【連載小説】あなたがそばにいれば 第1章 4
2020年発表『たしかなことばをつづれ』(改題)
高橋夏希(24)⋯企画営業部第三課所属の入社3年目。喪失を胸に抱えたまま、日常を静かに丁寧に生きようとする女性
高橋春彦(22)⋯夏希の弟。姉と二人で暮らしながら、自分の世界を静かに育てている青年
野島遼太郎(30)⋯企画営業部第一課課長。家族を拒み続けながら、誰かを深く愛することを恐れている男
~Natsuki
x3年5月
桜の開花予想がされたと思ったら、4月を迎える頃には満開を過ぎているという、この頃の桜事情。そうしてもう4月かと愕然とした。あっという間に2年が過ぎた、入社3年目。
大型連休明けに社内全体を巻き込む大規模な基幹刷新プロジェクトが発足した。
この社内プロジェクトの旗振りをどの部署がするのかという会議の席で、野島課長が自ら手を挙げ「PMは俺がやる。PMOも企画営業部で持つ。当初予算の8割、納期は1ヶ月前倒しでやる」と取締役会議で言い放ったそうだ。ただちに企画営業部全体の緊急昼礼が実施され、部長から伝達された。部内のメンバーは本日中に内示する、と。
「野島課長、今回のプロジェクト、かなりやる気だよ」
連休ボケで頭がまだまだ社会復帰出来ていないというのに、3つ先輩の斎藤主任が、ワクワクを隠し切れないといった様子で耳打ちしてきた。彼は先月、第一課から第三課に異動してきたばかりだ。
「みたいですね」
無茶苦茶ですよ、とは言わなかった。
「あの人、PMOはうちで持つって言ってたけど、高橋さんあたり抜擢されるんじゃないかなぁ」
「えっ、まさか」
「だってもう3年目だし」
「まだ3年目です」
「いや "もう" だよ。僕も3年目でちょっと燻っていた時に野島課長⋯⋯当時は主任だったけど、同じような任務やらされたことあるからさ。社内系プロジェクトは、あえて若手にやらせて成長を促す魂胆だよ」
「3年目という理由だったら他の課に同期がいます」
「だから、だよ。あの人、結構人のこと見てるから」
「⋯⋯どういうことですか」
「遠回しに言うと、評価のネタを作る必要があるってことかな。はっきり言えば試されるってこと」
キュウと胃が縮こまった。燻っている、というのならわかる気もする。
「まだ決まったわけじゃなくて、全部斎藤主任の予想ですよね?」
「だけど、多分当たると思う。僕、今は課が離れちゃったけど、ずーっと野島さんの下で働いてきたから、そういうのわかるんだよ。社内プロジェクトだし、そんなに荷も重くないはずだから」
とはいえ、過ぎた冗談として何の気にもとめずにいたのだけれど。
午後3時、坂本部長から呼ばれて席に向かうと、そこには野島課長も立ってこちらを見据えていた。
じっとりと嫌な汗がにじむ。まさかと思ったところ、本当に私がPMOに任命されることとなった。
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会議室の空気が異様に重々しい。今日はプロジェクトのキックオフミーティングだ。
プロジェクターに映し出されたマイルストーン、コの字型に配置された長机、既に大半の人が着席しており、みな無言で、前面の画面を睨みつけていたり、ノートパソコンのキーを叩く音を響かせるなどしていた。
――こんなの私が仕切るなんて、無理だ。
入室した瞬間、身が縮まった。
経理部、営業本部、販売管理部。名前は知っているが、話したこともない役職者ばかりだ。腕を組み、こちらを値踏みするような目を寄越してくる。社内の重要プロジェクトに抜擢された、頼りないPMOのお手並拝見と言わんばかりに。
口の中が乾く。
「それではお揃いになりましたので、始めさせていただきます」
声が掠れ、咳払いした。机の上に置いたペットボトルの水を飲もうか迷って、やめた。
「今回の基幹システム刷新プロジェクトについて、全体の進め方とスケジュールを⋯⋯」
「その前に一ついいかな」
唐突に、正面に座っていた経理課長が手を上げた。冒頭から何を言われるのかと、震え上がる。
「はい」
「資料は予め見てるけどね。このスケジュール、ずいぶん楽観的に見えるんだけど。うちの締め処理、ちゃんと確認してる?」
言葉は穏やかだが、声には棘があった。鼓動が全身を揺るがしそうだった。
「はい⋯⋯確認は、しています」
「確認って、誰に?」
誰、が咄嗟に出てこない。こんな時にど忘れだなんて。頭の中で必死に名前を探す。担当者の顔は思い浮かぶのに、焦るほどに頭の中が真っ白になっていく。眉間に手を当てつつ、社員検索画面を開く。
その間の沈黙。一秒一秒がやけに長く感じ、嫌な汗が流れる。
「具体的に誰と、どの粒度で詰めたのか聞いてるんだけど。入社3年目の君には難しい質問でもないと思うんだけどな」
会議室の空気がさらに張り詰め、視線が私に集まった。
「⋯⋯担当者の方と、確かに調整はしています」
ようやく絞り出した言葉に、経理課長はわざとらしく息を吐いた。
「それじゃ足りないよ。うちは月末月初は手一杯なんだ。そこにこのスケジュールを被せられても困る。万が一のリスクに対してのバッファはどう捉えているんだい? これは現実的じゃない」
何か言わなければと思うのに、舌がもつれ、喉がカラカラに乾く。足がすくみ、資料の文字が滲んで見えた。
――どうしよう。
「それは違うな」
芯の通った声が、横から差し込まれ、顔を上げた。声を放った野島課長は腕を組み、私ではなく経理課長を睨みつけている。
「現実的じゃない、じゃない。現実にするんだろ。出来ませんと言ったら逃れられると思っているのか?」
また野島か、と言わんばかりに呆れ顔を向ける人もいたが、誰も口を挟まない。
「そもそもこのスケジュールは、あなた方の都合で引いているのではない。会社全体の最適で引いている」
どよめきも起こる中、野島課長は構わず続けた。
「締めが忙しいのはわかる。だからこそ早めに手を打つ必要がある。そのための前倒しだ。そして、誰とどの程度詰めているのかを理解していないだなんて、あなたの部署は報連相が出来ていないということだ。担当者が勝手に決められるわけはないんでね。今すぐ管理体制を見直してくれ。それで済む話だろ」
経理課長が顔を真っ赤にして言葉を返そうとしたが、そのまま詰まる。野島課長はなおも視線を外さない。
「出来ない理由を並べる前に、どうやったら出来るか考えろ。これはそういうプロジェクトだ」
静まり返る会議室。経理課長は不貞腐れた様子で顔を背けた。そのまま数秒が過ぎ、野島課長は私に向かい静かに告げた。
「続けろ」
「⋯⋯はい」
声は先程よりも出るようになったが、手にはまだじわりと汗をかいている。それでも会を進めることは出来た。途中いくつか質問があがったものの、想定の範囲内で答えることも出来た。
会議が終わると、足に力が入らず席から立ち上がるのに時間がかかった。廊下に出て、ようやく肺に空気を取り込めるような気がした。
「高橋」
呼ばれて勝手に背筋が伸びる。振り向くまでもなく、野島課長が背後に立っていた。
「今の、どう思った」
どう思ったって⋯⋯、そんなのわからない。課長の質問の意図さえわからなかった。しかし “わからない” は許されない。
「⋯⋯私の詰めが、甘かったです」
「違うな」
即答される。何を答えても違うと言われる気がする。
「詰めが甘いんじゃない。根拠と覚悟が足りないんだよ」
課長はあまりにも真っ直ぐに、突き刺してきた。私は拳を握りしめた。
「曖昧なまま出ていくな。潰されるぞ。いつも俺が横から助け舟を出すと思うなよ」
課長は視線を決して外そうとしない。刃がさらにこちらに向けられたような気がして、全身が粟立った。震えるがまま、私は尋ねた。
「あの⋯⋯どうして私がPMOなのでしょうか」
「前も答えただろ。まだそんなこと考えているのか」
だって私は⋯⋯と俯くと「そういうところを叩き直すためだ」と言い放った。
「俺は部員全員の特性も実績も、ほぼ頭に入っている。でなければ人は動かせない。高橋は事なかれ主義だろう。そういうのは組織にとって困るんだ」
そうして野島課長は、私がこれまで関わった案件やその進め方について述べた。
呆気にとられた。第一課を真ん中に配置させた理由も、この時ようやく納得できた。そして改めて、この人はとんでもない人だと思い知る。
「それと」
まだ何かあるのか、と私は瞳をギュッと閉じた。
「今後 "だって" 発言は一切禁ずる。言い訳を探す暇があるなら、事実を詰めろ。いいな」
それだけ言うと私の横を通り過ぎ、さっさとフロアを後にした。すれ違いざまに、課長が香水らしきものを付けていることを、初めて知った。品の良い、いかにも仕事が出来そうな男性の香り⋯⋯こんなところまで主張するのか。気障な人だ。
そんな残り香を感じたのもつかの間、取り残された廊下で、しばらく動けずにいた。
"事なかれ主義” と言われて恥ずかしかった。怖いはずなのに。逃げ出したいはずなのに。
それでも――。
悔しさも、燃え広がるように芽生えていた。あの人が私を試そうとしているのなら、見返してやる。
つづく
