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横溝正史賞公募127000字書き上げた

試行錯誤中のLaLaLaです。

昨晩の深夜3時まで机に向かい、目標としていた120万字に無事到達いたしました!かなりの長文となっておりますので、どうかお時間の取れる際に目を通していただけますと幸いです。

ここからは、いよいよ公募に向けた推敲と調整のフェーズに入ります。この校正作業にはとてつもない時間と根気が必要となりますが、締め切りまではまだ余裕がありますので、一字一字丁寧に心を込めて磨き上げてまいります。

※ネタばれ

















(仮題)村長の川柳
――消えた八百人と、老教師の帰郷――

第一章 静寂の無人村

 電話が鳴ったのは夕食の匂いも消えた午後八時過ぎだった。受話器を取ると記憶より低く太った声が名乗った。
「先生、ご無沙汰しております。重信です」
 かつて教室の一番後ろで居眠りをしていた少年が、いまは県警の刑事だという。芦原司は湯呑みを置き次の言葉を待った。声の主が用件も告げずにひと呼吸置いたことに司はすでに何かを感じ取っていた。
「村が、消えました」
 テレビの音を絞り聞き返す。重信は同じ言葉を、数だけ変えてもう一度繰り返した。それが冗談でも聞き間違いでもないと分かるまでに司はしばらく黙ったまま受話器を握っていた。

 電話を切ったあと司は押し入れから使っていない旅行鞄を出した。着替えを二日分。手帳と万年筆。それだけを詰めフロントの職員には古い教え子の見舞いだと告げた。手が動くのに頭はまだ追いついていなかった。

 妻を送ってから司はこの老人ホームに移った。三十五年勤めた学校からは車で二時間離れている。年賀状のやり取りだけが村との唯一の糸だった。
 一夜にして八百人が姿を消した。そう聞かされても司の頭にはしばらく像が結ばれなかった。数字だけが実感のないまま宙に浮いていた。

 迎えの車は翌朝七時、老人ホームの前に着いた。運転席の重信は五年前より頬がこけていた。目の下の皮膚が、薄い紙のように張りを失っている。挨拶もそこそこに車は走り出し、県道を抜けるころには誰も口を利かなくなっていた。ラジオの音楽は峠にかかる手前で砂の音に変わり、重信はそれを黙って消した。エンジンの音だけが、しばらく車内を満たしていた。
 トンネルを抜けると、山肌が両側から迫ってきた。このトンネルは司がまだ子供だった頃に掘られたものだった。戦後まもない頃、村の男たちが総出で掘ったと聞いた覚えがある。壁の一部はいまも岩肌がむき出しのままで、ノミの跡が縦横に走っていた。天井の低い区間では、ヘッドライトの光が岩肌に近すぎて、車の影がやけに大きく揺れた。
 窓の外を流れる杉の匂いに、司は目を閉じた。子供たちの下校の声が、まだそこに残っている気がした。夏祭りの太鼓の音も、遠くでまだ鳴っている気がした。だが目を開けば、そこにあるのはただの杉の壁と、対向車の来ない一本道だけだった。
 トンネルの出口を過ぎたところで、車は一度停まった。この先で無線が切れると告げる前に、重信は煙草を取り出した。何か手を動かしていなければ、その一言を口にできないというふうだった。火を点け、深く吸い込む。だが煙は思ったほど重信を落ち着かせなかったらしく、二口ほど吸っただけで灰皿に押しつけて消した。灰の先端は燃え切る前に潰され、白い芯をまだ残していた。ライターの蓋を、重信は三度も開け閉めしてから、ようやくポケットにしまった。
「ここから先、無線が入らなくなるんです」
 重信はそう言って、フロントガラス越しに山を見上げた。喉仏が、一度大きく上下した。
「応援は」
「県警本部と隣接署から。マスコミにはまだ伏せています」
 言葉を切るたび、重信は舌先で唇を湿らせていた。水分を欲しがっているのではなく、次の言葉を探しあぐねているような仕草だった。

 司は受話器を置いたあとも、しばらく居間の椅子から立ち上がれなかった。八百人という数字が、頭の中で何度も像を結ぼうとしては崩れていく。三十五年、教壇の上から生徒の数を数え続けてきた男でさえ、この数字の重さの前では、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 村の入口で車を降りると、風が止まっていた。止まっていた、という言い方さえ生ぬるい。空気そのものが、この村の境界で存在をやめているようだった。土の匂いも、青草の匂いも、鼻先まで来て、それより先へ動こうとしない。司は自分の呼吸の音を、耳のすぐそばで聞いた気がした。肺に入ってくる空気の量が、いつもより少ないような気さえした。

 道端の畑に、鍬が一本突き立っていた。柄はまだ乾いていない。握られていた掌の脂が、木肌にうっすらと残っている。刃先の角度、土の抉れ方、そのどれもが、つい先ほどまで人の手がそこにあったことを教えていた。だが土の上には、それより先へ続く足跡がひとつもない。踏み出しかけた足が、地面に触れる寸前で消えてしまったような、そんな途切れ方だった。
 教師をしていた頃の癖で、司はまず物に触れて確かめようとした。三十五年、そうやって生徒の忘れ物や落とし物の持ち主を言い当ててきた。掌の温度、汚れの新しさ、それだけで多くのことが分かった。
 鍬の柄に指を近づける。木の繊維の目が、指先まで見えるほど近くまで寄った。だが触れる寸前で、手が止まった。この鍬に触れれば、いま自分が立てている推測のどれかが、取り返しのつかない形で確定してしまう。理屈にならないその確信が、腕の産毛をゆっくりと逆立てていった。結局、司は手を伸ばしたまま、指を鍬から一センチほど離れた場所に留めておいた。

 軒先には、洗濯物がまだ下がっていた。子供用のシャツ、女物のもんぺ、色褪せた手拭い。風がないせいで、どれも肉を落とした皮のように重くぶら下がっている。雨に打たれ、乾き、また濡れた回数だけ、繊維は硬く縮んでいた。何十回、その天気を黙って受け続けたのか、数える気にもなれない古さだった。

 どの家の表札にも見覚えがあった。田中、久保、桑原。かつて毎朝のように教壇から呼び続けた名字が、いまは朽ちかけた木の板に彫られた記号として、無人の玄関にぶら下がっているだけだった。
 一軒の前で、司の足が勝手に止まった。傾いた木の表札に「大野」とある。三十年前、宿題を一度も提出したことのない生徒がいた。名前も同じだった。玄関の郵便受けからは、開封されないままの封筒が数本、押し出されるように突き出ていた。差出人の欄は、どれも同じ村の中の住所だった。誰かが、誰にも読まれない手紙を出し続けていたことになる。

 土間の開いた家を覗くと、竈にかけた鍋から白い膜が張っていた。表面はすでに乾いて皹割れ、下の色すら見えなくなっている。木べらだけが、縁に律儀に立てかけられたまま動いていない。手を止めた瞬間の角度そのままに、時間だけがそこで固まっていた。
 村で唯一の雑貨店は、引き戸が半分開いたままだった。レジの引き出しは開き、紙幣も硬貨もそのまま折り重なって残っている。指一本触れられた形跡はなかった。店先の柱時計は三時十七分で止まっていた。電池切れではない。針の下、ガラス面に細い罅が一本、稲妻の形に走っていた。
 共同浴場の前を通ると、水音がした。蛇口は開けっ放しのまま、誰もいない浴室に湯だけを流し続けている。その音だけが、村じゅうでただひとつ生きている音だった。鳥の声も、虫の音も、どこにもなかった。

 繋がれた犬が一匹、道の真ん中に座っていた。鎖は外れ、首輪だけが残っている。犬は司たちを見ても吠えなかった。唸ることもしなかった。ただ首を巡らせ、村の奥を見つめていた。犬の視線の先、林の切れ目に古い校舎の屋根が覗いていた。子供の頃、誰も一人では近づかなかった建物だった。

 重信の運転する車が村道に入ると、路肩の草が、これまで見てきたどの土地よりも高く伸びているのに司は気づいた。手入れをする者がいなくなってから、まださほど日は経っていないはずだった。それでも、自然というものは、人の手が離れた途端、驚くほどの速さで、その土地を取り戻し始めるものらしかった。

 どの家の車庫にも車が残っていた。軽トラックも乗用車も鍵は挿さったままだった。タイヤの跡は家から一歩も動いていない。村の入口に並ぶ地蔵は六体、どれも欠けることなく立っていた。赤い前掛けだけが、風もないのにわずかに色褪せて見えた。

 重信が声を落とした。
「気配だけは、あるんです。誰も、いないのに」
 司はその言い方にかえって胸を突かれた。刑事という職業柄、感覚的な物言いを嫌う男だったはずだ。
「遺体は」
「一つもありません。血の跡も争った跡も。いまのところは」
 重信は言葉を選びながら砂利を踏む足音だけをしばらく響かせた。
「足跡は、途中で消えています。裏山まで捜索犬を入れましたが、ある地点から先は匂いを追えなくなるそうです」

 司は旅行鞄に手帳と万年筆を詰めながら、これから向かう場所が、単なる見舞いや里帰りとは、まったく違う性質のものであることを、あらためて自分に言い聞かせていた。それでも、鞄を持つ手には、不思議なほど迷いがなかった。

 村役場には県警の車が三台停まっていた。制服の警官が数人、無言で書類を運んでいる。誰も大声を出さない。誰も冗談を言わない。人の声が少ないせいで、靴音だけが廊下の奥まで妙に響いた。役場の電話は受話器が外れたまま台の下に垂れ、発信音だけを何時間も鳴らし続けていた。誰かがそれを戻しに来た様子はどこにもなかった。壁の張り紙は、村の運動会の日程を告げたまま黄ばんでいる。もう何年も前の日付だった。
「通報は、隣町の郵便配達員からでした」
 重信の声に、疲れがにじんでいた。目の縁が赤い。ここ数日、まともに眠っていない者の顔だった。
「三日、配達物が溜まっているのに誰も出てこないと。役場の宿直日誌は五日前で止まっていて、それ以降誰の姿も記録に残っていません。県警本部は事件性ありと見て、明日から機動隊と自衛隊に応援を要請する予定です。それまでは、現場保存を優先しています」
 書類を運ぶ警官の一人が、廊下の途中で足を止め、閉じたままの村長室のドアをしばらく見つめていた。誰かに呼ばれたわけでもないのに、それから小さく頭を下げ、そのまま何ごともなかったように歩き出した。

 司が案内されたのは村長の家だった。式台を上がった奥の座敷に文机がひとつ残されている。座布団には人が座っていた形の凹みがまだ残っていた。
「これを、先生に見ていただきたくて」
 重信が白い手袋の手で差し出したのは古い大学ノートだった。表紙に「日々」とだけ書かれている。角が丸くすり減り、長く手元に置かれていたことが分かった。
「文机の引き出しではなく、開いたままここに置かれていました。誰かに見つけてほしいような形で」
 司はそれを受け取った。手のひらに、思ったより重みが伝わった。紙が特別に多いわけではない。それでも掌の中で、ずしりと沈むような感触があった。長年、生徒のノートを何千冊と受け取ってきた手が、そこに何か普通ではないものを感じ取っていた。司は表紙を裏返し、綴じ糸の様子まで確かめてから、ようやくページに指をかけた。

 ノートを開くと村長の筆跡だった。あの丸みを帯びた癖のある字。子供の頃隣の机から覗き込んでいた字と同じだった。日記帳にしては書き込みが少ない。数ページごとに五七五の文字だけが並んでいる。日記でも遺書でもない。川柳だった。
 数句を目で追った。だが、疲れた頭ではまだ意味を結ぼうとしなかった。文字の並びだけが目の表面を滑っていく。
「先生、何か分かりますか」
「まだ、何とも」
 司はそれだけ答えノートを閉じた。指先が、表紙の上でかすかに汗ばんでいた。読み違えれば、辰雄が仕込んだ何かを、二度と拾えない場所まで転がしてしまう。そんな気がしてならなかった。

 村役場を出る前、司はもう一度、村長室の前を通りかかった。ドアは固く閉ざされていた。誰かが最後にこの部屋を使ったのは、いつのことだったのか。ドアノブに指をかけようとして、司は思いとどまった。まだ、その資格が自分にあるとは思えなかった。

 司はふと、村の入口で見た地蔵の並びを思い出した。六体、どれも欠けることなく立っていたという事実が、いまになって、司の中で奇妙な重みを持ち始めていた。壊されていない、消されていない、ただそこにあり続けているものと、消えてしまったものとの境目が、どこにあるのか。司にはまだ判じかねていた。

 外の光は畳の縁に長く伸びていた。日が傾き始めている。文机の上の窓から風のない村が見えた。干された洗濯物だけが誰にも揺らされないままそこにあった。
 司はノートを閉じ懐に入れた。表紙の「日々」の文字を指の腹でもう一度なぞる。重みが思っていたよりも掌に食い込んでくる気がした。
「重信くん。今夜は、ここに泊めてもらえるだろうか」
「もちろんです。仮眠室を用意させます」
「明日、頭が冷えてからあらためて読む」
 司はそう言ったが、内心では分かっていた。焦らずともあの数句はすでに頭の芯に居座っていた。
 村長は誰にも見つからない言葉ではなく、あえて誰か一人にだけ届く言葉を選んで残した。その相手が誰なのか、司にはもう分かっていた。答えを急げば辰雄が仕込んだ何かを踏み外しかねない。
 夜が静かに村を覆っていった。

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