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沖縄だけが、日本に犠牲にされたのだろうか(前編)──「捨て石」という物語をほどいてみる

世の中おかしい Vol.19


失う必要のない命がなくなっている


SNSでは、沖縄の県知事選挙に関するニュースが、頻繁に流れてくる。

今回の沖縄県知事選挙は、2026年8月27日告示、9月13日投票で行われる。立候補者は6人いるが、選挙戦は3選を目指す現職の玉城デニー氏と、前那覇市副市長の古謝玄太氏による事実上の一騎打ちになっている。

玉城氏は辺野古移設反対の勢力、共産党・社民党らの支援を受け、古謝氏は自民党、維新などの推薦で容認の立場を取っている。

今回も基地問題は沖縄政治の大きな軸だが、賛成か反対かという二択を超え、状況はあまりに複雑化・先鋭化している。
そして、対立が長く激しくなった結果、本来失われる必要のなかった命まで失われてしまった。

今年3月に、同志社国際高校の沖縄研修旅行中、辺野古沖で生徒らを乗せた小型船2隻が転覆し、高校2年生の女子生徒と船長が亡くなった。さらに8月には、この研修旅行に関わっていた教師の一人が亡くなり、報道では自殺とみられている。

2024年6月、名護市の安和桟橋付近で、辺野古埋め立て用土砂を運ぶダンプカーの前に出た抗議活動中の女性を制止しようとした警備員が、ダンプカーにはねられて亡くなった。2026年6月には、沖縄県警が抗議活動をしていた女性を重過失致死容疑で書類送検している。

反対するのは自由だ。しかし、政治的な目的や「正しさ」を競う陰で、目の前の人間の安全や尊厳が見えなくなってはいないだろうか。なぜ、これほどまでに沖縄をめぐる議論は激しく、余裕を失ってしまうのだろう。

その背景には、長年にわたって醸成されてきた「沖縄は常に犠牲にされてきた」という強い歴史認識や物語があるのではないだろうか。

そんなニュースを見ながら、私はずっと昔に見た風景を思い出した。



納沙布岬から見えた島


納沙布岬からは、遠くに歯舞群島の水晶島が見える。

私は北海道生まれだ。高校生の夏、根室の親戚を訪ねた際に納沙布(のさっぷ)岬へ連れて行ってもらった。 北海道本島の最東端にある岬で、海の向こうには北方領土、歯舞群島の島々を肉眼で見ることができる。

地図では知っていたが、実際に自分の目で見ると印象がまるで違う。
海の彼方に霞んで見える遠い島ではない。本当に目の前にある。
それなのに、そこへは行けない。

戦争が終わった後も、ソ連軍は進撃を続け、1945年8月28日から9月5日にかけて北方四島を占領した。日本政府は現在も、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島を日本固有の領土と位置づけている。

北海道の隣にあるため「小さな島」と思われがちだが、国後島は沖縄本島よりも大きい。択捉島は沖縄本島のおよそ2.6倍になる。

そこには日本人が暮らしていた。家があり、仕事があり、学校があり、生活があった。しかし戦後、元島民たちは故郷を追われ、80年以上がたった今も戻ることができない。

納沙布岬から見た、あの近い島影、その周辺に掲げられている「領土返還」の文字が私には強く残っている。

だからこそ、「沖縄だけが捨て石にされた」「沖縄だけが戦争の犠牲になった」という言葉を耳にするたび、引っかかりを覚える。

沖縄が払った犠牲の大きさを認めることと、「沖縄だけが犠牲になった」という物語を受け入れることは、同じではないと思う。


県民の4人に1人が犠牲になった


沖縄戦では、県民の約4人に1人にあたる多くの住民が犠牲となった。これは、基地反対派がつくった誇張ではない。

私が違和感を覚えるのは、ここから直ちに「沖縄だけが日本の犠牲になった」という結論へ進んでしまうことだ。

1945年の日本全体を見渡せば、戦争の悲劇は全国各地に広がっていた。東京大空襲では一晩でおよそ10万人が命を落とし、その後も主要都市の市街地が焼き尽くされた。8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾が投下された。広島では1945年末までに約14万人、長崎では約7万人が亡くなったと推計されている。

旧満州・樺太・千島へのソ連軍侵攻があり、57万人以上がシベリアなどへ抑留され、約5万5千人が命を落とした。沖縄では地上戦が行われ、東京では街が焼かれ、広島と長崎には原爆が落ち、満州や樺太ではソ連軍が侵攻し、北方四島は今も戻っていない。

なのに、沖縄以外では「住民の何割が犠牲になった」と強調されてはいない。被害の形はそれぞれ異なり、どこが一番悲惨だったかを競う意味などない。失われた命に優劣はない。

ではなぜ、これほど多様な被害が存在したにもかかわらず、沖縄についてのみ「日本が沖縄を犠牲にした」という加害・被害の物語が固定化していったのだろうか。


沖縄は「捨て石」だったのか


沖縄戦を語るとき、「沖縄は本土決戦までの時間を稼ぐための捨て石にされた」という表現がよく使われる。

しかし、その前に確認しておきたいことがある。

沖縄を戦場にしたのは誰だったのか

1945年、沖縄に大規模兵力を投入し、上陸してきたのはアメリカ軍だった。日本軍は自国領土に侵攻してきた敵を迎え撃つ立場にあった。
つまり、米軍が本土攻略の進攻拠点として沖縄を選んだことこそが、そこが戦場となった最大の要因だ。

日本軍は、本土決戦への準備時間を稼ぐため、沖縄で米軍をできるだけ長く足止めする方針をとった。
しかしそれは、「米軍の侵攻を受けた沖縄で防衛戦を長期化させた」のであって、「日本が沖縄を意図的に戦場にして捨てた」のとは意味が違う。

ここを一緒にしてしまうと、沖縄戦の構図そのものが変わってしまう。

本土から沖縄へ向かった兵士たち

沖縄戦で戦ったのは、沖縄県民だけではない。
日本軍約10万人のうち、本土などから派遣された兵士が大きな割合を占め、沖縄戦で亡くなった他都道府県出身者だけでも6万5千人を超える。

さらに、空からは特攻隊、海からは戦艦大和を中心とする艦隊が海上特攻で沖縄へ向かった。

沖縄戦で沖縄へ向かった人たち。
「本土が沖縄を見捨てた」という一言だけでは見えなくなる人々がこれだけいた。

沖縄では県外出身の戦没者が忘れられているわけではない。平和祈念公園の「平和の礎」には、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の名が刻まれている。さらに、沖縄県平和祈念財団は全国46都道府県の慰霊塔・碑を管理しており、県外出身者を慰霊する碑も数多く存在する。

「本土が沖縄を見捨てた」という物語だけでは収まらない現実が、沖縄の慰霊空間そのものに刻まれている。

沖縄・平和祈念公園「平和の礎」
沖縄戦でなくなったすべての人々の名が都府県別に刻まれている。

戦場の極限状態と歴史の複雑さ

住民の犠牲が拡大した過程も単一の物語では語れない。
日本政府は米軍上陸以前から、沖縄が戦場になる可能性を想定し、1944年7月には老幼婦女子や学童を本土や台湾などへ疎開させる方針を決めていた。しかし、海に囲まれた沖縄から住民を逃がすこと自体が容易ではなかった。

その象徴が対馬丸だ。1944年8月、沖縄から九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」は、鹿児島県近くで米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。確認されているだけでも1,484人が亡くなり、そのうち784人が疎開学童だった。戦火から子どもたちを逃がすための船さえ、安全ではなかった。

住民と日本軍の間で何が起きたのか

米軍が上陸して地上戦が始まると、住民たちの逃げ場はさらに狭くなった。北へ逃げる者もいれば南へ向かう者もいたが、周囲を海に囲まれた島だ。
戦線が動けば、その先に安全な土地があるとは限らない。

沖縄戦の戦闘経過

日本軍側も、住民と軍が一緒に行動すれば攻撃に巻き込まれる危険が高くなるため、住民を軍から離そうとした記録がある。しかし、住民たちは軍の元を離れなかった。砲弾が飛び交う中で、住民にとって武器を持った日本兵の近くにいることが一番安全に思えたとしても不思議ではない。

一方で、軍が住民のいる壕を軍事利用するために明け渡させた例や、住民に被害を与えた事例も残っている。ただ、戦場という極限状態の中で日本兵が取った行動を、現在の平時の感覚だけで簡単に裁くことには疑問が残る。

砲撃が続き、食料も不足し、敵が目前に迫り、住民の中に敵側への通報者がいるのではないかという恐怖まであった。兵士自身も、いつ死ぬか分からない状況に置かれていたのだ。

だからといって、住民への加害が正当化されるわけではないが、そこで何が起きたのかを理解するには、「日本軍が住民を虐げた」という一行だけで片づけるのではなく、戦場の状況そのものを見る必要がある。

沖縄の住民には簡単に逃げられる場所がなかった。戦況が悪化するにつれて、侵攻してきた米軍、それを迎え撃つ日本軍、そして逃げ場を失った住民が、狭い島の中へと追い込まれていった。

この複雑さを無視して、「日本軍は住民を守った」、あるいは「日本軍が住民を犠牲にした」と一色に塗ることは、どちらも実態から離れていく。

そのことを象徴する電文が残っている。
1945年6月6日、沖縄方面根拠地隊司令官の大田実海軍少将は、海軍次官に沖縄県民の置かれた状況を伝える電報を送った。

県にはすでに通信する力がなく、県知事から頼まれたわけでもない。しかし、「現状を看過するに忍びず」と、自ら県民の窮状を中央へ伝えた。

電文には、砲爆撃のなかで家財を失い、軍に協力しながら逃げ続ける住民、とりわけ看護や炊事、砲弾運びなどに動員された女性や学徒たちの姿が記されている。そして最後を、こう結んだ。

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
「沖縄県民は、このように戦った。県民に対して、後世、特別のご配慮を願いたい。」

沖縄方面根拠地隊司令官の大田実海軍少将が最後に海軍次官に送った電報より

大田はその数日後、司令部壕で自決する。
沖縄県民が軍によって被害を受けた事実はある。一方、その沖縄県民の姿を最後まで見つめ、「後世、特別の配慮を」と本土へ訴えた将校もいた。

「日本軍が沖縄県民を犠牲にした」という一行だけでは、やはり収まらない。


「沖縄は日本とは別だった」という物語


「沖縄は日本とは別の民族だった。だから本土によって犠牲にされた」という説明も、この物語を支える一つになっている。

確かに、琉球王国という独自の政治体が存在した。明、のちには清に朝貢しながら日本とも交易し、17世紀以降は薩摩藩の強い影響を受けながら存続していた。

しかし、「琉球」という名前そのものから、中国に属する別民族の国だったと考えるのは早い。

沖縄県立図書館のレファレンス資料では、「琉球」は中国側で名付けられた国名であり、「沖縄」は土地の人々自身の呼称に由来するとする研究が紹介されている。

沖縄本島の人々は、古くから自らの島を「ウチナー」と呼んできた。
「琉球」は対外的、儀礼的な名称として使われるようになった一方、日常の呼称としては「ウチナー」が残った。

これは、中国の史書に日本人が「倭人」、日本が「倭国」と書かれたことに似ている。中国側がそう呼んだからといって、日本人が日常生活で自分たちを「倭人」と呼んでいたわけではない。

それは言葉にも現れている。沖縄の言葉は中国語とは大きく異なる。
沖縄語を含む琉球諸語は、日本語と同系統の言語だ。もともとは共通の祖語から枝分かれし、発音や語彙こそ違うが、文構造の骨組みは等しい。

例えば、中国語の「我愛你」のように「私・愛する・あなた」と並ぶ言葉ではなく、日本語と同じ「私は・あなたを・愛している」と組み立てる。

発音や語彙が大きく違うことは、沖縄に限らない。津軽弁や鹿児島弁も、ほかの地域の人にはほとんど理解できない。
言葉が違って聞こえることだけで、別民族だったとは言えない。

また近年のゲノム研究(2024年の17万人規模調査など)でも、沖縄の人々は本土日本人と共通の遺伝的祖先を持ち、縄文系の成分をより濃く残していることが分かっている。

これは、沖縄の人々が日本列島の人々と共通する祖先を持ちながら、地域によってその混ざり方が異なってきたことを示している。

琉球王国があったことと、別民族だったことは同じではない

沖縄は中国とも日本とも交流し、その両方の文化を取り込みながら、島々に古くからあった文化も重ねて独自の文化を育ててきた。
歴史は、現在の国境線のようにきれいには分かれていない。

琉球王国という歴史的独自性を持つことと、日本列島の人々と無関係な別民族であることはイコールではない。 歴史を「本土に一方的に犠牲にされ続けてきた別民族の歴史」という一本の物語に単純化することは、あまりに乱暴な話だ。

そしてこの物語は、戦後の基地問題へと引き継がれていく。

「沖縄には日本の基地の70%がある」
次は、この数字から見ていきたい。

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