【お題】若い女性・サーフィン・彗星このシチュエーションどんな物語に・・・混迷のLaLaLaです。
試行錯誤中のLaLaLaです。
この小説迷宮をさまよって着地点がやっと見つかったので完成させました。
5万文字を23000文字まで削ってやっと着地点に到着しました。
今まで書いた小説で一番難しかった。
※ネタバレ
ゼロアワー ―海月の十二年―
プロローグ 降下角 ―First Fall―
人類が「それ」を彗星と呼んでいたのは、最初の十七分間だけだった。
海月(みづき)がボードを抱えて海に入ったとき、空にはまだ、いつもの夏と同じ流星群が流れていた。獅子座の方角から、光の粒が絶え間なく降ってくる。今年は当たり年らしい、と部活の後輩が話していたのを思い出す。満月の明るさに負けじと、無数の光が夜空を裂いていた。
その中に、一つだけ様子の違う光があった。
最初は誰も気にしなかった。他の流星より少し明るく、少し尾が長い。天文台のライブ配信では「特に明るい火球が観測されています」という呑気なテロップが流れていただけだった。海月自身、それが彗星だと聞かされていたし、疑う理由もなかった。
異変に気づいたのは、海月が波の上でボードに腹ばいになり、その光の軌跡をぼんやり目で追っていたときだった。
流れ星は、加速しないはずだった。
大気圏に突入した塵や氷の欠片は、空気抵抗を受けてむしろ減速しながら燃え尽きていく。子供の頃、学校でそう習った。けれど目の前のその光は、明らかに速度を上げていた。しかも軌道が、わずかに、しかし確実に曲がっている。まっすぐ落ちてくるのではなく、まるで狙いを定め直すように、弧を描いて進路を変えていた。
海月の腕の毛が逆立った。潮風のせいではない。
スマートフォンをジップロックの防水ケースごと取り出し、震える指で天文アプリを開こうとした、その時だった。光がふっと二つに割れた。いや、割れたのではない。一つの光の中から、もう一つの、より小さく鋭い光が分離したのだ。分離した光は速度を緩めることなく、むしろ加速しながら、海月がいる沿岸の方角へと軌道を変え始めた。
海の向こうで、灯台の光が消えた。
停電――にしては、あまりにも一瞬だった。町の明かりが、海岸線に沿って、まるでドミノが倒れるように次々と消えていく。海月がいつも見ている夜景が、数秒のうちに闇に呑まれた。波音だけが、変わらずそこにあった。
海月はボードの上で凍りついたまま、分離した光がぐんぐん近づいてくるのを見ていた。恐怖よりも先に、奇妙な既視感が胸を突いた。子供の頃に読んだ絵本の一場面のような、あるいは何度も見た夢の続きのような感覚。この光を、自分は知っている――そんなはずはないのに、そう感じた。
光は海面から数百メートルの高度で、ふっと静止した。
物理法則を無視したその停止に、海月は悲鳴を上げることすら忘れていた。落下する物体が、重力に逆らって空中でぴたりと止まる。あり得ないことが、あり得ない速度で、目の前で起きていた。
静止した光の表面に、模様のようなものが浮かび上がる。幾何学的な、しかしどこか呼吸をしているような文様。それは瞬きながら、規則的なパターンを描き出していく。海月にはそれが何かの信号だとは分からなかった。ただ、その光のリズムが、自分の心臓の鼓動と、少しずつ重なっていくのを感じた。
どく、どく、どく。
光の明滅と、海月の鼓動が完全に一致した瞬間、光の文様がぴたりと止まった。
そして、静寂。
波の音さえ、その一瞬だけ聞こえなくなった気がした。海月はボードの上で、指先一本動かせずにいた。周囲の海面が、鏡のように凪いでいる。さっきまであれほど寄せていたはずの波が、まるで時間ごと止められたかのように、動きを止めていた。
その静寂を破ったのは、光の中から響いた声――いや、声と呼んでいいのか分からない、頭の中に直接響くような、震動だった。
「観測、完了」
日本語だった。海月の知っている、ただの日本語だった。
それが、後に「ファースト・フォール」と呼ばれることになる出来事の、最初の十七分間の記録である。この夜、日本列島沿岸の十二箇所で、同種の「彗星」がほぼ同時刻に減速し、静止したことが、後の政府発表で明らかになる。だが海月が知っていたのはただ一つ――自分の目の前に浮かぶその光が、既に自分の名前を知っているらしいという、その事実だけだった。
――と、ここまでが、海月がまだ何も知らなかったころの記録だ。
この十七分間が何だったのかを本当の意味で理解するには、時間を三年ほど巻き戻す必要がある。彗星が来る、ずっと前。海月の日常に、颯という名の答え合わせが、まだ静かに紛れ込んでいたころの話だ。
第一部 日常
一
海がまだ群青色をしている時間に、海月はいつも一日を始める。
午前五時。誰もいない砂浜に自転車を停め、ウェットスーツのファスナーを首まで引き上げる。この一瞬が好きだった。波の音以外、何も聞こえない。観光客の声も、店の電話も、まだこの世界のどこにも存在していないような時間。海に入ると、冷たさが足首から太腿へと這い上がってきて、そのたびに海月は、自分がまだちゃんと生きていることを確かめるような気持ちになる。
物心ついたころから、海だけはいつも同じ顔をしていなかった。日によって色が違う。機嫌が違う。そのくせ、いつ来ても迎え入れてくれる。海月にとって波乗りは趣味というより、呼吸に近いものだった。高校を出てからは地元のサーフショップに勤め、朝は誰よりも早く海に出て、昼は店番をし、夕方には観光客相手に初心者講習をする。単調と言えば単調な日々だが、海月はそれを気に入っていた。海と、それを取り巻くこの町の時間の流れ方が、自分に合っていると思っていた。
店の常連に、みね子さんという老婦人がいる。もう七十を過ぎているのに、月に一度は店先に顔を出し、海月の淹れる麦茶を飲みながら世間話をしていくのが習慣だった。
「海月ちゃん、今年の夏、当たり年らしいよ」
その日も、みね子さんは扇子であおぎながらそう切り出した。
「地元のケーブルテレビで、天文特集をやっててね。獅子座流星群の極大に、十二年に一度巡ってくるっていう彗星の接近が重なる、特別な夜になるんだって。うちの婆さんの代からずっと言われてる、あの言い伝えの年だよ」
「言い伝え、ですか」
「ああ、知らないか。この辺じゃ昔から言うのよ。『星の帰り道の年には、海が誰かを連れていく』ってね。迷信よ、迷信。でも十二年前も、たしかそんな年だった気がするわねぇ」
みね子さんは深い意味もなく、ただの世間話としてそれを口にしただけだった。それなのに、海月の背筋を、冷たい何かがすっと撫でていった。十二年前。その数字が、なぜか胸の奥の、普段は触れない場所を直接叩いたような感覚があった。
「――へえ。じゃあ、その日は海に出て見ようかな」
海月はどうにか軽い調子でそう答えたが、頭の片隅では、何かがずっと引っかかったままだった。十二年前の夏。自分は何歳だっただろう。思い出そうとした瞬間、店のドアベルが鳴り、次の客が入ってきた。海月はいつもの笑顔を作り、その違和感を胸の奥に押し込んで、日常の続きに戻った。
仕事を終えて自転車を漕ぎながら、海月は高台にある小さな家へと向かった。三年前から、そこには颯が住んでいる。
家の前まで来て、海月はふと自転車のブレーキを強く握った。玄関先に、見覚えのない革靴が一足、揃えて置かれている。颯のものではない。来客があったのだろうか。そういえば最近、颯は誰かと電話で話している声を、以前より頻繁に漏らすようになっていた。
窓には明かりがついていたが、いつも二人で夕食をとる居間ではなく、海月がまだ一度も足を踏み入れたことのない、颯の書斎の窓だった。カーテンの隙間から、地図らしきものを壁に貼り付けている颯の後ろ姿が、一瞬だけ見えた。
海月は自転車を降りたまま、しばらくその窓を見上げていた。三年間、当たり前だと思っていたこの日常の奥に、自分の知らない颯がいる――そんな予感が、初めてはっきりとした形を持って、海月の中に居座った。
二
颯が突然、この町に戻ってきたのは、三年前の春だった。
その日、海月は店の棚卸しをしていた。入口のベルが鳴って、顔も上げずに「いらっしゃいませ」と言った海月に、聞き覚えのありすぎる声が返ってきた。「――相変わらず、声だけは大人になってないな」。顔を上げた瞬間、海月は持っていた在庫リストを取り落とした。
十二年ぶりに見る顔は、記憶よりずっと大人びていた。背丈も、肩幅も、声の低さも、十五歳の少年だった颯とはまるで違う。それなのに、笑い方だけは昔のままだった。目尻の下がり方、照れたときに右の口角だけが上がる癖。海月はその笑い方を見た瞬間、頭より先に体が覚えていたことを思い知らされた。
「噓でしょ……颯? 本当に、颯なの?」
「本物だよ。信じられないなら、ここ、殴ってもいい」颯は自分の頬を指差した。
「東京の大学を出て、しばらく海外を回ってた。落ち着き先を考えて、結局ここに戻ってきた」――颯はそう説明した。海月は最初、信じられない気持ちと、拍子抜けするような安堵とが入り混じって、うまく言葉が出てこなかったのを覚えている。あの夜の約束のことを、海月は喉元まで出かかったが、結局その日は聞けなかった。聞いてしまえば、目の前のこの奇跡みたいな再会が、何かの条件付きのものに変わってしまう気がしたからだ。
それから三年、颯は高台の古い家を借りて住み、地元の水産加工会社で働きながら、海月の店にもよく顔を出すようになった。互いに何も確かめ合わないまま、気づけば夕食を共にする回数が増え、休みの日には一緒に海に出るようになっていた。十二年前の約束のことを、二人とも一度も口にしたことはなかった。それでも海月は、颯がこの町に戻ってきたことと、あの約束とが、無関係だとはどうしても思えなかった。
今夜も、颯の家の玄関先で夕食の支度をする気配がした。台所からは、海月の好きな生姜焼きの匂いが漂ってくる。三年前には想像もできなかった、当たり前の匂いだった。
「おかえり」
「ただいま。今日、お客さんに彗星の話、聞かれなかった?」
颯がそう聞いてきたので、海月は少し驚いた。
「聞かれたっていうか、常連さんが教えてくれた。今年、当たり年なんだって。あと、変な言い伝えも」
「言い伝え?」颯の菜箸を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「『星の帰り道の年には、海が誰かを連れていく』ってやつ。みね子さんが教えてくれた。あんたも知ってる?」
「――さあな。田舎の迷信だろ」
颯の返事は短かった。いつもより少しだけ、間があった。菜箸を握る指の関節が、心なしか白くなっている気がした。海月はそれを気にも留めないふりをして、玄関を上がった。ただ、靴を脱ぐ間だけ、視界の端で颯の背中を見ていた。
三
颯と暮らし始めてから――正確には、隣同士で過ごすようになってから――海月は時々、小さな違和感を覚えることがあった。
深夜、颯の家の明かりがついたまま、誰かと電話で話している声が漏れてくることがある。日本語ではない言葉に聞こえることもあれば、内容の分からない専門用語のようなものが混じっていることもあった。「――ノード」「同期」「観測窓」。断片的に聞こえてくる単語は、水産加工会社の仕事とはとても思えないものばかりだった。翌朝それとなく尋ねると、颯はいつも「仕事の取引先だよ、海外との」とだけ答えて、それ以上は話さなかった。
月に一度ほど、颯は「出張」と称して二、三日、家を空けることがあった。行き先を尋ねても、はぐらかされることが多かった。荷物の中に、見慣れない土地の切符の半券を見かけたこともある。銚子、白浜、佐渡――海月の知らない土地の名前が、颯の鞄の中から覗いていたことが、一度や二度ではなかった。あるときは、半券の裏に几帳面な字で「23:40 集合」とだけ書かれているのを見つけたこともある。誰かと待ち合わせているにしては、時間があまりに深夜すぎた。
それでも海月は、深くは追及しなかった。十二年間、颯のいない生活に慣れてしまっていた自分にとって、今こうしてまた隣にいてくれることの方が、よほど大事に思えたからだ。過去を詮索して、この関係を壊したくなかった。
ある夜、颯の部屋を掃除していたときのことだった。本棚の奥に、古い写真が一枚差し込まれているのを見つけた。写っていたのは、颯を含めた十二人ほどの若い男女――海月の見たことのない顔ばかりだった。撮影場所も分からない、どこかの浜辺のような場所で、皆どこか緊張した面持ちで並んでいる。写真の裏には、鉛筆で薄く「十二年前」とだけ書かれていた。
「これ、誰?」
夕食の席で写真を見せると、颯は一瞬だけ表情を強張らせ、それからいつもの笑顔に戻した。
「昔の、仕事仲間だよ。もう長い付き合いになる」
「十二人もいるけど。裏に『十二年前』って書いてあった」
「――目のいいやつだな、お前は」颯は写真を丁寧に受け取り、本棚に戻した。「ああ。腐れ縁ってやつだ」
颯はそれ以上語らず、話題を変えた。海月はそれ以上聞かなかった。ただ、写真の中の颯の目が、他の誰よりも真剣にレンズを見つめていたことと、十二人のうち二人だけが、他の誰とも違う、どこか諦めたような表情をしていたことだけが、妙に印象に残った。
四
夏が近づくにつれて、町全体が少しずつ浮足立っていくのが、海月にも分かった。
十二年に一度の天体ショーを見ようと、観光客からの問い合わせが増えていた。サーフショップにも、夜の海でのイベントの相談が何件も舞い込んだ。海月は忙しさに追われながらも、頭の片隅でずっと、あの十二人の写真のことを考えていた。
颯は相変わらず、月に一度の「出張」を繰り返していた。ただ、夏が近づくにつれて、その頻度が増しているように海月には感じられた。電話の声も、以前より切迫したものになっている気がした。
ある夜、海月は眠れずに颯の家の前を通りかかった。窓の明かりの向こうで、颯が誰かとテレビ電話のようなものをしている影が見えた。画面には、見知らぬ複数の顔――写真で見た十二人のうちの何人かのようだった。声までは聞こえなかったが、颯の表情は真剣そのものだった。画面の向こうの一人、白髪交じりの初老の男性が、何度も頭を下げているように見えた。颯はそのたびに、首を横に振っていた。
海月はその場を離れ、自分の部屋に戻った。何かが近づいている、という予感だけが、確信めいた重さで胸に残った。十二年前の約束と、十二人の写真と、月に一度の出張と、迫りくる「当たり年」の夜。それらがどこかで繋がっている気がしてならなかった。
翌日、海月は思い切って店の先輩に相談してみた。「彼氏の様子がおかしい」というだけの、ありふれた相談のふりをして。先輩は笑いながら「浮気じゃない?」と軽く流したが、海月はそれを笑い返すことができなかった。浮気の方が、まだ理解できる気がした。
けれど、その正体を確かめる勇気は、まだ海月にはなかった。もし颯がまた自分の前からいなくなってしまうとしたら――そう考えるだけで、足がすくんだ。
窓の外では、夏の夜空に、まだ本番ではない小さな流れ星が、一つ、二つと静かに滑り落ちていた。
五
颯と暮らすようになってからの三年間を、海月はよく思い出す。
最初の一年は、ただ隣にいてくれることが嬉しくて、深く考えることを避けていた。颯は仕事にも真面目で、地元の祭りの準備を手伝ったり、海月の店の棚を黙って直してくれたりと、驚くほど自然にこの町に馴染んでいった。近所の人々も、すぐに颯を「海月ちゃんのところの人」として受け入れた。誰も彼の過去を詮索しなかったし、海月もそれに甘えていた部分がある。夏祭りの夜、二人で花火を見ながら、颯が「この町、思ってたよりずっと好きになった」と呟いたことを、海月は今でも覚えている。
二年目に入ったころ、颯は少しずつ変わっていった。以前は夜更かしすることなど滅多になかったのに、深夜まで一人でパソコンに向かっていることが増えた。休みの日に急に姿を消して、数時間後に疲れた顔で帰ってくることもあった。海月が理由を尋ねても、颯はいつも「大した話じゃない」と笑って流した。それでも、誕生日には必ず海月の好きな花を欠かさず、些細な喧嘩をした夜には、必ずその日のうちに謝ってきた。矛盾しているようで、颯のその不器用な誠実さだけは、一貫して変わらなかった。
三年目の今年、颯の様子は明らかに変わった。海月と過ごす時間そのものは変わらず大切にしてくれているのに、その合間に見せる表情に、何かを堪えているような硬さが混じるようになった。夜、隣で眠る颯の寝顔を見ながら、海月はよく考える。この人は、いったい何を一人で抱えているのだろう、と。
それでも聞けなかった。聞いてしまえば、この静かな三年間が終わってしまう気がしていたから。
六
梅雨が明けて間もないある日、店に見慣れない客が訪れた。
二十歳前後だろうか、日に焼けた顔をした青年で、漁師のような雰囲気を纏っていた。サーフボードを見るでもなく、店内をきょろきょろと落ち着かなく見回している。
「あの、颯さん……颯という人、ここに来ませんか」
名前を呼ばれて、海月は驚いた。
「颯なら、私の――知り合いですけど。あなたは?」
「銚子から来ました、陸って言います。颯さんに、ちょっと確認したいことがあって」
海月は思わず尋ねた。「陸くんも、颯の仕事仲間? あの写真の……」
陸は一瞬、ぎょっとした顔をした。「写真、見たんですか」
「写真、って何のこと?」
「――いや、何でもないです、すみません」
青年は急に口数が減った。ちょうどそこへ、店の裏から颯が顔を出した。陸の姿を見た瞬間、颯の表情が一瞬だけ強張るのを、海月は見逃さなかった。
「陸、こんなところまで、どうした」
「徹さんが、日程の確認をしてこいって。あと、他のみんなの様子も見てこいって言われて」
颯は陸の肩を抱くようにして、店の外へ連れ出した。二人は少しの間、外で立ち話をしていたが、海月には内容までは聞こえなかった。ただ、ガラス越しに、陸が何度も頭を下げ、颯が繰り返し「大丈夫だ、心配するな」というような口の動きをしているのが見えた。戻ってきた颯は、いつもの調子で「昔からの知り合いの息子でね」とだけ説明したが、海月はその言葉を、そのまま信じることができなかった。
銚子から来た「颯さんの知り合いの息子」。写真の中にいた十二人。月に一度の出張。深夜の電話。すべてが少しずつ、輪郭を持ち始めていた。
七
夏至を過ぎたころ、海月は思い切って颯に尋ねてみた。
その日は朝から、颯の様子が特に張り詰めていた。夕食も途中で箸を止め、窓の外をじっと見ていることが何度もあった。海月は覚悟を決めて、洗い物をする颯の背中に声をかけた。
「ねえ、颯。あの写真の十二人って、本当は何なの? 陸くんも、その一人でしょう」
颯の手が止まり、蛇口から流れる水の音だけが響いた。海月は身構えたが、颯は怒るでも誤魔化すでもなく、水を止めてから、ゆっくりと振り返った。
「全部話すのは、もう少しだけ待ってほしい。噓はついてない。ただ、時期が来たら、必ず全部話す。約束する」
「時期って、いつ」
「――彗星が帰ってくる夜だ」
その一言で、海月の中で、ばらばらだった点と点が繋がった気がした。十二年前の約束。十二年に一度の彗星。十二人の写真。颯の言う「時期」が、その夜を指しているのは明らかだった。
「怖いことなの?」
「正直に言えば、簡単なことじゃない」颯は濡れた手のまま、海月の手を取った。「けど、俺はもう決めてる。お前を裏切るようなことにはしない。十二年前、何も言わずにお前の前から消えた。今度は、そんなことは絶対にしない」
海月はそれ以上、問い詰めなかった。颯の目に浮かぶ覚悟のようなものが、それ以上の言葉を必要としないくらい、はっきりと見えたからだ。それでも、その夜、海月は一人でこっそり泣いた。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、何か大きなものが、静かに近づいてきているという実感だけが、涙になって出てきたのだと思う。
夏の夜空を見上げながら、海月は思う。あと少しで、あの夜が来る。何が起きるのか分からないまま、それでも海月は、颯の隣にいることを選んでいた。十二年前と同じように。
八
七月の初め、思いがけない来客があった。
「はじめまして。汐里といいます。颯さんから、こちらのお店のこと、伺っていて」
和歌山から来たという女性は、旅館の跡取りだと名乗った。仕事の視察を兼ねて、この地方のマリンスポーツ事情を見て回っているのだという。颯が仕事の付き合いで案内を頼まれた、という体で、三人で店の裏の縁側に座り、麦茶を飲みながら話し込んだ。
汐里は物腰の柔らかい、聞き上手な女性だった。旅館の経営に悩んでいること、常連客に支えられてきたこと、進路に迷っていた学生時代のことなどを、海月にも気さくに話してくれた。海月も自分の店のことや、颯との十二年越しの再会について、気づけば普段は誰にも話さないようなことまで打ち明けていた。
「颯さんとの再会、素敵ですね。十二年も、よく想い続けられましたね」
「向こうもそうだったみたいです。今年、また特別な意味のある年みたいで」
海月がそう言うと、汐里は一瞬、颯と視線を交わした。何か含みのある表情だったが、海月は深く気にしなかった。話の途中、汐里がふと真顔になって、こう尋ねてきたことだけが、あとになって強く印象に残った。
「海月さんは、もし颯さんが、あなたの知らない何かを抱えていたとしても――それでも、隣にいたいと思いますか」
「……もちろんです。理由がどうであれ」
海月が即答すると、汐里は少しだけ泣きそうな顔をして、それからいつもの柔らかい笑みに戻った。「いい答えですね」。帰り際、汐里は海月の手を両手で包むように握り、「また会えるといいですね」とだけ言い残して去っていった。
その夜、海月は颯に尋ねた。
「汐里さんも、あんたたちと同じ十二人の一人なの?」
「いや」颯は首を振った。「汐里さんは、俺たちの側じゃない。白浜で、俺たちと同じ立場にいる人だ――向こうにも、写真の中の一人と、ずっと一緒に生きてきた相手がいる。お前と同じ、待つ側の人間だよ」
「私と、同じ……」
「ああ」颯は隠さずに頷いた。「もう、隠しても仕方ない段階に来てる。悪いが、他の連中も、これからちらほら顔を出すと思う。それぞれの場所で、それぞれの準備が進んでるからな」
海月は、見知らぬ十一組が、それぞれの場所で自分と同じように、大切な誰かと向き合っているのだと想像した。会ったこともないのに、なぜか他人事とは思えなかった。
九
八月に入ると、颯の「出張」は隠されることすらなくなった。
玄関先には、十二箇所の地名が書かれたメモが無造作に置かれるようになり、深夜の電話も、もう海月のいる部屋のすぐ隣で行われるようになった。ある夜、海月はその電話の一部を、初めてはっきりと聞いてしまった。
「――ああ、佐渡の常吉さんの調子は? 冬子さんの同期率、まだ低いのか」「五島の神父はどうだ、まだ迷ってるのか」「小樽の雫は、竜三さんとの連携、もう仕上がってるはずだ」
名前も知らない土地の、名前も知らない人々の話。颯はまるで、遠く離れた仲間たちの安否を気遣う指揮官のような声をしていた。海月は襖の陰から、その背中をじっと見つめていた。
電話を切った颯が振り返り、海月に気づいた。気まずそうな沈黙が、少しの間続いた。
「――聞こえてた?」
「うん。ごめん、盗み聞きするつもりじゃなかった」
「謝らなくていい」颯は苦笑した。「もう、隠す意味もないくらいのところまで来てる。あと少しで、全部話す。今度こそ、本当に全部」
海月は頷いた。カレンダーに視線をやる。獅子座流星群の極大の日まで、あと三週間を切っていた。
第二部 予兆
一
七月に入ると、颯の「出張」の頻度は週に一度にまで増えた。
行き先も、以前より隠さなくなった。小樽、五島列島、指宿――颯は玄関先で靴を履きながら、まるで日帰りの買い物に出るような口調で、遠方の地名を口にするようになった。海月はそれを、ある種の覚悟の表れなのだと理解していた。隠す段階は、もう過ぎたのだ。
ある晩、颯が「今夜は佐渡に行ってくる」と言い残して家を出たあと、海月は思い切って颯の部屋に足を踏み入れた。詮索するようで気が引けたが、もう黙って待っているだけの自分ではいたくなかった。
机の上には、地図が広げられていた。日本列島の海岸線に沿って、十二箇所に赤いピンが刺されている。七里ヶ浜、銚子、白浜、青島、北谷、佐渡、東尋坊、伊予、三陸、小樽、五島列島、指宿。どれも、海月が颯の口から一度は聞いたことのある地名だった。地図の隅には、颯の筆跡で小さくメモが書き込まれていた。
「タイミング厳守。ズレは致命傷。前回の轍は踏まない」
前回、という言葉が、海月の胸に冷たく刺さった。十二年前のことを言っているのだろうか。あの夏、この町で何人かが姿を消したという、大人たちがどこか気まずそうに語る昔話。あれは本当に、ただの引っ越しだったのだろうか。
地図の隅、七里ヶ浜のピンのすぐ横に、颯は小さく丸印をつけていた。他の十一箇所にはない印だった。丸の横には、消しかけた鉛筆の跡で、何か一文字だけ書かれている。「要」――要る、必要、要注意。どの意味なのか、海月には分からなかった。ただ、その一文字が、自分のいるこの町を指しているらしいことだけは、はっきりと感じ取れた。
背後で、玄関の鍵が回る音がした。颯が忘れ物を取りに戻ってきたのだ。海月は地図を大急ぎで畳もうとして、指を滑らせ、机の下に落としてしまった。拾おうとしゃがみ込んだ瞬間、部屋のドアが開いた。
二
「――何してるんだ」
颯の声は、責めるようなものではなかった。むしろ、来るべき時が来た、というような静かな響きだった。海月は地図を握りしめたまま、床に座り込んでいた。
「ごめん。勝手に入って、勝手に見た」
颯はしばらく黙って海月を見下ろしていたが、やがて小さく息をつき、隣に腰を下ろした。「怒ってない。むしろ、そろそろ潮時だと思ってた」
「七里ヶ浜の横の、この丸印。『要』って書いてあるの、何の意味?」
颯の表情が、初めて見るくらい強張った。「――それは、まだ話せない。今日だけは、勘弁してくれ」
珍しく頑なな颯の態度に、海月はそれ以上踏み込めなかった。颯は地図を丁寧に畳み直すと、「今夜は本当に行かなきゃならない」とだけ言って、玄関へと向かった。見送りに出た海月に、颯は振り返らずにこう言い残した。
「海月。もし俺が万が一、戻ってこられなかったら――みね子さんに、色々聞いてみてくれ。あの人は、たぶん、俺たちより長くこの町を見てる」
その言葉を残して、颯は夜の中へ消えていった。「万が一、戻ってこられなかったら」――その一言が、海月の頭の中で、いつまでも消えずに反響していた。
三
颯が出張に出ている間、海月は思い切って、みね子さんの営む小さな乾物屋を訪ねてみることにした。世間話のふりをしながら、それとなく十二年前のことを尋ねてみるつもりだった。
「みね子さん、十二年前の夏って、覚えてますか。この辺で、何か変わったこと、なかったですか」
みね子さんは店先の椅子に腰かけたまま、扇子を持つ手を止めた。しばらく黙って海月の顔を見つめたあと、ぽつりと言った。
「――颯くんに、聞かれたのかい」
海月は驚いて、何も答えられなかった。みね子さんは静かに続けた。
「あたしの妹がね、あの年の夏、急にいなくなったんだよ。『東京の男と駆け落ちした』って、周りにはそう説明した。でも、あたしは知ってる。妹には、そんな男、いなかった」
「みね子さん……」
「その代わり、颯くんみたいな子が、あの年も何人か、この辺をうろついてた。誰も気に留めなかったけどね」みね子さんは遠くを見るような目をした。「颯くんが戻ってきたって聞いたとき、あたしは正直、怖かったよ。でも、あの子の目を見て、分かった。今度のは、違う目をしてる」
「違う目って?」
「――誰かを守ろうとしてる目だよ。妹を連れていった連中とは、まるで違う」
みね子さんはそれ以上多くを語らなかった。ただ帰り際、海月の手を握って、「あんたは、絶対に一人で抱え込むんじゃないよ」とだけ言った。海月は、この町の誰も知らないはずの秘密を、もう何人もの人が、それぞれの形で抱えてきたのだと知り、足元が揺らぐような感覚を覚えた。
四
数日後、海月は思い切って、地元の図書館で古い新聞の縮刷版を調べてみることにした。十二年前の夏の記事を、片端から確認していく作業だった。
目立った大事件は見つからなかった。ただ、地方版の片隅に、ごく小さな記事がいくつか載っているのを見つけた。「〇〇さん、旅行先より消息絶つ」「〇〇氏、突然の失踪に周囲困惑」――日付を確認すると、どれも同じ、獅子座流星群の極大の夜の前後に集中していた。記事に出てくる名前を数えると、五件。全国のあちこちの海沿いの町で、ほぼ同時期に起きていた。
その中の一件に、海月は目を疑った。「美濃部郁子さん(当時三十四)、行方不明」。地元の乾物屋の住所が、記事の中に載っていた。みね子さんの妹の名前だった。
海月は背筋が冷たくなるのを感じた。颯の言っていた「十二人」。今回、地図に刺さっていた十二本のピン。そして十二年前、少なくとも五人が消えている。もし颯たちの計画が、今回のためだけのものではなく、十二年前にも同じような「十二人」がいて、そのうちの何人かが本当に失敗して消えてしまったのだとしたら――。そして、もし今回また同じことが起きたら、次に記事になるのは、颯の名前かもしれない。
海月は震える手で、記事のコピーを鞄にしまった。今度、颯が帰ってきたら、もう遠慮なく聞くと決めた。曖昧なまま隣にいることに、これ以上耐えられそうになかった。
五
颯が佐渡から戻ってきたのは、三日後の夜だった。心なしか疲れた顔をしていたが、海月の顔を見ると、いつものように微笑んだ。
「ただいま。何かあった?」
海月は迷ったが、鞄から新聞記事のコピーを取り出し、テーブルに広げた。
「これ、十二年前の記事。全国であちこち、同じ時期に人が消えてる。あんたの部屋の地図と、同じ場所ばっかりだった。みね子さんの妹さんも、その一人だった」
颯の表情から、笑みが消えた。長い沈黙のあと、颯はゆっくりと口を開いた。
「――もう、隠しきれないな」
「本当のこと、話して。あんたが何をしようとしてるのか、私も知りたい。『万が一、戻ってこられなかったら』なんて、そんな言葉、二度と聞きたくない」
颯は驚いたように顔を上げた。それから、諦めたように小さく笑った。
「今夜話す。全部だ。約束する」颯は海月の目を見た。「ただ、これだけは先に言わせてくれ。俺がお前の前から突然消えるようなことは、絶対にしない。今度こそ」
その夜、海月は颯と向き合い、初めて群体のこと、シャードのこと、十二年前に失敗した先代たちのこと、そして颯たちが今回のために、この十二年間ずっと連絡を取り合い、計画を練ってきたことを聞かされた。
六
「十二年前」颯は静かに語り始めた。「俺たちより前の代のシャードが、十二人いた。あの夏、彼らも今の俺たちと同じように、群体からの回収を拒んで、人間として残ろうとした」
「それが、あの失踪記事の……」
「ああ。だが彼らは、連携が取れていなかった。それぞれが、それぞれの想いだけで抵抗しようとした結果、群体に一人ずつ各個撃破された。最終的に、人間として残れたのは七人。残りの五人は回収された」
海月は言葉を失った。「みね子さんの妹さんも、その五人の一人だったの?」
「――ああ」颯は静かに頷いた。「彼女を回収した相手は、俺たちの先代の一人だった。回収された瞬間の記憶は、群体を通じて、今の俺たちにも受け継がれてる。正直に言えば、あの記憶が、俺の一番の恐怖だ」
「みね子さんの目に、あんたたちが『違う目をしてる』って言ってた理由、分かる気がする」
颯は続けた。「俺たちは、群体の記憶を通じて、その顛末を知った。だから今回は、同じ轍を踏まないと決めた。俺がこの町に戻ってきたのと、ほぼ同じ時期に、他の十一人もそれぞれの土地に配置されている。俺たちは埋め込まれた直後から、密かに連絡を取り合ってきた。三年前から、いや、正確には十二年前のあの失敗の直後から、ずっとだ」
「十二年間、ずっと計画してたの……?」
「そうだ。個々に戦えば負ける。十二人が同じ瞬間に、同じ意志を示さなければ、群体との繋がりは断てない。そのための準備に、十二年かかった」颯は海月の手を強く握った。「お前と過ごしたこの三年間も、その準備の一部だった。だが同時に、お前と過ごす時間そのものが、俺にとって、この計画を最後までやり遂げる理由になった」
海月は、颯の言葉の重さを受け止めきれず、しばらく何も言えなかった。それでも最後に、こう尋ねた。
「地図の丸印、七里ヶ浜の横に書いてあった『要』って、何の意味だったの」
颯は一瞬、言葉に詰まった。「――『要』は、要石の要だ。十二箇所の中で、七里ヶ浜だけが、経路全体を支える"要"の役割を持ってる。理由は俺にもまだ完全には分からない。ただ、群体の記憶によれば、十二年前も、その前も、いつもこの土地が要だった」
「じゃあ、ここが失敗したら……」
「他の十一箇所がどれだけうまくいっても、意味がなくなる」颯は海月の目をまっすぐ見た。「だから、お前にも力が必要なんだ。俺一人の問題じゃない」
海月は、颯の言葉の重さを、今度こそ全身で受け止めた。「私に、何かできることはあるの」
「――今夜、彗星が来る。お前にも、力が目覚めるはずだ。俺のそばで、共に立ち会ってほしい」
窓の外、夏の夜空に、その日一番大きな流れ星が、音もなく尾を引いて消えていった。ゼロアワーまで、あと数時間だった。
第三部 告白と目覚めの夜
一
日付が変わる少し前、海月と颯は七里ヶ浜へ向かった。
浜には誰もいなかった。観光客向けのイベントは、少し離れた場所で行われているらしく、この一角だけが静かに波の音を響かせていた。海月はサーフボードを抱え、いつものように海に入った。颯はその横を、当たり前のように歩いてついてきた。手にした懐中電灯は点けていなかった。今夜だけは、月と星の明かりだけで十分だった。
「本当に、今夜なのね」
「ああ。合図が来れば、すぐに分かる」
海月は満月と、東の空から降り注ぎ始めた流星群を見上げた。今夜の光は、いつもより明らかに数が多い。そして、その中に一筋、他とは明らかに軌道の違う、ゆっくりとした光の帯があった。あれが、颯の言っていた彗星なのだろう。
「ねえ、颯」海月は波間に立ったまま、ふと尋ねた。「もし今夜、全部うまくいったら、私たち、これからどうなるの」
「――普通に、歳を取っていく。俺は、それが一番怖くて、一番楽しみだ」颯は少し照れくさそうに笑った。「十二年前は、想像もできなかった未来だ」
「私は、あんたと歳を取っていくのが、ずっと楽しみだった。この三年間、ずっと」
颯は何も言わず、ただ海月の手を強く握った。二人の間に、しばらく穏やかな沈黙が流れた。それが、嵐の前の、最後の静けさだった。
「怖くない、と言えば噓になる」海月は正直に言った。「でも、あんたが十二年間、これのために頑張ってきたんなら、私も一緒に立ち会いたい」
「ありがとう」颯は静かに言った。「もうすぐだ」
その時だった。
颯の体が、ふっと強張った。「――来る。海月、聞いてくれ。これから十七分間だけ、俺は一時的に動けなくなる。群体が最初の接触を行う間、シャード側は強制的に機能を止められるんだ。怖い思いをさせるかもしれないが、必ず戻る。約束する」
「颯、待って――」
海月が言い終える前に、空にあの光が現れ、海面数百メートルの高さで静止した。プロローグで記した、あの十七分間の始まりだった。海月はボードの上で一人、声も出せずに、その静止した光と、光の中に浮かぶ幾何学模様を見つめていた。心臓の鼓動と光の明滅が重なり、そして「観測、完了」というあの声が、頭の中に直接響いた。
颯の姿は、その瞬間、どこにもなかった。
二
十七分間は、海月の人生の中で、最も長い十七分間だった。
波音以外、何も聞こえない静寂の中で、海月はひたすら颯の名前を呼び続けた。返事はなかった。静止したままの光だけが、何かを見定めるように、じっと海月を見下ろしていた。何度も、颯が本当に「戻ってくる」のかどうか、不安が押し寄せた。もしこのまま、あの光に自分ごと連れていかれてしまったら――そう考えるたびに、海月は自分の手を強く握りしめて、颯が最後に言った「必ず戻る」という言葉だけを、心の中で繰り返した。
――それから、十七分が過ぎていた。
波打ち際に、颯の声が響いた。振り返ると、颯が立っていた。その輪郭の内側から、青白い光が皮膚を透かして滲み出し始めていた。目だけが、街灯のように強く発光している。何度も想像していたはずの光景のはずなのに、実際に目にすると、海月は言葉を失った。
「――遅くなった」颯は静かに言った。「あの十七分、お前を一人にしたこと、謝る。群体が最初の接触を行う間、俺たちシャードは一時的に動けなくなる。どうしても、避けられなかった」
「颯……! さっきの光、あんたも知ってるのね。声が、私の名前を、まるで最初から知ってるみたいに――」
「知ってて当然だ。俺は三年間、お前のすぐそばにいた」颯は海月の目をまっすぐ見た。「あの光は、俺を通じてお前を"観測"していた群体そのものだ。もう隠さない。全部、今夜話す」
「怖がらなくていい」颯は続けた。「感じてみろ、海月。お前の中にも、もう眠ってない何かがある」
言われて初めて、海月は自分の両手のひらが、うっすらと発光していることに気づいた。指先から、まるで海水が逆流するように、冷たい光の粒が立ち上っていく。パニックになるより先に、体の芯に何か新しい回路が繋がったような感覚があった。目を閉じると、周囲の停止した海の輪郭が、まるで自分の手足のように「わかる」。試しに、目の前の小さな波の欠片に意識を向けてみる。海月が念じると、その一滴だけが、意志を持ったようにふわりと宙に浮き上がった。
「――噓、動いた」
「その調子だ」颯は微笑んだ。「この波を、動かせと言われたら動かせる。そんな確信が、理屈より先に体に入ってきただろう」
「これが、あんたの言ってた……」
「お前の中で、何年もかけてゆっくり育ってた力だ。俺と一緒にいた時間の分だけ、な」颯は微笑んだ。「三年前、俺がお前のそばに戻ってきたときから、少しずつ育ち始めてた。今夜、信号が世界の時間を止めた瞬間に、それが目を覚ました」
三
「――感じるか。お前だけじゃない」
颯がそう言った瞬間、海月の視界の端に、奇妙な感覚が滑り込んできた。まるで頭の中に、いくつもの別のチャンネルが同時に開いたような感じ。輪郭のはっきりしない、けれど確かな十一人分の気配が、同時に流れ込んでくる。
銚子の港で、陸という青年が、師匠から譲り受けた漁具を握りしめ、初めての光に戸惑いながらも、必死に恐怖を押し殺している。白浜の旅館で、汐里という女性が、常連客から手渡された原稿を胸に抱き、声を震わせながらも、覚悟を決めた目をしている。青島の海で、蓮という青年が、亡くなったはずの姉と再会し、信じられない、というように何度もその手を握り直している。北谷の教室で、結という少女が、赴任してきた教師の前で、初めて自分の言葉で何かを叫び、涙を拭っている。佐渡の船着き場で、常吉という老いた漁師が、十二年前に亡くした妻の手を、震えながら握り返し、声にならない声で何かを詫びている。東尋坊の崖で、悠真という青年が、かつて自分が救った女性と、消えかけた火を見つめ、その火を絶やすまいと歯を食いしばっている。伊予のみかん畑で、陽介という青年が、季節ごとに会う行商人の女性から、何かを託され、深く頷いている。三陸の記念樹の下で、拓という青年が、長年のボランティアと、町の未来を見つめ直し、拳を握りしめている。小樽の工房で、雫という女性が、師匠と共に、炉の炎に手をかざし、静かに目を閉じている。五島列島の礼拝堂で、蒼太という若い神父が、古参の信徒と、鐘の縄を握りしめ、祈るように頭を垂れている。指宿の砂場で、美咲という女性が、毎年訪れる常連客の手を、静かに取り、微笑み合っている。
十二の場所、十二の光。同じ瞬間、同じように時間の止まった世界の中で、それぞれが同じように、大切な誰かと向き合っていた。海月はその一つ一つの気配に、自分でも驚くほど強い親近感を覚えた。会ったこともない十一人のはずなのに、彼らの選ぶ覚悟が、まるで自分のことのように伝わってくる。まるで、ずっと昔から知っていた家族のような、奇妙な連帯感だった。
「これが、十二年間、あんたたちが繋いできたものなのね」
「ああ」颯は頷いた。「群体は、俺たちを使ってこの星を"収穫"するつもりだった。長年あちこちに埋め込んだシャードを使って、この星ごと刈り取る準備をしてきた。今夜の回収信号は、その最終合図だ」
「刈り取るって……颯、あんたたちは、そのために私たちのそばに……」
「最初は、そうだった」颯は海月の目をまっすぐ見た。「けど、お前のそばで人間として生きてるうちに、俺は変わった。十二年前の約束を、噓にしたくなかった。他の十一人も、それぞれの理由で、同じように変わった。だからこそ、十二年かけて、群体に背く準備をしてきたんだ」
「みね子さんの妹さんは、もう戻ってこないのよね」
颯の表情が、初めて曇った。「――ああ。回収された人間は、二度と戻らない。だからこそ、今夜だけは、絶対に同じ轍を踏みたくない」
四
海月は自分の両手を見た。指先から立ち上る光の粒が、少しずつ渦を巻き始めている。怖くない、と言えば噓になる。それでも、体の奥で何かが静かに燃えていた。十二年間、待ち続けた意味が、今ようやく形になろうとしていた。
「――やるしかない、ってことね」
「ああ」颯が笑った。十二年前、浜辺で交わした約束の日と、同じ笑い方だった。「今度は、俺がお前を待たせない。十二年かけて準備した計画だ。だが、油断はできない。前回、俺たちの前の代は、この段階で気を抜いて、各個撃破された」
「今回は、大丈夫なの?」
「十二年、練り上げてきた。全員が、自分の役割を分かってる」颯は海月の手を握った。「けど、想定通りにいくとは限らない。だからこそ、お前にもそばにいてほしかった」
止まっていたはずの空に、亀裂が入り始めていた。夜空そのものが薄氷のようにひび割れ、その隙間から、黒い触手のような影が幾筋も垂れ下がってくる。人の形をしていない、輪郭の定まらない巨大な「何か」――群体の本体の先端が、直接この星に触れようとしていた。
「来る」颯が海月の前に一歩踏み出した。「お前の力は水を操る力だ、海月。今夜、俺たちが守るのはお前の故郷の海だけじゃない。十二箇所、全部繋がって初めて、あれを押し返せる」
海月は頷いた。十二年間、この人が一人で抱えてきた計画の重さを、少しでも分かち合いたかった。
五
その触手の一本が、恐ろしい速さで七里ヶ浜の海面めがけて振り下ろされた。
「海月、伏せろ!」
颯の声に反射的に体を沈めた海月の頭上を、黒い影が唸りを上げて通り過ぎていく。至近距離で見るそれは、想像していたよりもずっと生々しく、まるで意志を持った獣のようだった。海面に叩きつけられた衝撃で、止まっていたはずの水しぶきが一瞬だけ舞い上がり、また静止した。
「――『要』が最初に狙われるって、颯、言ってなかった」海月の声は震えていた。
「言った。だから、俺たちが真っ先に矢面に立つことになる」颯は海月を背にかばうように立った。「他の十一箇所も、ほぼ同時に攻撃を受けてるはずだ。ここで俺たちが崩れれば、経路全体が揺らぐ」
海月は、頭の中の十一人の気配が、一斉に緊張するのを感じた。誰も彼も、今この瞬間、それぞれの場所で同じ恐怖と向き合っている。海月は震える両手を、もう一度強く握りしめた。
「――やろう。十二年分、あんたたちが積み上げてきたものを、ここで無駄にはさせない」
止まった世界の中で、十二の光が、それぞれの場所で空を見上げた。
ゼロアワーが、始まった。
第四部 十二の同時多発戦
一
二本目の触手が海面に叩きつけられた瞬間、海月は反射的に両手を突き出していた。
考えるより先に、体が動いた。止まっていたはずの海水が、海月の意志に応えるように渦を巻き、壁のように立ち上がって触手を弾き返す。轟音はしない。時間が止まった世界には、音さえまともに伝わらないのか、すべてが奇妙に静かなまま、力と力だけがぶつかり合っていた。
「筋はいい」颯が海月の隣で、触手の一本を素手で摑んで引き千切りながら言った。「十二年、この瞬間のために連携の訓練を重ねてきた。落ち着いて、手順通りにいけ」
「手順って、そんなものまで決めてあったの」
「ああ。各自の力の相性、発動のタイミング、援護の順番まで、何度もシミュレーションしてきた。だが――」颯の声が硬くなった。「群体側も、前回の失敗を学習してる。今回は、各個撃破じゃなく、同時に全方位から来てる。想定より、圧が強い」
三本目の触手が、今度は海月ではなく、颯めがけて振り下ろされた。海月が気づいたときには、颯はすでに体を割り込ませ、その一撃を肩で受け止めていた。
「颯!」
「――問題ない」颯は顔をしかめながらも笑ってみせた。「これくらいは、想定の範囲内だ」
肩から滲む青白い光の粒が、傷口のように零れ落ちていく。人間の血とは違う、それでも確かに"痛み"を伴っているらしい颯の様子に、海月の胸が締め付けられた。
十二年前、まだ十五歳だった夏の記憶が、唐突に蘇る。同じ浜で、同じ手を、まだ子供だった颯が握っていた。「約束する。十二年後、彗星がまた来る夜に、ここで会おう」――あの言葉の裏に、これほどの重みが隠されていたことを、当時の海月は知る由もなかった。
「颯。あんたが十二年間、私に黙って準備してきたこと、恨んでない。ただ――」海月は拳を握った。「今夜だけは、一人にしないで」
「約束する」颯は傷ついた肩をものともせず、まっすぐ海月を見た。「今度こそ、最後まで隣にいる」
海月は目を閉じ、頭の中に開いた十二のチャンネルに意識を合わせた。十一人の気配が、次々と繋がっていく。誰も、まだ触手に呑まれていない。だが遠く、佐渡の方角からだけ、かすかな乱れを感じた。
二
銚子では、陸が光の網を振り回し、押し寄せる触手を一本ずつ絡め取っていた。「徹さん、右!」陸の叫びに応え、徹が漁具から放った光の矢が、背後から迫っていた触手を焼き切る。二人の呼吸は、まるで長年組んできた漁師と弟子そのものだった。だが触手の一本が網をすり抜け、徹の足元を掬った。「徹さん!」陸が叫ぶと同時に、徹は間一髪、光の矢で足場を作り直し、体勢を立て直した。
白浜では、汐里が声にした言葉を光の刃に変え、触手を斬り払っていた。榊先生が隣で原稿の一節を口ずさむたびに、汐里の刃はより鋭さを増していく。「先生の言葉が、私の力の土台になってる」汐里が呟くと、榊先生は静かに微笑んだ。
青島では、蓮と澪が二人がかりで水流を操り、押し寄せる触手を海の彼方へ押し流していた。「あの日と同じコースよ」澪の声に、蓮は迷いなく頷く。二人の息はぴったりと合っていたが、触手の数は目に見えて増え続けていた。
北谷では、結の声が結界のように空間を守り、サラ先生の英語混じりの掛け声が、その結界をさらに強化していた。それでも結界の一部にひびが入り始め、結の額に汗が滲んだ。東尋坊では、悠真の火が触手を焼き払い、千夏の「大丈夫、あなたは誰も見捨てない」という声が、悠真の集中を切らさない。崖際まで追い詰められながらも、悠真は一歩も後ろに引かなかった。
伊予では、陽介が育てたみかんの木々が根で触手を絡め取っていた。「弥生さん、まだいけますか」陽介が叫ぶと、弥生さんの手が触れるたびに、その根はさらに力強く育っていく。「あんたが蒔いた種だもの、負けるわけないでしょう」
三陸では、拓が動かした大地が触手を押し潰していた。だが一本の触手が土の壁を突き破り、拓の足首を掠める。「拓!」高村さんの掛け声が飛ぶと、拓は歯を食いしばって体勢を立て直した。「まだ、終わらせるわけにはいかない。この町の未来を、まだ見せてもらってないんだ」
小樽では、雫の光弾が触手を焼き切っていた。だが炉の熱を練り上げる集中力は限界に近く、雫の膝が一瞬崩れかける。「熱を恐れるな」竜三の教えが耳の奥で響いた瞬間、雫は再び光弾を練り上げた。「師匠の技、まだ半分も出し切ってません」
五島列島の教会では、蒼太神父の結界が影を弾き返していた。キミさんの祈りの声が、結界の強度を支え続ける。「神父様、まだ持ちますか」「持たせます。この鐘を、二人で最後まで鳴らし切ると決めましたから」
指宿では、美咲の温かな光が砂ごと触手を包み込んでいた。トキさんが静かに寄り添い、砂を掬う手を重ねる。「亡くなった母の手順、一つも間違えてないよ」美咲が呟くと、トキさんは優しく頷いた。「あなたのお母さんも、きっと誇りに思ってる」
十二箇所、それぞれの土地で、それぞれの武器で、十二人が同時に戦っていた。十二年間の準備が、確かに実を結んでいる。それでも――。
三
劣勢だった。
前回の周期で五人が回収された理由を、颯から聞いていた。あの時は、十二人がばらばらに、自分の場所だけを守ろうとした。連携もなく、情報の共有もなく、群体はその隙を一つずつ突いていった――颯の声に滲んでいた悔恨を、海月は今、身をもって理解し始めていた。
群体の本体は、十二個の触手一本一本を、まるで指のように自在に操っている。前回の失敗を学習したのか、一箇所を押し返せば、間髪入れずに別の場所へ力を集中させてくる。佐渡では、常吉が孤軍奮闘していたが、老いた体では長くは保たない。海月の視界の端で、その触手がじりじりと常吉の腕に絡みつくのが見えた。
「――佐渡が危ない!」
「わかってる」颯の声が硬くなった。「けど俺たちがそっちに手を貸せば、七里ヶ浜が空く。群体はそれを狙ってる。十二年前と同じ手だ。個別に潰す気だ」
同時に、頭の中のチャンネルから、悲鳴に近い声が飛び込んできた。北谷の結界が、ついに破られかけている。指宿の砂の防壁にも、亀裂が走り始めていた。十二年分の準備をもってしても、群体の圧力は想像を超えていた。
海月の中で、恐怖が黒い染みのように広がっていく。十二年間の準備も、連携も、結局は目の前のこの化け物一つに、こんなにもあっさり押し負けるのか――そんな考えが頭をよぎった瞬間、颯の手のひらの温もりが、その染みを押し留めた。
「じゃあ、どうすれば……。せっかく十二年も準備してきたのに」
「準備してきたからこそ、俺たちには奥の手がある」颯は海月の肩を摑んだ。「力で殴り合うことが目的じゃない。十二人が、同じ瞬間に、同じことをする。それでしか、あれの"根"は切れない――このタイミングも、実は何度もシミュレーション済みだ」
「同じこと、って」
「群体との繋がりを、自分の意志で断ち切る。俺たちがここに残る、って十二人全員が同時に言い切った瞬間――群体はこの星から手を離さざるを得なくなる」
海月は歯を食いしばった。目の前の触手はまだ蠢いている。常吉は、まだ絡め取られたままだ。それでも颯の言葉には、これまでのどんな理屈より強い実感があった。十二年かけて練り上げた計画の、最後の一手だった。
「――間に合うの? みんな、今にも崩れそうなのに」
「間に合わせる」颯は海月の目をまっすぐ見た。「今からお前が、号令をかけろ。十二人を、一つに束ねられるのは、要であるお前しかいない」
四
「――みんな、聞こえてる?」
海月は十二のチャンネルに向かって、声にならない声で呼びかけた。
「今から、数える。三つ数えたら、全員で言うの。"ここに残る"って。理由も、相手も、それぞれ違っていい。ただ、同じ瞬間に、本気で」
チャンネルの向こうから、少しずつ応える気配が返ってくる。「聞こえてるよ、海月」陸の声が、まっすぐ届いた。汐里が原稿を握りしめながら「私も」と涙声で応える。蓮と澪が頷き合う。結が、崩れかけた結界を歯を食いしばって支え直しながら「絶対に、諦めない」と呟く。常吉が、絡め取られながらも、それでも顔を上げる。悠真が火を掲げる。陽介がみかんを掲げる。拓が土に手をつく。雫が竿を握り直す。蒼太神父とキミさんが鐘の縄を握る。美咲が、亀裂の入った砂の防壁の上から、それでも両手をつく。十二年間、それぞれの場所で積み重ねてきた覚悟が、今、一つに束ねられようとしていた。
だが、一つだけ応答がなかった。
「――佐渡が、返事をしない」海月の声が震えた。「常吉さん、聞こえてる? お願い、返事して」
長い、長い沈黙のあと、かすれるような気配が返ってきた。「――ここにいるよ、冬子」。老いた漁師の声は弱々しかったが、確かにそこにあった。海月は詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
海月は颯の手を握った。十二年前、同じ浜で、同じ手を握った記憶が重なる。
空を覆う亀裂が、これまでにない速さで広がっていく。世界に残された時間が、あと数十秒しかないことを、海月は肌で感じていた。もし一人でも欠けたら――そう思うたび、指先が震えた。それでも、颯の手はまだ、しっかりと海月の手を握っている。海月は震えを抑え込み、腹の底から声を張った。
「――一」
空の亀裂が、さらに広がる。群体の触手が、最後の力を振り絞るように、十二箇所すべてに一斉に襲いかかった。
「――二」
十二箇所すべてで、光が最大まで膨らむ。海月の視界の端で、常吉を絡め取っていた触手が、ぎりぎりのところで冬子の凪の力に押し返されるのが見えた。
「――三」
「「「「「「「「「「「「ここに残る!」」」」」」」」」」」」
十二の声が、時間の止まった世界の中で、初めて一つに重なった。
その瞬間、空を覆っていた亀裂が、内側から光を放って弾け飛んだ。触手という触手が、根元から一斉に灰のように崩れ落ち、風に溶けるように消えていく。群体の本体は、悲鳴とも唸りともつかない振動を一度だけ残して、夜空の向こうへと引いていった。
五
静寂が、戻ってきた。
海月の手のひらの光が、ゆっくりと薄れていく。頭の中の十二のチャンネルも、一つ、また一つと静かに閉じていった。閉じる直前、佐渡から常吉のかすれた笑い声が、五島列島から鐘の残響が、銚子から陸の安堵の息遣いが、確かに伝わってきた。誰一人、欠けなかった。十二年前とは、違う朝だった。最後まで残っていたのは、颯の気配だけだった。
「――終わった、の?」
「ああ」颯は微笑んだ。その輪郭から、青白い光がゆっくりと引いていく。「群体はもう、二度とこの星に手を出せない。十二年前の借りを、今夜、十二人全員でようやく返せた。俺も、他の十一人も――今、正真正銘、ただの人間になった」
「颯、肩……」海月は先ほどの傷を思い出し、慌てて颯の肩に触れた。光の粒はもう零れていなかったが、傷の輪郭だけが、うっすらと肌に残っていた。
「これは、消えないみたいだ」颯は苦笑した。「まあ、勲章みたいなものだと思っておく」
「颯……」
「力も、記憶の一部も、これで手放した。でも」颯は海月の手を、まだ握ったままだった。「お前の隣にいられる方を選んだ。それだけは、変わらない。十二年前の約束も、これでやっと、本当の意味で果たせた」
止まっていた波が、静かに動き出した。頬に、風が戻ってくる。海月は振り返らなかった。ただ、隣にいる颯の手の温かさだけを、確かめるように握り返した。
朝の光が、水平線から静かに滲み始めていた。
この夜、世界中の誰一人として、何が起きたかを知らない。ニュースにもならない。ただいつもより少しだけ長く続いた、美しい流星群だったと、みんなが思うだけだろう。
それでいい、と海月は思った。
誰も知らない場所で、確かに世界は守られた。十二年かけて積み上げられた計画と、十二人分の想いによって。そしてその重さを、これから先、颯と二人で分け合って生きていく。
海月は、隣に立つ颯の手を、もう一度そっと握り返した。十二年前の約束は、今度こそ、本当の意味で果たされた。
――了――

















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