闇 684(ピアノの成仏編)
闇 684(ピアノの成仏編)

2026/09/11 fri
※闇シリーズはジャンルではなく、従来のアルバムとも小説とも違うものへと変異したものだった。だから、他人のアルバムに興味がないのと同じように、人気が出ないのは当たり前のことだった。だからこそ、AIだけがこの摩訶不思議なものに惹かれた。
前回の章

二千二十四年七月十一日、木曜日赤口。
仕事帰り歌舞伎町二丁目を歩く。
俺が歌舞伎町へ来た頃からホストはいたが、あの頃はまだ愛本店グループが主体だった。
本当にホストの数がウジャウジャ増えたもんだ。
当時西武新宿駅北口前にズラリと並んでいたロシアやウクライナ系の立ちんぼたち。
数年で彼女たちの姿は見えなくなり、代わりにアジア系の女が大久保病院周辺で立つようになった。
それが今じゃ日本人の若い女が立っているんだもんな。
今の日本、本当に大丈夫なのか?
やれコンプライアンスだのつまらない事を言い出して、その結果がこれだもんな。
社会の主導性を担う人間のほとんどが、底辺の日本人の実際の痛みを何一つ分かっていないからこそ、このような結果になっている。
辺りを見回せばラブホテルの山。
身体一つで立って男に声を掛け、交渉成立すれば数万の金が手に入る。
ホテルなんて五万とあるのだ。
ひもじい思いをして立った女は、やがて下手なサラリーマンよりも瞬間的な金を持つ。
生きる為に仕事として選んだ彼女たちは、余裕ができた途端心に空いた穴を埋めようと、見た目がいいホストへ流れる傾向が多い。
始めは千円…、凄いところだと無料。
撒き餌に食いついた立ちんぼたちは、ホストへ行く為に歌舞伎町の道端へ立ち仕事をする。
凄い図式だよな……。
生活水準を一度上げてしまうと中々元には戻れないというが、根本的な基礎を知らないからそうなるのだ。
俺が二度目の新宿復活を決め、この街に戻ってきた二千十一年にはゲーム屋などほぼ消えて、インターネットカジノ主体の街になっていた。
そこで見た当時二十代前後の若い子たち。
彼女たちの末路はほとんど同じ構造を繰り返す。
ホストへハマり、空いた時間をインカジで潰す。
仕事があると外へ出て客とホテルへ。
住む場所を持たない子たちが本当に多かった。
やがてホストにはらまされ、腹が段々大きくなりこの街から消えていく。
俺が四十歳になった頃、自分が見てきた光景は、こんな感じだったっけ。
職安通りを渡り、大久保通りまで真っ直ぐ進む。
二十四時間営業のハナマサへ到着すると、色々な肉を眺めた。
あの時の子たちは、何故ある程度得た金で、マンションを借りずにホストへすべて使ってしまったんだろうか?
もう名前も忘れてしまったが、インカジ『餓狼GARO』の時毎日のように来ていたユノユノの連れの二文字の可愛い女の子の台詞はまだ覚えている。
「パパのところへ泊まりに行きたいなあ」
当時四十歳の俺は、二十代の客の子たちから何故パパと呼ばれていたのか?
同世代の父親と上手くいかずに家出。
生活をする為に歌舞伎町へ来て、キャッチに連れられてインカジを知った。
そこでは無料で俺の作ったご飯が食べられる。
細かい金にもならない子たちだけど、一応客だから俺も丁重な対応はしなければならない。
おそらく彼女たちは、父親と同世代の俺を見て、勝手に理想像を想ってしまった。
だからパパと呼び出したのだろう。
モツが目に留まる。
今日はこの肉が特売らしい。
モツ煮でも帰って作ろうかな。
途中で止まりに来る出口に対し、ミネストローネスープを作ると約束していたのを思い出す。
もう材料的にミネストローネ無理じゃん……。
残っている食材を見て、カレーで埋め合わせればいいかと思い、作り始める。
『でったんごめん、材料の都合からもつ煮とチキンカレーになっちゃったんだけど、大丈夫? 岩上12:25』
ある素材でできる限り美味しい料理を。
調味料の組み合わせ、そして掛ける時間と手間。
よく料理は愛情というが、これらをまとめた言葉なんだろうな。
インカジ『レディ』へ出勤する時間が来たので火を止め、仕事の準備をする。
『全然大丈夫です! ありがたいです。 出口16:32』
業務中にでったんから連絡が届く。
そういえばサンドイッチの記事を出す度、彼は絶賛していたな。
『アメリカンクラブハウスサンドは来てから作るよん、 岩上16:33』
もう自称俳優へあげなくても、俺の料理を食べたいと言ってくれる人間がいる。
実家に居た時は、誰も俺の作ったものを毛嫌いして口にしてくれなかったからな。
でも二度目の歌舞伎町で、多くの人が俺の料理を好んで喜びながら食べてくれた。
初めていった横浜でも生活でもケースは違うが同じだった。
もう心についたあの時の傷は、充分癒えたろ?
『岩ヤン、今夜も甘えて良いですか? 岩ヤン家のあたりで、待機しておくね! 出口22:16』
出口からの連絡。
今大久保にいるのか。
電話を掛け、あと一時間ぐらい仕事だからと伝え、大久保駅で待ち合わせる。
帰ってすぐ料理の準備でもてなすのは無理なので、行きつけの店でまず九州から来た彼を迎えようと思った。
業務を終えて、急いで駅へ向かう。
数ヶ月ぶりの再会。
まずは彼の荷物があるので、自称俳優マンションへ行く。
部屋の合い鍵を渡し、モツ煮とカレーは用意してある事を教える。
「でったん、モツ煮どのぐらい食べる?」
「普通でいいよ。これ何十人分あるの? これは一人じゃ食べられないよ」
じゃあこなもんのマスターにほとんどあげる事にしよう。
大きなタッパヘモツ煮を入れる。
これで俺たちが数回お代わりすれば無くなる分量になったぞ。
こなもんへ行くと、今日は臨時休業。
仕方なく小滝橋通りまで行き、居酒屋しょうちゃんへ入った。
二千二十四年七月十二日、金曜日先勝。
おそらく大久保界隈の居酒屋では、一番良心的なのではと思うこの店。
串市場ん時代で知り合った柏原が、最初に連れて来てくれた。
しょうちゃんのマスターへ、モツ煮がたっぷり入ったタッパをあげる。
中国人の彼はたどたどしい日本語で「これ、岩上さん、作ったか?」と驚いている。
確かにまだこの店へ来て四回目ぐらいの客から、いきなりモツ煮作ったからと大量に入ったタッパを渡されたら、誰でもそうなるよね。
まあ喜んで貰ってくれてよかったよ。
ここでは定番の蒸し鶏のサラダに焼き鳥、期間的にしかないメニューを見て、ピーマン肉詰めなどを頼む。
「急に泊めてってごめんね。僕がここの会計出すからね」
「いやいや、俺が出すって。でったんが泊まりに来るのは前から分かっていた話じゃん。それが一日早くなっただけでしょ」
「そうかもしれないけど、ここは出させてよ」
「うーん…、せめて割り勘じゃ駄目?」
「駄目!」
俺が奢られるか…、何だか懐かしいというか久しぶりの感覚だな。
自称俳優の若菜龍平の存在が本当に疎ましく感じる。
あの馬鹿は常に「ゴチになります」で、邪魔はするけど何の役にも立たなかったからなあ。
柏原との共有ボトルはまだ半分ぐらい残っていたが、俺はしょうちゃんへ会計後、もう一本ボトルを入れるようお願いした。
「え、岩上さん、まだ半分残ってるヨ?」
「ほら、このボトルって柏原さんと共有じゃないですか。だからここまで減らしてしまったんで」
「じゃあ岩上さん、マジックでプラス1って書いとくネ。お代もらてるから、コレ空いたら次またボトル出すあるヨ」
「ええ、それで構いませんから」
俺も仕事帰りだし、早くスーツを脱いで楽になりたい。
マンションへ戻ると、真ん中の部屋のテーブルを隅に寄せ、買っておいた布団一式を出す。
「ごめんね、岩ヤン…。何から何まで」
「つまらない遠慮や気遣いはいらないって。この部屋は自由に使ってね。あと冷蔵庫にドリンクは何でも入っているから自由にどうぞ。酒も俺、ビールは飲まないけど、ウイスキーや焼酎系なら完備あしてあるからさ。横にあるのは冷凍庫で、一番上の引き出しに氷があるから」
酒を飲んで帰ったのもあり、お互いこの日はすぐ眠る事にした。
「岩ヤン、シャワー借りてもいい? バスタオルも用意してきてあるから」
「でったん、いちいちそんな事断らずに勝手に使ってよ。あ、バスタオルさ、以前キャバ嬢から引越し祝いでもらったのあるんだ。おニューだからそれ使っていいよ」
あの時ちかからもらったバスタオルは二つ。
一つはすでに使っていたので、もう一つはでったんが使っても全然構わなかった。
もし今でもちかとの関係が続いていたら、絶対にこうはなっていないけどね。
今日から俺は明日まで連休。
出口は仕事と私用もあるので、その時はちょっと出てくるようだ。
風呂から出たでったんは、キッチンのところの照明を見ながら口を開く。
「ねえ、岩ヤン。ここの照明って頭ぶつかって邪魔にならない?」

「そうそう! いつも料理してて何度もぶつけるもん。本当この自称俳優のマンション、もっと考えて照明とか作れよとかその度に思うもん。それより腹減ったでしょ? ちょっと遅めの時間のモーニングの料理の準備をするよ」
「じゃあ僕は、ちょっとここの照明を見させて」
「まあ何でもいいけど」
俺はモツ煮を温め、アメリカンクラブハウスサンドを作る準備を始めた。
今回はパンの裏地に、昨日作ったチキンカレーも薄っすら塗って特別感を出す。
フライドポテトに白身魚フライも揚げて、フィッシュアンドチップス。

「あとカレーもあるんだけど」
「いやいや、モツ煮もあるし、そこまで食べられないよ」
「足りなかったら遠慮なく言ってね」
「あ、これ本当に美味しそうじゃなくて、美味しいじゃん! 岩ヤン、お店開いた方が絶対いいって!」
「嫌だよ。勝手に自分で作りたいものを作るから楽しいんじゃん。それに今の仕事で月に五十万から六十万稼げるのに、客からあれ作れ、これ作れと言われて作って収入は不安定、食料ロスだってあるし、経費だって掛かる。飲食店なんてやるもんじゃないって」
「うーん、勿体ないと思うんだけどなあ……」
酒はいい。
客さえ集めれば、出しておしまいなのだから。
つまり若い頃思い描いたバーだったらやってみる価値はあるけど、最近原酒の料金に対し、国が税金急に上げてきたからな。
グレンリベット十二年も、業務用スーパーやドンキホーテで三千円で買えたものが、今や四千円台半ばから五千円前後まで値上がっているもんね。
タバコも俺が学生時代の頃はセブンスターが二百二十円だったのに、今じゃ六百円。
それでいて消費税がだの増税云々って、政治家あんなにいて意味があるのか?
「ご馳走様でした。本当に美味しかった。ねえ、ちょっとさ電気系のもの…、工務店って言ったらいいのかな? そういう店って近くにある?」
電気や木材を売っている店に行きたいと言い出したので、一回外へ出て大久保通りを歩く。
近くのドンキホーテへ連れて行くも、ここでは欲しいものがないようだ。
確か通りの先を行った右手に、材木とか電気系の商品を扱った店があったよね。
新大久保駅のガードを過ぎた角の花屋で、奇妙な観葉植物が目につく。
子宝弁慶草っていうのか。
植物なんて、岩上整体時代に新宿クレッシェンドの文学賞受賞の時、後輩の花屋の花鐵雄太と患者でもあり美容室オーナーの橋口さんからお祝いで頂いた時以来かも……。
「岩ヤン、どの辺にあるの?」
「あ、もうちょっと先。本当さ、この横断歩道を渡ると、原宿じゃないけど、韓流好きな馬鹿女がたくさんいて本当にウザいんだよね」
人混みを掻き分けながら工務店まで行き、帰り道に先ほどの花屋で子宝弁慶草を買う事に決めた。
葉っぱの回りにさらに粒々の小さな葉のようなものが咲いている奇妙な植物。
調べると正式名称はカランコエ。
観葉植物でなく驚異的な繁殖力を持つ多肉植物らしい。

「あ、キッチンところの照明さ、僕がさっきの店で照明買ってきたから、取り換えてもいい?」
「ん、どういう事?」
「いつでも戻せるよう元の照明は押し入れに入れとくからさ」
「よく分からないけど、どうぞ」
彼はキッチンの照明を手慣れた作業で交換し、新しいものを取り付ける。

「おぉ! でったん凄い! 何でそんな事できるのよ?」
「一応電気工事士は持っているからね。さっき岩ヤンが料理をする時、絶対邪魔だろうなと思って買い物に行ったんだ」
昔からの同級生っていいもんだなと、この時しみじみ実感した。
損得勘定抜きにした思いやりだけの関係性。
「ねえ、でったん。爪の垢もらえる?」
「爪の垢? どうして?」
「この下の階に住む無職で働かないくせに自称俳優と言っている人間に、爪の垢を煎じて飲ませるから」
あの詐欺事件当日の騒ぎだけでなく、かつて様々な邪魔をしてきた若菜龍平には最善の薬になるだろう。
俺はパソコンで、八日に執筆した闇をまた推敲を始める。
時折りタバコが吸いたくなると、ベランダへ出てセブンスターに火をつけた。
河本マンションのメガネザル大家が、自分のところの植物に水をあげているのが見える。
旦那のほうまで出てきてしゃがんで何か作業を始めだした。
守銭奴で滑稽で大久保で一番醜い台湾人夫婦め。
俺は携帯電話を取りに戻り、ベランダから大家を撮影した。

人から手書き請求書で、毎月三万も四万も毟り取りやがってよ、あのクソ共。
「ねえ、でったん。ちょっとベランダへ来て」
「どうしたの?」
「ほら、あれが前に言っていた河本マンションの大家夫婦」
「何か見るからにヤバそうな人たちだね……」
「あ、タバコは室内でなく、ベランダでお願いね」
「僕はタバコ吸わないから大丈夫だよ」
時刻を確認すると、一時を回っていた。
さっき遅めの朝食を取ったとはいえ、これじゃ昼食も大幅に遅い。
先ほどの照明のお礼ではないが、俺は彼が部屋に泊まりにくると決まった時から、食事や酒、寝床の世話はすべてもてなすと思っている。
「そろそろお腹減ったでしょ? 朝はパンだったから、今度はご飯にするからさ」
「じゃあ昨日から作っていると言っていたカレー?」
「それじゃ芸ないし、しょうが焼きやサラダぐらいは一緒に出すよ」
「それは楽しみ!」
予め研いで準備しておいた炊飯器のスイッチを入れる。
チキンカレーは、ずっと煮込んで寝かしてを繰り返してきたのだ。
また火を入れて温めた。
サラダはシンプルなほうがいいかな。
キャベツをひたすら千切りして水で洗う。
フライパンにゴマ油、豚肉入れて、酒入れて蓋して蒸し焼きして、味を整えしょうが焼きの完成。
炊き立てご飯の上にしょうが焼き乗せてと……。

あ、カレーあるのに丼ものにしてしまった。
まあいいか。
少なめにご飯を別の皿によそい、カレーを注ぐ。

「はい、お待たせしました」
「え? 両方ご飯あるよ?」
「ままま、このぐらい大丈夫でしょ。あ、モツ煮も出しちゃおうか?」
「いやいや! 頑張って全部食べます」
そういえば事前にミネストローネスープ作るって言っていたけど、作ろうかと聞いたら、絶対にもう入らないと言われるだろうな。
「ねえ、でったん。足りなかったらミネストローネも今から作ろうか?」
「もう無理! これ、本当に美味しいけど、量がそこまで入らないよ」
俺って人に食べさせて喜ぶ顔を見る事に、至高の幸せを感じるタイプなんだと自覚する。
あと人が困った顔を見るのも好きらしい……。
食事を終え、それぞれ自分の自由な時間を過ごす。
俺は作った料理をブログへまとめ、出口は仕事のスケジュール調整。
闇の推敲をしながら、箇条書きのような携帯電話で打った文章を加筆し整えていく。
まるで内容が鬼畜道のようやくのようだ。
俺の人生を赤裸々に嘘偽りなく書いているんだから、同じになるの当たり前か。
唯一違う点が、鬼畜道の主人公が神威龍一なのに対し、闇は俺の実名岩上智一郎という表記の違いだけ。
まあ今の俺に何がある訳でもない。
裏稼業で働き、詐欺や散財などたくさんの被害に巻き込まれた哀れな五十二歳の男。
パンドラの箱を開いてしまった惨めな男が最後に残っていたもの。
それは希望ではなく執筆という書く事しかなかったという事。
昔書いた鬼畜道をそのまま貼り付けちゃえば、楽なんじゃないの?
いやいや、そんな事したら、十三年ぶりの執筆にならないだろ。
面倒でもまた自分の指で一つ一つ文字を打っていくしかないのさ。
むー……。
むーじゃないよ。
鬼畜道で書けなかった部分、新宿コンチェルトで嘔吐して止まった部分まで来て、本当に自分が書きたかったこれまでの人生に入れるんだろ?
また吐かないかな?
さあね、そんなのそこまで書き進めないと分からないさ。
それでも岩上整体の話、KDDIなどのサラリーマン時代。
辞めて休業補償をもらいながら、どっぷり文学の渦に巻き込まれた頃。
また表の世界でたらい回しに働いた時期。
書く事は、いっぱいあり過ぎるだろ。
ちょっと待って……。
えっとさ…、そのあと二度目の新宿歌舞伎町復帰で、インカジ時代突入。
そこで何軒だよ?
たらい回しされて、初の横浜に。
今何年だよ、それらが二千十二年までだろ?
「……」
平和だった二年間の横浜生活。
そしておじいちゃんの訃報。
それから新宿へ三度戻り、新宿クレッシェンドの名を冠したインカジで失敗して、翌年ヤクザ経営のゲーム屋。
ここまでが地獄変だよ!
知ってるさ、じゃあ次は?
新天地を求め、二度目の横浜。
あのクソみたいな人間性の矢田部のインカジから始まった。
若頭の三田が矢田部追い込んで、かつての同僚の平田の話だとあれ以来横浜で見た事はないと何年前に聞いたじゃないか。
もうあんな男などどうでもいいだろ?
意趣返しはとっくに済んでいる。
この手で実際に殴れなかったのが、未だムカついているんだよ。
いいじゃないか。
ヤクザの若頭がそれじゃ相手を殺しちゃうからと、代わりに動いたんだから。
ほら、まだ書く事あるんだろ、次は?
イワカミ工業……。
うん、あったね、そんな時期も。
はい、次。
さっきの若頭の店インカジ『ハッピー』。
ああ、あれでヤクザと関わっちゃ碌な目に遭わないって学んだね。
「……」
二俣川の旭総建工業の戸田…、俺はあのクソ野郎にまだ借りを返していない!
はいはい、自殺一歩手前まで追い込まれた戸田ね。
悔しいね、じゃあ今から殴りに行くの?
うっせーよ!
だったら書かなきゃ、全部。
果てしなく長くならないか?
しょうがないさ、それだけ全部潜り抜けてまだ生きているんだから。
だからこそフェイスブックに、写真を載せてこの日は何を食べた、あの日は何をしたってずっと十数年もやってきたんだろ?
そのまま史実通り、すべて書くんだよ。
その為に記録を俺はつけていたと言うのか?
何をカマトトぶっているんだよ。
まだ書く時期ではない。
いつか機が熟したら。
全部自分で勝手に書いていた言葉じゃないのか?
その通りだ。
じゃあその時期が来たのか?
だから闇を書き始めたんだろ?
そしてロマンス詐欺に遭った時、何故こうなったかを振り返る為に、そう書いた。
十三年ぶりにね。
あの比較的平和だったラッキーハウス時代も?
ここまでの五十二年間の人生で、その四年間だけ空白にするのか?
「……」
そのあとだろ?
真地獄変を書き残すのは。
何でこんな長さの事を書かなきゃいけないんだよ!
だって自分で言ったんじゃん。
何故こうなったのか、一から自身の人生を振り返ろうって。
ブログに闇をもう発表しちゃったよな?
それで出だしを何て書いた?
五十歳で心筋梗塞……。
ほら、もう自分でスタートを切ってしまったんだよ。
それだけ長いのは、自分で勝手にいじけて十三年間書かなかったツケ。
あのさ、書いた闇が一章だとしたら、まだこれを推敲して加筆しているんだよ?
何章になると思ってんだよ!
しょうがないね。
書かなかった自分が悪い。
見切り発車で発表した自分が悪い。
神田のせいか?
詐欺の若香のせいか?
それとも若菜龍平のせいか?
ぐぬぬ……。
「岩ヤン、せっかくの新宿だからさ、どこか行かない?」
出口から声を掛けられる。
地獄の自問自答なんてしていないで、でったんとどこか気晴らしに楽しいところへ行ったほうが、精神衛生上いいし彼にも失礼じゃない。
楽しいところ…、中野のブロードウェイ!
「でったん! 大久保からだと二駅だし、ブロードウェイなんてどう?」
「いいね、中野近くて」
俺たち五十二歳の男二人は、総武線で中野駅へ向かった。
お目当ては当然ブロードウェイ。
三階へ進むエスカレーターで、古本屋のまんだらけへ行く。
セットで全巻売っている漫画も多く、物凄い本の数。
おいおい、漫画のデータなんて、ここにあるよりも倍以上持っているだろ。
見ていると、買いたくなるんだから別の場所へ行け……。
ドラゴンボールのフィギュア。
鳥山明先生、亡くなるの早過ぎるって。
何かのブランド物のお店はどうでもいい。
ガラスに水が流れていて、金を掛けているな。
三十代の頃、アコギな玩具屋玉屋の三階にあったキャバクラが、同じ壁を使っていたっけ。
すぐ潰れたけど。

『変や』と書かれた店は、昔のプラモデルを始め、懐かしい玩具、不二家のペコちゃん系グッズ、プロレスラーのスタンハンセン、今は亡きテリーファンクにアンドレザジャイアントのフィギュアが飾られている。
俺、二十代の頃、本当にこれらのレスラーと会い、同じ空間でトレーニングして身体を作っていたんだよなあ……。
確かにへんてこりんな店だ。
出口が鉄道を好きらしく、彼の趣味の店を探す。
電車の部品…、こんなものを欲しがる奴いるのか?
鉄道マニアなら涎ものの店なんだろうけど、俺はまったく興味がない。
自分の好みそうなものは、昔の映画のポスター屋や昔のサンデーやジャンプの雑誌を売る店。
寿命の短かったレーザーディスクを売る店。
手塚治虫の初期型の大型本を扱いところなどだ。
「中野ジンガロ横丁? 何だこりゃ? でも閉店らしいよ」
「こっちも外構えだけでやっていないね」

「ここも営業中と書いてあるのにやっていない。何なんだ、中野ジンガロ横丁って」
「あ、あっちに懐かしいもんあるよ」
懐かしきアメリカのバンドのキッス。
記憶だと本物じゃなく楳図かずおのまことちゃんで知っているぐらいなんだよね。
「あ、百メガショック! ネオジオ!」
「ゲームは僕、全然分からないよ。でもこの辺のって、ファミコンが出るよりまえのやつでしょ?」
「うん、ファミコン出る前だね。ゲームウォッチとか、ブロック崩し系のやつね。パックマンしかできない小さな筐体とか。確か一つくらい家にあったかも。家探しすれば出てくるかもね」
「ねえ、岩ヤン、あれって人形屋? 誰も客がいないよ?」

フランス人形だろうか?
これも写真のアルバムと似たようなもので、個人が好きで大事にする類いのもの。
あまり他の人間からには価値を感じないし、常に接している本人の愛着だけが増幅していく。
だからその人が亡くなったあと、怨念めいたものが宿っているようで、人形は薄気味悪く怖さを感じるのかもしれないな。
お目当てのクソ高い値段設定のプロレスラーの使用した本物のマスク。
ついついブロードウェイ来ると、ここには寄ってしまう。
「初代タイガーマスクの覆面三十八万五千円だってさ!」
「岩ヤン、こっちに岩ヤンの好きなキン消しあるよ」
「二十円重ねて入れる昔のガチャガチャまであるじゃん」

「あ、今度は本当に営業しているジンガロがあるよ?」
「他に別の喫茶店も色々あるよ、この建物は。マグロ山掛け丼とかあるよ、変な店」
ここへ来ると、おそらく懐かしい童心へ返れるのだろう。
普段年がら年中、札を数え、客の機嫌を取りながら日々を過ごしているので、こうしたひと時は何にも代えがたいものだ。
「昔の王長嶋現役時代の巨人軍だ。うちの親父、長嶋が大好きでね。今でもトイレに当時の白黒写真貼っているもん」
「トラック野郎とか、それより昔の映画のポスターがあるよ」
実家の前にあった映画館『ホームラン劇場』で、トラック野郎はリアルタイムで観たっけ。
確か演歌歌手の石川さゆりが出たやつ。
小学校二年生の時、梅組に転校してきた内田さやかを見て、ちょっと似ているなと思って話し掛けたけど、彼女は何も理解しなかったよな。
「そろそろ前回でったんのお勧めで行った地下降りて、ソフトクリームでも食いますか」
「あ、チコでしょ! いいね」
「この値段表さ、特大で千円ってヤバいよね」
「まあその金額でみんな多分楽しさを買うんだよ」
地下はスーパーだけでなく立ち食いソバ屋や、コーヒー豆も売っているコーヒーショップまである。
鶏肉専門店宮川商店に、鰻も海鮮も売ってるぞ。
「ねえ、ちょっと仕事の電話入ったから、話してくるね」
出口が電話に行くと、俺は地下街を彷徨い歩く。
奥の占いコーナーまで行くと、待つ時間をここで潰そうかなと料金表を眺めた。
十五分二千円、三十分三千円…、やってみるか……。
「すみません、最初にお金払いますね、三十分で」
「代金は終わってからでいいですよ」
年配女性占い師は、後払いだと金を受け取らない。
結局占い師の話が三十分過ぎても出口から連絡がなかったので少しだけ延長。
ダラダラどうでもいい話をされている時、ようやく電話が入る。
「友達いるのでもう行きたいんですが…」
「じゃああと五分でちょうどいいから」
結局四十五分で六千六百円取られた。
消費税までしっかりと。
十五分二千円掛ける三回の計算かよ。
三十分三千円と十五分だから、おかしくないか?
どうせなら一時間にしろ。
こういう狡い真似をするから、次から利用しなくなるんだよ。
インチキ占い師め。
でったんを外に待たせていたので、仕方なく文句も言わずに出る。
帰ろうとしたら、何故か発車した電車がホーム途中でいきなり停まった。
「帰るの遅れるやんけー!」
「まあ電車のトラブルはしょうがないよ」
「だってさ、写真五十五枚もあるんだよ? こんなに撮るんじゃなかった。gif画像作ったり、写真を全部ブログへ載せたりしながら記事を書かなきゃいけないんだよ?」
俺が怒りながら言うと、出口はそれを見て笑っていた。
大久保駅へ戻り、マンションへ行こうとすると出口が話し掛けてきた。
「ねえ、岩ヤンがよく行っている中華って、近くなの?」
「中華? えーと、どの店だろう? ここから一番近いのは小滝橋通りの寿楽。あとは新大久保駅まで行ってから曲がった先に大明飯店」
「どっちか分からないけど、岩ヤンが店のおばあさんと仲いいところ」
「はいはい、大明飯店ね」
「写真見てて、ああいう店行ってみたいなあと思ってさ」
「いいよ、じゃあ行ってみようか? あ、最初に言っとくけど、会計は俺が出すからね。昨日のしょうちゃんでご馳走になっているし」
大久保通りを真っ直ぐ歩き、俺から散々金を回収した忌々しいパチンコ屋エスパスを右折する。
俺はエスパスの壁に向かって、吸い掛けのタバコを投げ捨てた。
「駄目だよ、ポイ捨ては」
「普段なら俺もしないよ。ただ、このクソパチンコ屋は本当に酷い店なんだ。なんせ俺がこっちへ住み出した頃、通って五十万円ぐらい使ったのに、一度も勝った事が無い悪徳店なんだよ」
大久保へ住むとっかかりとなったアスクルーム前を通り、もうこんなウサギ小屋で寝泊まりする事はないだろうなと懐かしむ。
大明飯店へ着くと、おじいさんへ声を掛ける。
「今日は小学校時代の同級生も連れて来ましたよ!」
「おお、良かったら奥の席へどうぞ」
「でったん何頼む? 俺はねー、お茶ハイと、レモンサワー! あと餃子と……」
「僕は暑いから最初はビールがいいかな」
「じゃあ、おじさん。酒と餃子をとりあえず二人前お願いします」
カレーライスに卵とウインナー炒め定食、さらに冷やし中華を注文。
今日は帰ってから、俺が料理しなくていいね。
隣りの席に七十歳ぐらいの初老と、三十代ぐらいの黒髪ロングのメガネ美人が腰掛ける。
女は清楚でかなりタイプだった。
店が気を利かせて餃子が一人前ずつ別々の皿で出てくる。
俺はちょっと気を利かせようと、隣りの席へ声を掛けた。
「あのー、良かったら、先に餃子一皿どうですか? うちらは先に色々頼んでいるからこれからバンバンくるし、お酒飲むのにつまみあったほうがいいでしょう」
「え、そんな悪いですって」
さっさと素直に受け取れよ。
俺はこれを取っ掛かりにあんたの連れのメガネ美人に格好つけたいんだから。
「熱々の餃子ですよ? 彼女さんも出来たての餃子あったほうがいいですよね?」
「あ、はい……」
テーブルに餃子を一皿置く。
ふむ、胸はあまりないな。
それでもこの大人しそうな女が、どんな喘ぎ声を出すんだか。
「では、お邪魔しました」
「本当に気を使って頂きありがとうございます」
初老の男がトイレで席に立ち、俺はそっとメガネ女を眺めた。
こういう女って、何かいいなあ……。
食事をしていると、でったんが小声で囁いてくる。
「ねえ、岩ヤン。多分僕、隣りの人って知り合いかもしれない」
「え、何で?」
「以前僕が今の建築系の仕事する前、学校の教師をしていたのは話したでしょ」
「ああ、確か音楽の先生を高校でしていたんだっけ?」
「その音楽協会の関係で、昔会った事あると思う。かなりお偉いさんなはずだよ」
「じゃあ、トイレから戻ったら話し掛けてみなよ」
これは何という大チャンスだろうか。
正に天命ともいえる矜持。
まさかこのタイミングで餃子から清楚な黒髪メガネ美人と知り合いになって、やがて結婚とか?
何だよ、あの高円寺の手相占い師の西谷泰人の言葉が、ひょっとしてここで実現しちゃったりしてね。
「そうですね、歳はあなたより少し若くなるのかな? 十歳ぐらいの年齢差で、それでも外見というよりも、心を尊敬するような方ですね」
そう…、若香と違いメガネはとてつもなく清楚で美人。
俺、こういう子大好きだもん。
それに音楽業界の大物という事は、当然彼女のそっち系なはず。
つまり俺が三十代の頃のピアノ経験とも繋がる。
自分よりピアノを弾ける人間を、俺は素直に心から尊敬する。
中々やるじゃん、西谷泰人め。
出口は初老の男と本当に知り合いだったようで、当時の音楽の話で盛り上がっている。
傍観者に過ぎない俺と清楚メガネ。
これは大チャンス到来でしょ。
とりあえずセブンスターに火をつけた。
落ち着けよ?
未来の嫁への初動なんだ。
ゆっくり煙を吐き出す。
すると彼女がさり気なく手をパタパタしているのが視界に映る。
しまった!
この子と結婚したら、俺はタバコを辞めなければいけなくなるかもしれない。
「あの…、音楽関係の仕事をされているんですか?」
さり気なくでったんと初老の会話を搔い潜り、メガネに話し掛ける。
この間合いは、かつて俺が総合格闘技の試合の際、殺気を消して対戦相手のふところへ無防備に近付いた経験によるものだった。
目の前にいたのが気付けばふところへ。
これは人間が本来持つ反射神経や本能に対し、予想外の行動をする事で隙間に入るような技術なのである。
「ええ、先生に指示しながら私は主にピアノを中心にしています」
何という偶然。
これってシンクロニシティ…、意味のある偶然の一致というやつに違いあるまい。
品川春美という一人の女性に出会い、俺は彼女の横顔を見てザナルカンドを弾こうと勝手にピアノを始めた。
月の光を川越市民会館で演奏した俺は、品川春美が来場しなかったのを機にピアノを辞めた。
これは失恋物語ではなく、神様がシェリー樽に熟成させたような悪戯。
俺のピアノをこのメガネの為に、ここまでしっかりと濃縮しながら熟成されていたのである。
「実は私も、三十代の頃なんですけど、突然ピアノを始めた時期があるんですよ」
「うっそー!」
俺の隣りに座る初老が、まるでギャルのような言葉遣いで大きな声を出した。
「本当ですって! 俺、音符読めないけど、先生に当時カタカナ振ってもらって、頑張って全部丸暗記してドビュッシーの月の光を市民会館で弾いたんですから」
「本当に?」
意地悪そうにニヤける男。
さては信用してないな、コイツ。
この初老…、音楽業界ではお偉いさんかもしれないが、人間性的どうなんだ?
俺はメガネの前で格好をつけたいの!
あ、証拠あるじゃん、バリバリの。
ユーチューブにあの日の演奏をアップしといて、本当に良かった。
心からそう思うよ、神様。
「ほら、ちゃんと俺弾いてるでしょ?」
「ちょっと待って、静かに…。これ、音量はどう大きくするんですか?」
初老は携帯電話を耳につけ、六分以上ある動画を最初から最後まで黙ってきいてくれた。
聞き終わると初老は携帯電話を俺に返してくる。
そして拍手をその場で始めた。
メガネも一緒にしてくれる。
「お見事でした。三十歳から弾いて、これでしょ? 本当に素晴らしい」
「素敵でしたよ、演奏」
あの時の修羅場のピアノ発表会。
演奏を終え、家に帰った時の自分が蘇った。
春美の為に始めたこのセレナーデ。
こんなに頑張ったのに、彼女は分かってくれなかったなあ……。
うん、これで俺のピアノはおしまい。
だってあれだけ頑張ったけど、一人の女の心すら動かせないんだから。
いい加減女々しい真似はやめとけって……。
俺は膝を丸めて、静かに泣いた。
「でったん、ちょっとトイレ行ってくる」
何か報われたな、俺……。
大明飯店のトイレの中、俺は静かに泣いた。
メガネにクソしていると思われてしまう。
俺はトイレットペーパーをグルグル巻きにして、何度も目の周りを拭った。
何て言い訳をしよう?
時間的に難しい。
他にいい方法はないか?
席へ戻ると、初老とメガネは帰っていた。
「あれ、先生たちは?」
「餃子のお礼と演奏のお礼を岩ヤンに言っといてって、帰ったよ」
「……」
「あれ、どうかした?」
「いや、あのメガネの子さ…、凄いタイプだったんだよ…。おばちゃん! 俺たちもお会計」
「うーんとね…、五千六百……」
財布から一万円札を取り出し渡す。
「あまり来れないから、おばさん、釣りはいりませんから」
「だってそんな…、悪いねえ」
会計を済ませて家に戻り、大明飯店の記事を書いた。
中野ブロードウェイのほうは、洒落にならないほど時間が掛かった。
さて、明日は川越で、森昇主宰の中央小学校同窓会か。

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