者である帝国大学の営繕課長兼任を命じられたのは、奇しくも関東大震災の2ヶ月前のことだった。そんな宿命から彼は震災後に、のちに「内田ゴシック」と呼ばれることになる、ある程度統一されたデザインの建築群を建て続けていくことになる。しかし、震災前に彼が手掛けていた「工学部2号館」や、「大講堂」(安田講堂)には、尖頭アーチのモチーフはあるが、そこには柱も柱頭もない。そこにあるのは、アーチの曲線だけだ。それは、表現主義と呼ばれる当時最先端のモダンデザインへの挑戦だった。

ところが、震災後に内田が震災復興のキャンパスの中で採用したのは、アナクロニズムとも言われかねないゴリゴリのゴシック・リバイバル様式だった。なぜ内田は、震災を契機に方向性を大転換したのか?
加藤さんはこの謎を、先程のスポイルという情緒的な事例をヒントに考えた。つまり、関東大震災によっていきなり過去の歴史とデザイン的に断絶させられるという危機を迎えていた本郷キャンパスにおいて、明治以来続いてきたその歴史と記憶を継承しようとした内田による、時間デザインの試みではなかったか?と加藤さんは推測する。
「物質的な継承」としては各種スポイルを、「形態的な継承」としては内田ゴシックを、この両面から内田祥三はそれを実行した、と加藤さんは語る。
実際、内田が次々と内田ゴシックの建造物を建ていた時代、<学校全体をゴシック様式でまとめるというスタイル>は、明らかに時代遅れだった。構造的には最先端の<鉄筋コンクリート造り>だったこれらの建物で内田がそれを実行したということは、時間デザインの試みだったと考えると納得できる。と、加藤さんは語った。
2)解体された建物の構造体そのものの再利用
過去の建造物が、他の方法で現在に受け継がれている例についても紹介された。
ここで前述の「八角講堂」の話が再登場する。この建物は関東大震災で屋根などが使えなくなったが、構造体は再利用可能だった。ところが、これからの時代は耐震性も含め「鉄筋コンクリート」であるべきと考えた内田は、「八角講堂」の壁面などはすべて壊して、地階を含む基礎部分だけを再利用することにした。そのため、震災後にこの場所に建てられた「法文1号館」は、基礎部と地階の壁部分までが「八角講堂」のものを再利用している。

東京帝国大学 法科大学講義室(1914年竣工/設計:内田祥三)の模型

上図のように古い基礎の上に鉄筋を打ち込んでいる様子が映っていた。
その写真のイメージを私が手描きしたイラスト。
だいたいこんな感じだった。
その結果、震災前の「八角講堂」(1914年竣工/設計:内田祥三)は下図のように「法文1号館」(1935年竣工/設計:内田祥三)として生まれ変わった。水色の部分は「八角講堂」時代の基礎である。

ちなみに、下の写真は私が「法文1号館」の隣りに建つ「法文2号館」の地上から覗く地階部分の写真だが、地上と地階でタイルの雰囲気が違っている。もしかして、こちらも「法文1号館」のように、地階&基礎部分に古い建物が転用されているのだろうか?

こちらは「法文1号館」にあわせてこのような形に作っただけなのかもしれない。
そのうち、現地に行ってちゃんと確認してこようと思う。
この写真は、数年前に別件で本郷キャンパスを訪ねた時、
「法文2号館」の地階部分が半地下的になっていたことが気になって
写真を撮っていた。
3)現代における建物キャンパスの継承
内田祥三以降、現代まで続く本郷キャンパスの歴史の中でも、過去をいかに繋ぐか?という試みが続いている。
例えば、理学部2号館の前に建つ「懐徳門」。
下の写真のように古い煉瓦造りの門扉の一部分がタイムスリップしたかのように、大学の新しい門扉と一体化している。

これも、前述した本郷キャンパスと隣接していた旧前田侯爵邸の門扉をここに移築したものである。その門の名前は、旧前田侯爵邸の別称である「懐徳館旧館」に由来している。
そのすぐ近くに建つ「総合研究博物館」(1983年竣工/設計:香山壽夫)には、敷地に独特のカーブが残っていてるそうだ。このカーブは、かつてここにあった旧前田侯爵邸の塀の形がそのまま残されていると、加藤さんは写真とともに説明していた。

※加藤さんが語ったカーブ部分の写真が見当たらず、
代わりに建物の正面写真をアップしておく。
※画像引用

また、こうした本郷キャンパスの時間デザインの象徴的な場所として、加藤さんは「総合図書館」前の広場の写真を紹介した。
ここからは、1927年竣工の「法学部3号館」(設計:内田祥三設計)から、2018年竣工の「ライブラリープラザ」(設計:川添善行)まで、様々な時代の建物が揃っている。その象徴として、1928年竣工2018年改修の「総合図書館」が中央に建っている。まさに、本郷キャンパスのフォロ・ロマーノ空間である。



2018年の総合図書館の改修工事の際に、図書館地下書庫を作るために2013〜2014年にかけて大規模な埋蔵文化財の調査も行われた。その時、明治時代の地層の調査では「旧図書館の基礎」(1892年/設計:文部省営繕課)が発掘された。この基礎は、地表面まで持ち上げて川添善行によって広場のベンチとして再利用された。(→3枚上の写真)
さらに掘って、江戸時代の地層の調査では、「江戸時代加賀藩の排水溝の遺構」まで見つかった。この場所は、1827(文政10)年に11代将軍・徳川家斉の娘であった溶姫が、加賀藩主・前田斉泰に輿入れした際に建てられた溶姫御殿があった場所で、この排水溝は現在の「三四郎池」まで繋がっていたらしい。この遺構も川添善行は地表面まで持ってきて、断面スライスにして広場のデザインとして残している。

※画像引用
4)終わりに
と、ここまでの本郷キャンパスの時間デザインについて語ってきたが、現在はこれらの空間資源を活⽤して世界最高峰のキャンパスデザインと研究・教育拠点を整備するための組織として、「キャンパスマネージメント研究センター」(CMRC)が作られて、築100年のスマートシティを目指しているそうだ。調査研究などは、最新の3Dスキャナなどによって楽になっていくということも強調していた。
感想
東大本郷キャンパスには、仕事やら何やらで何度かお邪魔したことがあるのだが、個人的には建物パークとして毎回堪能させてもらっている。毎回、それなりの時間的制約があるので、まだまだすべての建物を鑑賞できた訳ではないが、行くたびにいろんな発見があって楽しい。

(2018年)改修:川添善行

※個人的に大好きな建物だが、最近こんな記事を発見した。
「奥深き第二食堂建物(ニショク)」




東京帝国大学医学大学校内科学教授(のち学長)として教鞭を執る一方で、
伝染病研究所所長などを歴任し、日本の医学発展に尽力した。
日本最初の癌研究機関である癌研究会の設立者の一人。

明治6年(1873)に化学の講師として来日したイギリス人理化学研究者・教師。
工部大学校、理科大学で教鞭を執った。
あと、しばしば「内田ゴシック」って言われながらも、完全なゴシックとは言いづらいキャンパス内の建物群への疑問とか、いくつか気になっていたことの背景事情がわかって嬉しかった。
今回は滞在時間こそ短かったが、理学部2号館の中にまで入ることが出来て、しかも、この大学でこの大学キャンパスについて研究している人の話が聞けて、最高に楽しかった。

2025-12-28
