『さよならの向こう側』第9回 母と娘(明日香視点)#創作大賞2025 #恋愛小説部門
披露宴会場に戻らなくては。
動揺のあまり、つい控室に長居してしまったようだ。
意を決して扉を開けると、にぎやかな笑い声とともに
おいしそうな料理の匂いと、お酒の匂いに包み込まれる。
遠くのテーブルで、歓声があがる。
誰かのスピーチが終わったばかりなのかもしれない。
誰にも見とがめられずに戻れるといいな…
そっと人の陰を縫うようにして席に戻る。
晴美ちゃんの隣、孝輔の向かいの席。
さっきと同じ配置なのに、少し違う空気が流れているように感じた。
晴美ちゃんは、わたしの方を見なかった。
パン皿の上のバターを、ナイフで小さく削っては、手遊びのように広げている。
とくに苛立っているふうでも、拗ねているふうでもなく、
ただ、遠い。
わたしがかつて、子連れの友人と距離をとらないと
自分を守れなかったったように。
きっと、彼女もまた、傷つかないためにそうしているのだ。
「……お水、お注ぎいたしましょうか」
心地よい氷の音を立てて、グラスにお水を注いでくれる。
その冷たさに助けられるように、わたしは、少しだけほっと息をついた。
そのあとの時間の流れは、二日酔いで見るドラマのように曖昧だった。
萌の華やかなドレス。
新郎の拓郎さんの、少しぎこちないけれど誠実なスピーチ。
誰かがカメラを向けて、笑って手を振る人たち。
あの人たちの中にも、誰にも見せたくない顔や、口にできない思いがあるのだろうか。
それとも、わたしだけが取り残されてしまったんだろうか。
「明日香さん、今日のドレスすごく素敵ですね」
隣のテーブルの女性に声をかけられて、
わたしはぎこちなく笑ってお礼を言った。
そのとき、女性の娘らしき小さな女の子が、
「ママ、お水こぼれたー」
と母親の腕にしがみついて言った。
瞬間、また心のどこかが、じんわりと湿った。
ああ、わたし、ぜんぜん立ち直ってなんかない。
でも、そうだ、
それでも――ここにいるって、
ちゃんと席に戻って、息をして、
誰かに微笑み返して、
そんな当たり前のことを積み重ねるしかない。
たとえ、晴美ちゃんがわたしを見なくても。
彼女の視界に、もう一度わたしが入る日が来るまで、
わたしは――ここにいよう。
そう思って前を向いたとき。
ふと、視線を感じた。
小さな視線。
そっと横を見ると、晴美ちゃんがわたしを見ていた。
ほんの一瞬。
目が合ったかどうか、わからないくらいの、一瞬。
でも、確かにわたしを見ていた。
それからすぐに、彼女は視線を落として、フォークを握り直した。
何も言わない。
もちろん、笑ってくれるわけでもない。
でも、彼女の中に「見る」という選択肢が、ほんの少しだけ芽生えたような、そんな気がした。
わたしは静かに、グラスの水を口に運ぶ。
冷たさが喉を通って、胸の奥のざわめきを、少しだけ鎮めてくれた。
大丈夫。焦らなくていい。
彼女の心の扉を叩くのは、今日じゃなくてもいい。
わたしは――ここにいるから。
(代官山編 おわり)
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※このお話はフィクションです。実在するお店や施設が登場しますが、メニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
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