【note限定】マルホシの灯り 掌編二編「いちごジャム」「終バスの窓」
この二編は、本には入っていません。
『マルホシの灯り』を読んでくださった方に向けて、あとから書いたものです。Kindleでも紙の本でも読めない、ここだけの二編です。
本を読んでいない方でも、一編目はそのまま読めます。
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掌編「いちごジャム」
その人がレジに来たとき、かごは空だった。
平日の昼過ぎ。五十くらいの女の人が、財布を開いたまま、レジの前に立っていた。桜井とし子はレジのランプを消して、その人のほうへ体を向けた。
「あの、こういうの、分かりますか」
差し出されたのは、一枚のレシートだった。ずいぶん古い。折り目のところが白くなって、印字も薄くなりかけている。マルホシ一宮店。日付は、四年前の十一月。
買ってあるのは、三つだけだった。食パン。牛乳。それから、いちごジャム。
「母のなんです」と、その人は言った。「先月、亡くなりまして。財布を整理していたら、これだけ、はさんであって」
桜井はレシートを両手で受け取った。裏返すと、鉛筆で小さく、字が書いてある。〈またかう〉。ひらがなで四文字。線が少し震えていた。
「これが、どういう意味なのか。分からなくて。捨てられなくて、持ってきてしまいました」
桜井は、その字をしばらく見ていた。
それから、顔を上げた。「谷口さん、ですか」
女の人が、目を見開いた。「母のこと、ご存じなんですか」
「毎週、水曜日に来られとりました」
谷口さんは、桜井がこの店に入ってすぐの頃から通ってきていた人だった。
いつも同じ時間に来て、同じくらいの量を買って帰る。かごの中身も、だいたい決まっていた。食パンと、牛乳と、その日の特売のもの。ひとり分の買い物だった。
ただ、年に何回か、そこにいちごジャムが加わる日があった。
「うちの娘がね、こんど帰ってくるもんで」
谷口さんはそう言って、少し照れたように笑うのだった。「あの子、小さいときからいちごジャムが好きでね。食パンに、こう、はみ出るくらい塗って」
桜井はそのたびに、「ええねえ」と返した。「ほんなら、パンも多めに買っといたげんと」
谷口さんは「そうやね」と言って、食パンをもう一斤かごに入れる。その日の谷口さんは、少しだけ歩くのが速かった。
でも、次の週。
谷口さんはまた、いつもと同じ買い物をして帰っていった。かごにいちごジャムは無い。パンも、一斤だけだった。
桜井は、なんとなく聞けなかった。
次にいちごジャムを買う日が来たのは、半年ほどあとだった。谷口さんはまた、同じことを言った。「うちの娘がね、こんど帰ってくるもんで」
それが、何年も続いた。
女の人は、レシートを見つめたまま、動かなかった。
「……わたし、一度も帰ってないんです」
声が、途中で止まった。「仕事が、とか。子どもの用事が、とか。毎回そう言って。母も、いいよいいよって言うもんで」
桜井は何も言わずに、その人の手からレシートを受け取り直して、両手でていねいに折り目をのばした。
〈またかう〉。
「これはね」と桜井は言った。「たぶん、忘れんようにって、ご自分に書かれたんやと思います」
女の人が顔を上げた。
「開けんまま、冷蔵庫に残ってしもうたんでしょう。賞味期限がきて、捨てて。ほんでも、また買おう、って」
女の人は、しばらく黙っていた。
それから、店の奥のほうを、ちらりと見た。
「あの。ジャムって、どこですか」
桜井はレジを出て、その人を売り場まで連れていった。棚の下から二段目。ちいさな瓶が並んでいる。谷口さんがいつも取っていた、いちばん安いやつだ。
女の人は、それをひとつ、かごに入れた。少し考えて、食パンも入れた。
レジに戻って、桜井はいつものように打った。三百いくら。財布から小銭を出す手が、少し震えていた。
袋に入れながら、桜井は言った。
「ありがとうございました。谷口さん」
女の人の手が、止まった。
「……母と、同じ名字なんで」
「そうでしょう」と桜井は言った。「だで、呼ばせてもらいました」
その人は、袋を胸に抱えて、頭を下げた。何度も下げた。
自動ドアが開いて、閉まって。外の光の中へ、その背中が出ていった。
桜井はレジのランプをつけ直した。
昼のうちは、屋上の看板は灯らない。「ホ」の電球は、あいかわらず切れたままだ。それでも、この店には毎日、誰かが来る。
名前を呼ばれるために、来ているのかもしれない、と桜井は思った。
(掌編「いちごジャム」・了)
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掌編「終バスの窓」
※こちらは第十七話のあとの話です。本編を読む前だと、結末が少し分かってしまいます。
大野は、市バスの運転手を二十六年やっている。
いまは終バスの担当だ。二十二時二十分に駅前を出て、住宅地をぐるりと回って、二十三時すぎに車庫へ帰る。乗っているのは、たいてい三人か四人。眠っている人が多い。誰も何もしゃべらない。
その道の途中に、マルホシがある。
店はもう閉まっている。駐車場も空だ。
ただ、屋上の看板だけが灯っている。二十年、ずっとそうだった。
「マル シ」。
「ホ」のところだけ、電球が切れていて、暗い。
大野は、その手前でいつも、ほんの少しだけ速度を落とす。
バス停ではない。誰も降りない。ただ、なんとなく。
二十年、そうしてきた。
理由はある。あるにはあるが、誰にも言ったことがない。
二十年前、母が長く入院していた。
この先の、大きな病院だ。大野はまだ若くて、昼は運転して、夜は病院へ通った。面会が終わるのは、いつも八時をすぎていた。バスはもう無い。歩いて帰った。
その道が、暗かった。街灯が少なくて、途中からほとんど何も見えなくなる。
そこで、この看板が見えるのだ。
「マル シ」。
欠けている。まぬけな灯りだった。それなのに、その明かりが見えると、いつも足が少し軽くなった。
あそこまで行けば、あと十五分で家に着く。
母が長くないと言われた日も、その灯りの下を通った。大野はそこで立ち止まって、しばらく看板を見ていた。泣いたかどうかは、覚えていない。
母が亡くなってからも、その灯りはずっとあった。
欠けたまま、直されないまま、毎晩ついていた。
直せばいいのに、と思ったことはある。でも、直ってしまうのも、なんだか嫌だった。
その夜も、大野はいつものように速度を落とした。
そして、ブレーキを踏んだ。
看板が、「マルホシ」と光っていた。
「ホ」が、灯っていた。二十年、暗かったところに、ほかと同じ明るさの光が入っていた。
大野は、思わずバスを路肩に寄せた。乗っていた三人の客は、誰も気づかない。
窓を開けて、しばらく看板を見上げていた。
なんだ、と思った。なんだよ、と。
うれしいのか、さびしいのか、自分でも分からなかった。
次の非番の日、大野は昼にマルホシへ行った。
店に入るのは、はじめてだった。二十年、外から見ていただけの店だ。
中は思ったより狭くて、古かった。BGMが、聞いたことのない古い曲だった。天井の蛍光灯が一本、少しちらついている。
大野は何を買えばいいのか分からず、とりあえず缶コーヒーを一本持って、レジへ行った。
レジには、六十くらいのパートの人がいた。
「いらっしゃいませ」
缶を打ちながら、その人が顔を上げた。「はじめてのかたやね」
「あ、はい」
「そう。ようこそ」
大野は少し迷ってから、聞いた。
「あの。屋上の看板、直したんですか」
その人の手が止まった。それから、ふっと笑った。
「そうなんです。うちのバイトの子が、直してくれて」
「バイトの子」
「もう二十年、切れとったんですよ。誰も直さんかったのに」
大野は、缶コーヒーを受け取った。
「……あの看板に、助けてもらったことがあって」
言ってから、自分でも驚いた。二十年、誰にも言わなかったことだ。
パートの人は、驚かなかった。「そうなんですか」とだけ言って、うなずいた。それから、袋にコーヒーを入れながら、こう言った。
「うちの店、ちいさいでね。でも、灯りだけは毎晩つけとります」
大野は名前を書いていない。名札もつけていない。
それなのに、店を出るとき、その人はこう言った。
「またどうぞ。お仕事、気をつけて」
その夜も、大野は終バスを運転した。
同じ道を通って、同じ場所で、少しだけ速度を落とした。
看板は「マルホシ」と、まっすぐに光っていた。欠けていない。
まぬけではなくなってしまったな、と大野は思った。少しさびしい。
それでも、その灯りが見えると、やっぱり足が――いや、アクセルを踏む足が、軽くなった。
バスは車庫へ向かう。
後ろの席で、誰かが眠っている。
(掌編「終バスの窓」・了)
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『マルホシの灯り』第一話「レジ袋ひとつ」は、全文をここに置いてあります。
作品のもくじ
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