「ラヂオの時間」を観たかめちゃん 〜"大人の都合"に蝕まれた僕たちへ〜【感想】
どうも、かめちゃんと申します🐢
週末ともなるとただ家でゴロゴロするのも良いのですが、積極的休息といってエンタメを摂取しにいくのも乙なものです。
今日は朝から遠出して桜を観に行ったのですが、道中の電車では久々に小説を読みました。その感想はまだ読破していないのでその後へ。
で、帰ってきたらばまだ時間は浅く。
「サザエさん」を観てみたのですが、30分なのですぐに終わってしまいます。
これで1日を終えても良かったのですが、ここで終われないのが僕。どうやら僕は「エンタメ中毒」なのかもしれない。この病はエンタメ断ちしないといけないのかもしれませんが、簡単に辞められたら中毒ではありません。
ので、今日も映画を観ます(前振りが長い)
今日は「ラヂオの時間」です。
▼過去の感想noteはこちら▼
観始めて気づいたのですが、僕は一度この作品を見たことがあることに気づきました。笑
とはいえ、10年以上前のことなので良いでしょう!許しておくんなまし!
概要
本作は、1997年に公開された三谷幸喜の初監督映画作品。元は彼の主宰する劇団である東京サンシャインボーイズの作品として上映されていた脚本を映画化したのが本作です。
役者陣は鈴木京香、唐沢寿明など今からすると超豪華。加えて西村雅彦や梶原善などの東京サンシャインボーイズの役者も起用されています。
ごく普通の主婦、鈴木みやこは、自分の生活実感をもとに書いた脚本でラジオドラマ・コンテストの賞を獲る。だが、実際のドラマ作りの段に至ると...
とあるラジオ局。そこで募集されたシナリオコンテストを受賞した主婦 鈴木みやこは、人生初めての経験に心を躍らせながら、自身脚本の恋愛物語を生で演じるラジオドラマのリハーサルに立ち会っていました。
しかし、そのリハーサルの後、ヒロイン律子を演じる千本のっこが役名の変更を要請。単なるわがままの域を出ない要請ではあったものの、プロデューサー牛島は彼女の機嫌を損ねるわけにもいかず、みやこに願い出て役名を「メアリー・ジェーン」に変更することとなります。
ただ、こうなると余波が出てきます。
周りの役者陣からも疑問の声が出ますし、脚本の流れとしても片や外国人であるのに、舞台が熱海で相手役が村の漁師"寅造"では違和感がある、となっていきます。
変更に次ぐ変更。自身の脚本が他人の手で変わっていく様を見て呆気に取られるみやこでしたが、いよいよ生放送の時間が迫ってきます。
設定の破綻や演者のアドリブ、音響の素材不足など様々なトラブルに見舞われながらも生放送は進んでいきます。
どんな変更を加えられても許容するしかなかったみやこですが、ある一つのことだけは譲れず、物語は最大の山場を迎えるのでした...
感想
本作はシチュエーション・コメディというドタバタ喜劇作品であると考えられます。前日に「ザ・マジックアワー」を見ていた私。三谷幸喜作品ということでコメディを期待していたというところなのですが、正直なところ僕にとって本作はそうした期待とは裏腹な作品であったと感じます。
それはもしかすると1度観ていたというのも影響するのかもしれませんが、それにしても僕の口に合わないものが提供されていたという印象です。
単に"つまらない"とか"面白くない"みたいに断じてしまうのは簡単なのですが、それではnoteを書く意味がないなと思うので、少しだけこの感情を紐解いてみます。
僕の本作への感情を一言で言語化するなら"不愉快"というものになると思います。先に引用した作品が"愉快"だったので対照的です。
この2つの作品は割と似た構造を持っていて、どちらも"辻褄合わせ"の作品です。
「ザ・マジックアワー」ではその辻褄合わせが狂っていく様がファンタジーであり、あり得ないからこそ現実と切り離してコメディに昇華できる側面があったように思います。
それでは本作はどうか。
本作はシチュエーションとしてラジオドラマというものが選ばれていますが、その脚本の辻褄合わせがリアルタイムで繰り広げられます。その行き当たりばったり感は先の作品とも共通しますが、辻褄合わせをしなくてはいけない理由がファンタジーというにはリアリティがあって、風刺的といえば聴こえは良いものの、やはり現実的な路線であるからこその投影が発生しやすい舞台設定故に、そこで起きるトラブルを自分の感情を切り離して見れなかったのです。
本作は調べるところによると、三谷氏自身の体験が着想源となった作品らしい。ともなると、そういうリアリティが出るのは必然かもしれません。
それでも、この作品は自分の置かれている環境と同じかと言われたらそうではありません。だから視聴者によってはこの部分をフィクションとして置いておき、本作を楽しめるのではないかと思います。
だから、これは"置いておけなかった"僕の感情なのです。
僕は、自分が軽んじられていると感じた時に憤りを感じやすいという自己内省を記したことがあります。
その上で、本作の主人公である鈴木みやこは作中で非常に軽んじられた存在として描かれています。そして、作中最終盤まで大半のキャラクターがその姿勢を崩すことはありません。なぜなら、それが"大人の都合"だからです。
この"大人の都合"というやつは、世の中に蔓延する、しかし未だに効果的な免罪符として用いられます。
僕がこの部分にこだわるのは、実体験が元になっています。それは研究に関すること。
3月まで在籍した大学院時代、僕はゼミの後輩たちのフォローに回ることが多く、卒論や修論など多くの研究に携わってきました。
ただ、その彼らが紀要論文などで成果を対外的に発表する際に僕の名前はクレジットされません。後輩たちは名前を載せようとしたけれど、指導教員が止めたのです。
僕は憤慨しました。自分が指導しない分を僕に担わせておいて、それに対する報酬もないのに、経験だからといって搾取されていると感じたのです。
単に論文の書き方を教えただけではありません。研究計画や分析、考察のタネまで先生よりも確実に僕が貢献しているというのに!
...まぁ、これは割とよくある話です。
研究室の風土にもよりますが、同じ学部内の先生でもこのことを問題視する人は多くいたものの、結局なぁなぁになってしまいました。
指導教員曰く、僕の実績に他の学生の卒論・修論レベルのものが入ると逆に評価に差し障るからとかなんとか。それもまぁ事実なのでしょう。
ただ、僕は結局実績が欲しかったのではなく、自分の行いを他者から軽んじられたと感じたことに憤慨したのです。
...本作では、奇しくも脚本に対するクレジットの話題が挙がります。それは僕の状況とは逆に、みやこが自分の名前を外して欲しいということなのですが、ここのやりとりに至るまでの過程を見ても、到底みやこに対するリスペクトは毛頭感じられるものではありませんでした。
特に牛島の挙動は僕にとって憎かったあの頃の指導教員を彷彿とさせたのです。さすがに千本のっこは身近にいないけれど、あぁやって軽薄な人間は少なからずいるのです。
そこに意図があったかなんて自分には関係がない。自分が関わったものを、その貢献を軽んじられることは非常に悔しいものです。
"大人の都合"だから仕方ないのかもしれません。日常はそういう連続だから、切り替えていくべきことなのかもしれません。
だけれど、そういうのって蓄積して、自分を蝕んでいくんですよ。価値がないとかは思わないけれど、否定感ばかり募るんです。そうやって病んでいく人を見てきたから。
だからそこを風刺するのだとして、それをなるようになるさで閉じた本作の結末には到底納得できませんでした。
ただ、まぁ本作では唐沢寿明演じる工藤のドライながらも、クリエイターとして見せる奮闘には救われる部分がありました。彼がいなくては本作は成立しなかったと思うほど。
...この辺もまた、作品を成立させるために置かれたご都合的キャラクターだなと思うわけですが。
まぁ何にせよ、こういう自分の"不愉快"の理由を探ることは、自己理解を深める行為でもあると思います。
常々言っていることですが、僕は映画などの作品を"鏡"だと思っているので、そうした点では再視聴した価値はあったのではないかな?と思います。
さいごに
映画などを観る数が増えると、どうしても自分にぴったりな作品ばかりではないなということが増えていきます。
だけれど、そうした体験もまた自分を理解していく糧にしていけるかどうかでその時間の価値が変わってくるはずです。
僕が映画の感想をnoteに書いているのもその作業なのかもしれません。つまり、かけた時間の有意味化というやつです。
その一方で、もちろん好きな作品にも出逢えます。サブスクはいわば作品とのマッチングアプリになっているわけですね。
今後も上手くマッチできるように努めながら、気長にその道中も楽しめたらと思います!
それでは!

