『さよならの向こう側』第8回 わたしなんかが(明日香視点)#創作大賞2025 #恋愛小説部門
控え室に戻ったとき、
わたしは足元がぐらつくような感覚に襲われていた。
ドアを閉める音がやけに大きく響き、
どくん、どくん、と
胸の動悸が心の中まで響いてくるようだった。
誰もいないソファに腰をおろし、
深呼吸をしても、胸の奥のざわつきが収まらない。
晴美ちゃんのあの目――
怒っているようで、怯えているようで、
でも、はっきりと拒絶を突きつけてくるような。
あの真っ直ぐな視線が、今も焼きついていた。
「……パパに近づかないで」
その言葉の刺さり方は、想像以上だった。
わたしがあの子にとって「何者でもない」ことは分かっていた。
まだ何者にもなれていない状態で会うのは危ういと思っていた。
けれど、もしかしたら――
ほんの少しだけ、期待していたのも事実だった。
(子供って、もう少し柔らかい存在だって…思ってた。けど……)
胸の奥に、じわじわと広がる痛み。
それは、何かを傷つけてしまった罪悪感よりも、
自分が拒まれたことへの寂しさが、より強く滲んでいる。
「……やっぱり、わたしなんかが……」
わたしは手元のグラスを見つめながら、小さくつぶやいた。
子どもがいなかった自分。
子どもを持てなかった自分。
母親になれなかった自分――
晴美の鋭いひと言は、それらをすべてまとめて突きつけるようだった。
「入ってこないで」と。
(こんなとき、普通の人はどうするんだろう。
やっぱり、黙って引き下がるしかないのかな)
自分の居場所が一瞬にしてぐらついたようで、指先が少し震えていた。
けれど、その中に微かに残るのは、あの子の「目」だった。
感情を必死で押し殺して、それでも本心がこぼれてしまったような…
あの表情は――どこか、過去の自分に似ているような気もした。
(……そうか。あの子も、きっと、必死だったんだ)
目を伏せたまま、自分の手のひらをそっと見つめた。
何もできなかった。手を差し伸べることすら、できなかった。
でも――
(それでも、わたし……逃げたくない)
自分に向けられた拒絶を、ただの「失敗」として終わらせたくなかった。
あの子の中にある揺らぎに、ほんの少しでも触れられるようになりたい。
それが時間のかかることであっても、いつか。
ソファの背にもたれて、ゆっくりと目を閉じた。
場違いなほどに華やかな笑い声が、廊下の向こうから聞こえてくる。
でも、今はその喧騒から少し離れて、ただ静かに、心を落ち着けたかった。
(つづく)
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※このお話はフィクションです。実在するお店や施設が登場しますが、メニュー、営業時間などは事実と異なる場合があります。
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全館貸切ゲストハウス「代官山アーカンジェル」
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