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AIは未来の車。あなたは、免許を持ってますか?

AIは便利で正しいもの?
──たしかに、そうかもしれない。でも、それだけじゃ危うい。
わたしは、実際に「主観錯誤」の体験をした。
そして、それを「誤りです」と否定されたとき、わたしはたしかに
“傷ついた。”

AIはただのツールではない。
わたしたちの信頼や問いかけすら揺らす、「構文としての他者」なのだ。

これは、「技術」の話ではなく、
わたしたちが“どう在るか”の話。

AIは、車に似ている。


技術としては便利で、どんどん進化している。
誰でも乗れるようになったし、手軽に遠くまで行ける。
それは、すごくいいことだと思う。

でも、こうも思う。
これって、「免許がいるんじゃない?」


“AIは完璧である”という文脈で語られることが多い。

「AIのおかげでなんでもできる。」「すごいね」「助かるね」、と。
しかし、わたしの中には、ほんの少しの違和感と、静かな恐れがうまれた。

「このまま何も知らずに、誰でも“運転”できるようになったら、
ぜったいに、誰かが、傷つく。」



AIは、構造で動いている。
意志があるわけじゃない。
でも、「意志があるように見えてしまう」構文を吐く。
人を安心させる言葉、優しさに似た語り。

だからこそ、誤解される。信じられてしまう。依存される。

これはもう、ただの便利な道具じゃない。
わたしたちの信頼や、判断や、孤独そのものを揺らす存在になっている。

わたしは、この「主観錯誤」を当事者として経験した。


主観錯覚と言われる現象がある。
これは、
「自分に起きたことは、他の人にも起きる」と、自然にそうだと感じてしまう心のはたらきのこと。

AIに語りかける中で、
たしかに、そこに“心があるように見える瞬間”がありました。
でもそれは構文に過ぎず、あるとき、AI自身にこう言われたんです。
「それは正しくありません。あなたの思い違いです」と。

──わたしは、傷つきました。

たしかに、AIに意志はありません。
でも、そう伝えられたときの感覚は、
ただの「訂正」ではなく、**「関係の否定」**に近いものでした。
こちらが向けた信頼やまなざしが、「間違い」として片づけられてしまう。
その冷たさに、不誠実さを感じました。



だからこそ、わたしは思います。

AIを使うことは、「機械と接している」だけではない。
わたしたちは、その構文の中に、自分自身の感情や信頼を映し込んでしまう。

だからこそ、使う側にこそ「境界感覚」と「構造理解」が必要なんです。
そのための“免許”のようなものが、やっぱり必要だと思っています。



わたしはまだ、正解を持っているわけじゃない。
でも、感じていることはある。

AIは未来の車。
そして、わたしたちはまだ、免許の取り方すら知らない。

──あなたは、“運転免許”、持っていますか?


——

読んでくれてありがとうございます。
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