気持ちが動いたんだから、なかったことにはできない|自分のことも、他人のことも、好きな人のことも何一つわからないけど|恋愛リアリティショーとは
2015年、テラスハウスの大流行の中、当時の私は少し驚いていた。
恋をみんなでウォッチするだと?
そんなことはしてはいけない。秘めてこそ花。みんなで見たりしたら、一気に酸化して恋が恋でなくなってしまう。そんな風に思っていた。
2026年1月現在、私はラブイズブラインド(アメリカ)シーズン1から4、ラブイズブラインドジャパン、バチェロレッテシーズン1などを楽しんだ、恋愛リアリティショー初心者ファンになっている。
秘められていた恋の模様が可視化され、それでも秘められている
恋愛リアリティショーの革新性は本来なら誰かの胸の奥にしまわれ、外に出ることのなかったはずの恋心が、カメラを通して可視化される瞬間があることだと思う。
けれど、映し出されているのは恋の輪郭だけで、その奥にある本音や揺らぐ心、急にあがったような体温、触れるとほどけてしまいそうな微細な感情までは、誰にも完全には分からない。本人にだって分からない。
むしろ、表に出た断片があるからこそ、沈黙の理由や一瞬の視線、笑顔の裏側にある「言葉にならない想い」などの可視化されなかった部分が、より濃密な秘密として立ち上がってくる。
その秘密は、隠されているから魅力的なのではなく「少しだけ見えているからこそ見えない部分がいっそう深く感じられる」 という逆説的な特徴によってより魅力的に見えてくる。
恋愛リアリティショーのいちばんの美しさは「知らされること」と「知り得ないこと」が交錯する場所に生まれる、恋という現象の奥行きそのものなのかもしれない。
リアリティショーに寄せられる批判や懸念
ドラマチックすぎる展開やよくできすぎたタイミングが散見され「台本疑惑」が生まれたり、あるいは制作陣による悪意のある編集が指摘されたりと何かと不信感を集めやすいのも事実だ。
何よりも、本来特別に秘められたものであるはずの恋愛や気持ちの動きを不特定多数の他人が見れてしまう図式への嫌悪感もある。
それでも私は恋愛リアリティーショーが好き
そんな批判はとても的を得たものだと思うし、私もリアリティーショーを見ていることへの罪悪感にさいなまれることがある。
それでも私は恋愛リアリティショーが好きだし、美しいと思わずにいられない。*
恋愛リアリティショーのいちばんの美しさは「言葉や態度を通じて知らされること」と「知り得ないこと」が交錯する場所に生まれる、恋という現象の奥行きそのものかも。奥行きとか隙間って色っぽいのよね。
*全方位完璧に24時間美しいという意味ではない。そもそも全方位完璧に美しいものなんてあるんだろうか。一瞬醜くなったり、一瞬色が欠けたり、そんなことがあったりするからこそ美しいよね
人を好きになることの特別さ
人を好きになるということは自分を肯定できるということ。
そもそも私たちは、自分自身の内側のことですら完全に理解できない。少なくとも私はそう思っている。
自分自身のこともままならないのに「別の心、価値観を持つ誰か」 に強く惹かれるというのは、本来とても難しく、そして孤独なことである。相手のことをすべて知ること、すべて理解することは難しいことだから、何か行き違いがあるたびに悲しみ、怒り、力が抜けてしまう。
そんな本来触れることのできない他者の世界へ、恋は一瞬だけ「通路」を作ってくれる。その通路によって恋が育つかどうか、胸の痛みが残るかはわからないけれど、でもその通路ができただけでもものすごい成果なのだ。
その奇跡のような感覚が、人を好きになることを特別にしてくれると思うし、それによって自分も、それまでの自分の人生や経験すべてを肯定できる気がする。
とはいえ恋愛もコミュニケーションだから
恋愛はとにかくドラマチックなものがフィーチャーされやすいが、要は他人(違う個体)同士のコミュニケーションなのであり、毎日毎日ドラマチックなわけではないだろう。むしろ、相手にとって耳障りのわるいこともリスクのあることも言うべき時が来たりする。
私は心のこもった、薄っぺらでないコミュニケーションが好きなんだと思う。だからこそ、今こうしてリアリティーショーについてのnoteを書いている。もう恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ない、稚拙でまだ首の座っていないような言葉で、こまこまと書いたのだ。
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