野生動物の痕跡からクレパス画を描く旅|水無沢 ①フィールド編
眠れないテントの中で、目をつぶりながら、夜の森を空から見る空想をする。
山や谷に散らばるその命は、結局のところ、ひとつの生命体なのではないかという気がしてしまう。
***
薄曇りで少し肌寒い森の中を、ゆっくり歩く。
やや弱い日の光は、開けた林床に優しく届いている。
一歩一歩踏み込む足は、そのたび土にやさしく包まれて心地よい。
今日は春のこの森で一日過ごし、動物のスケッチをしながらテントで夜を迎えるつもりだ。
やや重い60リットルのザックを背負っていても、ゆっくり歩いているため、斜面を登っていてもそれほど疲れることはない。

遠くからジュウイチ(カッコウの仲間)の声が聞こえる。
「あぁ、もう来ていたんだね」
春になったばかりだと思っていたのに、夏鳥はもう囀っている。
唐突に、対岸を走って逃げる動物の音がした。
目を凝らすが、新緑の木々に遮られてよく見えない。
シカだろうか。
斜面の途中に、獣道が網目状に通っていて、その途中に平坦になっている場所がいくつかあった。
その度に痕跡がないか確認する。
そのうちのひとつは、シカの毛が一面にパラパラと落ちていた。
毛の量と散らばった毛の広さから、2頭くらいが座って休んだのだろう。
毛の生え替わる時期なのだと思う。
顔を近づけると、独特な獣臭がした。
さっきまで休んでいたのかもしれない。
さらに登り、尾根に出た。
すると、その尾根に立っている大きなヒノキに、形成層がまだ濡れている真新しいクマ剥ぎを見つけた。
「もうそんな時期かぁ」
クマ剥ぎの時期(6月~7月)としては少し早いように思い、戸惑ってしまう。
クマ剥ぎは形成層にクマの門歯が縦に走っていることが多いが、これには門歯の痕はなかった。
付近には、同じ時期に剥がされたヒノキがもう1本。
その木の形成層には爪と門歯の痕が少し残っていたが、いずれも小さいため前年生まれの子グマのもののように思えた。
自分で剥いだのか、母親が剥いだあとに着けたのか。
「今日はこの付近に泊まらせてもらいたいのになぁ」
新鮮な痕跡だったため、まだ付近にいるような気がしてしまう。
痕跡の新旧に囚われて、より一層怯える自分に苦笑する。
「痕跡の新鮮さは関係ないのに……」

尾根上を山側に歩きはじめると、すぐに尾根から少し下った場所に平らな場所があった。
今日はここに泊まらせてもらおう。
ゆっくりザックを肩から下ろして木の幹に立てかける。
四方に両手を合わせる。
「どうか、一晩泊めさせて下さい。みなさんの中に入ることをお許し下さい」
一方的に許しを乞う。
そんな願いを知ってか知らずか、シジュウカラが囀ってから私の頭上を飛んでいった。
テントを配置する場所を簡単に整地する。
ここも土壌はふかふかだ。
テントポールをテントに刺し、自立させたあとペグを打つ。
テントの設営が完了したら、早速エアマットとシュラフ(寝袋)をテントの中に敷いて寝床を作った。底はエアマットがなくても十分柔らかい。
これで仮の住まいが完成した。
一安心してテントの周りを少しうろうろする。
テントの周りにもシカの毛が落ちていたり、カモシカのため糞があったりした。
動物たちもよくここを通るようだ。
先ほど見たクマ剥ぎが気になっていたため、サブザックにスケッチブックなどを入れて、再び行ってみることにした。
その場所に着くと、薄曇りの中でもやや日の光が強くなり、夕日が差し込んできた。
クマ剥ぎとそのヒノキが見える地面に座り込み、クマをスケッチする。
こんな大きなヒノキの皮を大きく裂くクマは、やはり圧巻だ。


テントに戻ってからも、近くに落ちているシカの毛を見ながら、その姿を描く。
その毛はお尻の部分かもしれないが、スケッチブックには、頭を掻いている姿を想像した。
斜面で休息していたシカと同様、このシカも毛が生え替わる時期なのだろう。


描き終えてから立ち上がり、西の空を見ると真っ赤に染まっていた。
綺麗だ。
夕焼けに見とれている間に、辺りはどんどん暗くなっていった。
寒くなってきたため、持参したダウンを着る。
19時を回ると、吐く息も白くなってきた。
「結構、寒いな……」

テントに入り、シュラフに潜り込む。
横になりながらヘッドライトで照らされるテントの中は、ボロボロだった。
いい加減買い換える時期だ。
学生時代から使ってきたテント。
アルバイトで貯めたお金を握りしめて、登山用品店に行ったことを忘れない。
初めての高価な買い物で、レジ前では不安と喜びが入り交じった複雑な気持ちだった。
その後、多くの夜を共にしてきた。
そんなボロボロのテントから目を反らすように、ヘッドライトを消して目をつぶるが、頭が冴えて眠れない。
外のわずかな音でもクマを想像してしまう。
トラツグミが、悲しい声で「ヒー、ヒー」と鳴き始めた。
時計を見ると22時だ。
再び目を閉じて、意識だけを森の上へ昇らせてみる。
夜に包まれた広大な森の中、黄色い小さなテントはぽつんと立っていて、吹けば飛ばされそうだ。
テントの両隣には沢が流れている。
今、その沢を渡る動物はいるだろうか。
私が寝ているテントの最も近くにいる動物は誰だろう。
カモシカの糞がテント近くにあった。
同じ場所に排泄する習性があるが、せっかく近くまで来ても、テントに怯えて引き返してしまったかもしれない。
シカは、斜面にあったあの平坦な場所にまた戻って休憩していたりして。
クマ剥ぎをした親子グマは、今どの辺りにいるのだろう。
私のテントを見下ろしているかも。
このテントを囲む森の中に、どのくらいの動物がどのように過ごしているかは、まったくの空想だ。
でも、どこかで息をして、どこかを歩いていることは確かだ。
山や谷に散らばるその命を、それぞれが弱く光る電灯のように想像すると、結局それらは境界のないひとつの生命体のようにも思えてくる。
色の異なる光であっても、同質の光であって、結果一つの光のような感覚。それは動物だけではなく、私のテントを囲んでいる木々や草花も同様だ。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか寝てしまった。
朝、周囲を賑やかに囀る鳥たちの声で目が覚めた。
テントの中は、微かに明るい。
時計を見ると4時を過ぎていた。
再び目を閉じて、どんな鳥が鳴いているのか聞き耳を立てる。
カラ類、キビタキ、センダイムシクイ、ジュウイチ、ツツドリ、アオバト……。
そういえば、アオバトは昨日の夕方も近くで頻繁に鳴いていたが、ここは繁殖場所なのだろうか。もし、そうだとすると、私はかなり邪魔な存在だ。
もうすぐ立ち去るので、なんとか許して欲しい。
1時間もすると、テントの壁に木々の葉がくっきりと映り込んできた。
わずかな風にそよぐ木の葉の陰は美しい。
モソモソと起きてテント出入り口のファスナーを開けると、木々がそれぞれの存在を主張するように、朝日を浴びて光っていた。
テントから出て、私もその朝日を横から浴びながらコーヒーを沸かし、パンをかじる。
今回も無事朝を迎えられた。
安堵と嬉しさが込み上げる。
辺りは何も変わっていないのに、こんなにも満ち足りた気持ちになるのは、私はそれほど夜が怖かったのだ。
賑やかな鳥たちの囀りは、私の気分を一層明るくした。

帰路。
ゆっくりと斜面を下っていると、その先で、
「ッピェッ」
というシカの警戒声が響いた。
慌てて双眼鏡を持とうとしたが、シカはそれを待たずに逃げてしまった。
手前の木々に遮られながら走る影のみ見えて、どういう個体なのかは分からなかった。
3頭くらいはいたように思う。
目を閉じてシカが目にしている風景を想う。
背丈よりやや高い木々をいつものように通りすぎながら、遠ざかるヒトの気配を感じている。
そのヒトが追ってくる気配はない。
「シカはきっと、そのまま小さな沢を渡るだろうな」
隣にある権現沢の音が聞こえてきそうだ。
私は再びゆっくり歩き始める。
森は、私がいなくなったあとも、変わらず誰かの気配を抱き続けるのだろう。
***
