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凡人という言葉の罠 ~ その一言が、あなたの位置と責任を決めている ~

こんばんは。深層の案内人 - Amelie - です。


「自分は凡人だから」

そう口にしたことがある人は、多いのではないでしょうか。

一見すると、ただの謙遜や自己認識のように見えるこの言葉。
その一言は、自分の立ち位置と責任の範囲を決める言葉でもあります。

本記事では、能力的な優劣の話ではなく、
「凡人」という言葉が持つ構造と、その機能について紐解いていきます。





「凡人」という言葉の二重構造


noteのタイムラインでも、「自分は凡人だ」と自己定義している記事を度々見かけます。私はそのことについて、ずっと違和感を感じていました。

自己認識ではなく、ポジショニングとして、「凡人」だと謳っているケースも多いです。言葉では「凡人」と書いてありますが、実態は「戦略的に動ける人」だったりします。

「凡人」という言葉は、二種類の意味合いで使われています。


①実存的な凡人

状態の認識として、自身を「凡人」と自己定義しているケース。

・自分は特別ではないと思っている
・能力的にも平均的である

実存的な凡人の認識


②戦略的な凡人

マーケティング上の入り口設計として、自身を「凡人」と自己定義しているケース。

・自分は普通よりもできる人だと思っている
・特定の分野における能力は平均以上である

戦略的な凡人の認識


note のジャンルは、主に創作系と収益系に分かれますが、収益系のジャンルにおいて、戦略的な凡人を装っている人をよく見かけます。

クリエイターは自身を「凡人」と定義することで、読者の心理的ハードルを下げることができます。

凡人の自分でも収益化できたという方法となると、収益化を目指す読者の共感や安心感を得やすく、メルマガ購読者や有料コンテンツの購入者を増やすことができます。


戦略的な凡人を装うことは、ビジネスの手法としてよくあることですが、私はその構造と言葉の不整合さに違和感を感じます。

実際には、ビジネスの構造を理解していて、戦略的に動けている優れた人であるにもかかわらず、自身のことを「凡人」だと定義していることに違和感を感じるとともに、勿体なさも感じています。




天才のジレンマ ~ 卑屈になることが許されない人たち ~


私は、「凡人の隠れ蓑を使って卑屈になれるのは、普通の人の特権である」と考えています。

周囲に天才だと認識される人は、卑屈になることが許されません。


メタ認知に優れた人ほど、自分の未熟さをよく知っています。
到達したい地点から見れば、自分など、まだまだ未熟であると理解している。

周囲には見せてない内側の世界では、「自分は凡人だ」と思っていることも少なくありません。

しかし、その言葉を外に出すことはできない。


もし口にすれば、「あなたが凡人なら、私たちは何なんだ」と反感や顰蹙を買い、構造的な歪みを生んでしまうから。

だから、天才は卑屈になることも許されない。
いつも前向きで、ポジティブでなくてはならない。


これは、能力の問題ではありません。

人の上に立つ人や、前に立って周囲を引っ張っていく人、影響力を持つ人すべてに共通する制約です。

影響力があるということは、その人の言葉が、他者の自己認識にまで作用するということ。そのため、責任を持つ立場にいる人は、自己評価の自由度が制限されています。


「凡人」と言うことで、自分だけでなく、周囲の基準や安定性まで揺るがしてしまいます。

「凡人の隠れ蓑を使って卑屈になれるのは、普通の人の特権」であり、「他者の人生を背負う覚悟や、責任が無い人だから言える言葉」でもあると言えます。


私は、言葉そのものではなく、その言葉がどのような機能を持つのかを見ています。

「凡人」という言葉は、アイデンティティではなく、状況によって使われるツールとして捉えています。「凡人」という言葉を使った瞬間に、使い手の位置(立場)と責任を露わにします。


この noteの街においても、同じ原理が働いています。

誰もが、「凡人」を名乗る自由があります。
ただし、その言葉が生む影響からは逃れられません。




凡人という自己定義の社会的機能


日本人は、自身を相手よりも低く表現する「謙遜」の文化があります。

場の雰囲気を壊さないように、相手を立てるための調和型の謙遜と、責任や批判を回避するための防御型の謙遜があります。

この note の街において、「凡人」と自己定義することは、防御型の謙遜として捉えられがちです。


「凡人」という言葉は、単なる自己認識ではなく、自分がどの位置に立つかを決める社会的なポジショニング装置として機能します。

自己定義は、個人の認識の問題ではありません。

自分の役割を決め、他者との関係性を決め、周囲の期待値をコントロールする機能を持った装置になります。



「凡人」と定義すれば、期待値は下がり、失敗は許容されやすくなります。同時に、他者からの共感も得やすくなり、参入障壁を下げる効果も生まれます。

一方で、「非凡」と定義すれば、期待値は上がり、責任も増え、批判の対象にもなります。「非凡」は、責任とセットで成立する立場です。

「非凡」と違って「凡人」という言葉には責任が少なく、心理的な防衛線として機能します。


ここで、忘れてはいけない重要なことがあります。


自己定義は自由に選べるが、結果は選べない
ということ。


言葉の本質は、意味を伝えるものではなく、
影響を発生させるための装置です。


先ほど、「凡人の隠れ蓑を使って卑屈になれるのは、普通の人の特権」と書きましたが、これを構造的に言い換えるなら、

影響力を持たない位置にいることで、
言葉の責任から自由でいられる


ということになります。




おわりに


「凡人」と名乗ることは自由です。

しかし、その言葉は、
自分の立ち位置と、引き受ける責任の範囲を同時に定義します。


人は、言葉で自分を守ることもできるし、
言葉によって、自分の限界を固定することもできる。


資本主義社会に蠢く欲と熱の中で、何をどこまで引き受けるのか。

その選択が、その人の立ち位置を決めていきます。




あとがき


本日は、「凡人という言葉の罠 ~ その一言が、あなたの位置と責任を決めている ~」についてお届けしました。

私は noteの街では、どちらかというと創作系クリエイターになります。

思考や脳の回路についてのお話、ショートショートや散文詩といった創作や趣味のことなど、さまざまなジャンルのコンテンツを扱っております。


2024年1月に noteを始めて以降、対岸の収益系フィールドやクリエイターを観察してきました。収益系クリエイターの定点観測と、ランダムデータによる観察です。

興味はなくとも関心を持つことは、大人にとって重要な素養だと思っており、この note の街でも、対岸の収益系のフィールドを観察してきました。


note のタイムラインや共有マガジンには、日々、沢山のコンテンツが並んでいます。クリエイターは自分の作品を読んでもらうためには、まず自分の作品まで辿り着いてもらう必要があります。

収益系のコンテンツは、サムネ画像やタイトルを作りこんでいて、アイキャッチの印象が強いです。タイムラインに並んだ時をイメージすると、収益系の人と同じように、足し算で要素を盛っても作品が埋もれてしまう。

私は、引き算で視線誘導できるように、サムネづくりをしています。
敢えて、削るスタイルです。


今回の内容は当初、日々の思考の発散シリーズで更新しようかと思っていたのですが、個別のコンテンツとして更新した方が良いなと思い、独立させました。

自分の頭の中にあるイメージのサムネを作成するのは、なかなか難しいのですが、楽しい作業でもあります。


最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。
良い夜をお過ごしくださいませ。



▼プロフィール

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