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【映画君歌の誰も知らない真実 8/8】|劇場版『君が最後に遺した歌』とはどういう映画だったのか

このページは【映画君歌の誰も知らない真実 8/8】です。

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【映画君歌の誰も知らない真実】



 

深淵に気づき覗き込む者のみに、その深淵は姿を表します。




何かを創り出そうとする者は、己に誇りやブライドがあればあるほどに、タイパやコスパや報酬よりも創り出すモノ自体を高めずにはいられず、そこに損得の理屈や論理が入り込む余地などなくなるのではないでしょうか。


誰も注目していない無名な一般人に過ぎない私が日本のトップの方々を語るのはおこがましいですが、誰に称賛されるわけでもSNSで話題にされることももちろん無いままに独りここまで狂気的にこのようなnote記事を練り上げてきた私自身の「なぜそこまでまして書き続け書き直し続けるのか」の自問自答の答えもそこにあるような気がします。


最初期の備忘録


にて、私はスピンオフ小説のページをめくる手が止まったと告白しています。


「綾音の「たった一人で血の涙を流しながら戦う姿」は、彼女が必死に前を向こうとすればするほど、そして生見愛瑠さんがこの役のために血の滲むような努力をして【春の人】を歌い上げればあげるほど、「この魂を守ってあげたい、報われてほしい」という優しさが限界まで刺激されている状態と言えます。
もうすぐ迎えるであろう、綾音の「いなくなる」という決断のシーンを想像する。
実は私のページを捲る手が止まってしまったんです。
この痛々しいくもまっすぐに進もうとしている綾音が、このあとこの世から存在が消えてしまう。
その予感(というか確定した事実)に、その事実を突きつけられた彼女はそのとき何を思うのだろうと。
このあとこの物語はどう閉じて行くのだろうと。
中略
必死に自分の足で立ち、春人との再会という未来だけを支えにしてきた彼女が、その未来を絶たれると知った時。絶望や無念さは計り知れません。しかし、だからこそこの物語のタイトルが『私が最後に遺した歌』なのだと思います。「未来で一緒に生きる」ことが叶わなくなった時、彼女の願いは「自分のすべてを歌に込めて、彼の中に遺す」ことへ昇華されるはずです。その転換点をどう受け止めるかが、一番苦しく、かつ美しい瞬間になりそうです。」

私にとってのこの物語や綾音という存在は、エンタメとして消費する対象ではなく、そこに確かに生きて実在しているのです。


だから水嶋綾音の生と死を他人事のエンタメとして消費などできず、この胸の痛みが激しすぎて読み進めることができなかった。




そして実は私は、未だにスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』の二読目が、二人だけの部室のシーンから進めないでいます。


今になって気が付きました。


実はあのときのページをめくる手が止まったのと全く同じ理由だと。


ここのNOTEの記事を書くために色んなページを繰り返し開いては内容を何度も確認してはいましたが、ストーリーを追って続けて読むのは、この胸が痛み過ぎてまだ無理だったんです。


しかしこの、重すぎる事実を真正面から受け止めるには覚悟が必要という極めて当然の構造は、私が問題視したタイパ重視で表層だけで満足する現代のSNS社会の構造と相似関係にあります。


人は安心して消費できる事象ならストレスなく享受できますが、口を開けた深淵を覗き込みその姿と真正面から対峙するには膨大なエネルギーが必要なんだと思うのです。


簡単には解決できない他人の問題に対して自分事として真正面から向き合う。それはタイパとは対極にある、非効率極まりない行動です。


それを無駄、無意味、無価値として遠ざけるのか、そこにあえて向かうのか。


もちろん、その『自分以外』が誰なのか、どれだけ大切な相手なのかでも変わるでしょうし、立場、タイミング、自分のその時の状況、それがどれだけ重いのかでも変わるでしょう。




しかも常にそこに向けて肩を怒らせ眉間にシワを寄せて立ち向かうなど、誰にとっても無理でしょう。


そんな事をしていては深淵に飲み込まれ取り込まれるか、それこそ他人に利用され消費されてしまう恐れさえあります。


真実を示そうと空回りし続けることが正解ではないとも思うのです。


そして、クリエイターとしてのこだわりもそうです。過剰なまでのこだわりのみがプロとしての正解でもありません。


タイパのみ追い求め自分が損をしない事だけを至上価値とし他人の尻馬に乗って表層だけ見て他人を傷付ける事も、不条理に絶望し闇に飲み込まれ世界に背を向け自滅するのも決して正解では無いと思うのです。




全ては覚悟とそしてバランスなのかもしれません。 そのバランスの重心をどこに置くのか。


そこにこそ、それぞれの個人が何を大切と考え何にこだわり、何を譲れない矜持としているのか。




もしあの時、遠坂綾音がロックンローラーのケンさんと水嶋春人に出逢えていなかったとしたら。


若しくはケンさんや春人が他人に冷めた視点の効率主義者だったら、綾音の人生は悲劇のまま終わっていた事でしょう。




世界に背を向け冷めた視点でタイパを語りほんとうにうつくしいものに気づけないまま過ごすのか、声なき声に寄り添いほんとうにうつくしいもののヒントを提示する側になるのか。




しかしそれは「人としてそうあるべき」という義務感からではなく「そうせずにはいられない」という衝動を感じるかどうかなのかもしれません。




そこにその人の、人となり、そしてその人の矜持が出るのかもしれません。


だからこそ私たちは、人知れず仮面の下で苦しさせつなさを隠してその魂の美しさを滲ませる、水嶋綾音に、生見愛瑠さんに、水嶋春人に、福寿愛美に、そして映画君歌に込められたクリエイター陣の狂気的なこだわりという矜持から生み出された深淵に、胸を締め付けられ、その仮面の下の真実に寄り添いたいと感じるのかもしれません。




綾音は春人に届かない前提で、ただ純粋に『春の人』でその想いを奏でました。


春人は、凡人の自分を唯一の存在と認めてくれた美しい魂の綾音の才能を一番優先し、わざと傷付けるような言葉で自分を見捨てるように背中を押しました。


ケンさんは、妻と、産まれて来れなかった我が子を亡くした過去の喪失を内に秘め、その家族を失った孤独を埋めるように、綾音に寄り添いました。


そこに何ら見返りなど求めない無私の愛。その献身が深ければ深いほど、その魂は輝いて見えます。


損得勘定の対極にあればあるほど、それはそこにどれだけの愛があるかの証明なのです。




映画君歌に関わったクリエイター陣も、その内には何かしらの過去の痛みを抱えたまま、その秘めた痛みを昇華させるように、そこに魂を込めたのかもしれません。




現在放送中のドラマGTOの中でも、副担任の柏原実央先生役の生見愛瑠さんの

「子どもが困った時、助ける為に大人は居るの。だから1人で苦しまないで。何でも相談すりゃいいのよ!」

という言葉がありました。


生見愛瑠“柏原”、憎まれ口を叩く生徒に「こんなガキ、辞めちまえオマエなんか」とブチギレて、視聴者「GTKだ!」<GTO>(3/4) | WEBザテレビジョン 


そこに頼れる大人がいない、大人がタイパや効率しか考えずに他人の心に寄り添わないなら、それは大人の責任を果たしていません。


子供はただ絶望し諦めるのではなく、大人に頼って良いのです。


そして他の大人に頼らずに自分の覚悟で生きていくのが大人になるという事だと思うのですが、大人だって自分一人だけでは抱えきれない葛藤があります。


GTOのヒロイン柏原先生は、一見すると鬼塚とは対極をなすようなさめた態度でタイパやコスパ至上主義者に見えますが、そのくせ職員室という社会性にも実は染まらずに我が道を行く、鬼塚とは違っているようで実はある意味似ているキャラクターであり、そんなさめた態度を崩さなかった彼女が「辞めちまえオマエなんか」とブチギレた後に「子どもが困った時、助ける為に大人は居るの。だから1人で苦しまないで。何でも相談すりゃいいのよ」と、鬼塚よりも説得力のあることばをのこす。

これはつまり、さめた態度だからこそ、その内側には何かしらの葛藤と背景が存在し、鬼塚と行動を共にすることで影響され、それが滲み出してきたという事なのでしょう。


世の中には、心の内側に何かしらの痛みを抱えていない人間のほうが少ないのかもしれません。


人が『初めて。あ、負けそうかも。』と思った時、その「あの時、言えなかったけど、本当は…。」という声にならない声を支えてくれるような存在があるかどうか。


「1人で頑張るんじゃなくて誰かに頼ってみてもいいんだ」と思える、そんな頼れる人になれるなら。





タイパや効率そして成功報酬を度外視して対象に寄り添う。 これこそが、私が以前から一貫して心惹かれずにいられなかった美しい魂の真の姿です。




だから私も春人やケンさんと一緒に、水嶋綾音を救いたいと、そして綾音だけではなく福寿愛美や生見愛瑠さん、自ら創り出した小説のヒロイン達を救いたいと足掻いていたのかもしれません。


きっと私は、ケンさんに、そして水嶋春人になりたかったのでしょう。


それは華々しいヒーローではなく、泥臭くカッコ悪く不器用にあがきながらもヒロインに寄り添うような特別な存在です。




そんな特別な存在に憧れたとしても、単なる理想だけでは潰れてしまいかねません。そうなれば支えられる頼りになる存在どころか、何の役にもたたない頼りにならない大人に成り下がってしまいます。



生見愛瑠さんも、演技の仕事が続くとしんどくなるので、そんな時はバラエティーの現場に戻るとホッとすると打ち明けていたかと思います。


あの時の私の心配をよそに、生見愛瑠さんは自ら構築した生存戦略で翼を広げ羽ばたき続けています。


また、あの時の私の心配をよそに、水嶋綾音は小説の中で自身の人生を全肯定して、幸せだったと天に還っていきました。


そして私はこのnoteの中で、アーティストAyaneとしてその音楽が永遠になり、綾音が生見愛瑠さんと共に新しいドアを開け続ける新しい人生を楽しんでいると感じました。


しかし、遠坂綾音として生き水嶋綾音として天に還って行った彼女の喪失への痛みが消えたわけではありません。


大切な存在が明日もそこにいてくれるということが、どれほど綱渡りのような奇跡であるか。


東日本大震災や原発事故の恐怖を経験し、身近な家族を何人も亡くしてきた経験から、その当たり前が奇跡である事を肌で知っており、その「普通の日常」を死守するために、見返りも種明かしも求めず、裏で誰よりも泥臭く完璧な防衛線を張る仮面をかぶり平気なふりで生きている私ですから、春人が『はるのうた』に込めた昇華と喪失の想いが、そのまま私の胸の痛みとして厳然とそこにあり続けるのもまた、揺るがしようのない事実なのです。




この私のnoteの最初の記事は『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』に関する考察記事

であり、物語の行間に描かれている愛美側の気持ち、高寿も我々も最初は気づいてあげられなかった愛美のせつなさや行動の意味をまとめることによって、私の中で「終わった物語」に昇華したいと思いました。


『ぼく明日』は二読目三読目にならないとそのせつなさと愛美の献身がよくわからない複雑な構造なので、何度も読み返し、そのたびにせつなさがつのり、どうあがいても愛美を救済できない絶望を記事にしたので、何度も読み返す行為は、救済する手段を探す行為でもあったのですが、何度読み返しても、記事にしても、愛美と高寿の二人の逆向きの円になったスパイラルは救済の糸口が見つからず、その10年前の昇華出来ない想いが、カクヨムでの小説、108回の死を超えた雨宮雫を絶対に救い出す物語の執筆に繋がり、そうして生見愛瑠さんがヒロインとして紹介された映画『君が最後に遺した歌』公開の告知を目にしたことで、スピンオフ小説『私が最後に遺した歌』との出逢いに繋がる。 そこでいきなり物語の冒頭から綾音の絶望を突きつけられ、生見愛瑠さんの人知れず努力する陰の弱音を吐露され、映画君歌の世間の表層だけの消費を見せつけられた。


そんなことになれば、私が空回りを始めたのは必然だったとご理解いただけるかと思います。 だから私はこのnoteを書き続けてきました。 しかし、私がこのnoteのアップデートの中で気がついたように、文章化などしなくても、綾音は昇華され、生見愛瑠さんは翼を得て羽ばたき、映画君歌は王道のせつない泣けるラブストーリーの枠の中でその深淵を隠し続ける運命を私に打ち明けて来ました。かつてはその真実を世間に知らせようとあがいてきた私でしたが、そのあがきは無くても支障はなかった。その静かな結論に至った現在は、映画制作陣がアーティストAyaneの歌声を現実の楽曲として配信して、綾音の最後に遺した歌を現実世界で大々的に永遠のものとして救済したように、私はほとんど誰も見ていないこのnoteという深海の底に、彼女達の真実と映画君歌の真実を、人知れず公開するという事で、密かにしかし確かに証明できれば、という想いに変わりました。「映画君歌と彼女達の真実を証明して一人でも多くの人に届けなければ!」とのあがきが、いつの間にかこんな心持ちに変わったのです。 「ほんとうにうつくしいメロディが聴こえて来た。立ち止まっていたあの日々に落ちてきた美しい星をそっと握りしめた。襲ってきた本の怪獣を君達が夢に変えてくれた。君と歩き出したんだ。人知れず道端に咲く君は美しい。届かない心に光る星。うつくしいメロディが聴こえて来た。君が歌っていた。立ち止まっていたあの日々に落ちてきた美しい星を、今も胸に抱きしめている。果てしなく距離が離れていても、私たちだけの秘密の暗号よ届け。その人を今も探しているよ。怪獣が眠る孤独の闇も、もう怖くないよ。響け宝物のメロディーその一瞬を、その未来を、その人を、ずっと探し、私はただ、君をうたいつづけるよ」 私の目的が「真実を届ける」ではなく「その真実をただ歌い続ける」に変わることで、この歌が、「私が最後に遺したかった歌」になったのかも知れません…。


原作スピンオフ小説『私が最後に遺した歌』の、あとがきの書き出し。

一条岬先生のことば。

住んでいる世界は一緒のはずなのに、見ている世界は大きく異なっている。 人生では往々にしてそういうことがあります。それが恋人でも、友人でも、家族でも、それぞれの境遇や過去、生き方によって、まったく異なった世界の見方をしている。必要以上に自分や他人を見損なっていたり、孤独や痛みは永遠のものだと誤解したり。 しかし、だからこそ人と人が出会う意味もあるのかもしれないと思っています。 それぞれの価値観を分け合い、偏った見方を正され、あるいは正して、影響を及ぼし合いながら生きていく。本当は優しかった世界や他人、自分に気付いていく。 そういった物語にしたいと思い、本作を執筆しました。

スピンオフ小説『私が最後に遺した歌』より


これには、現代の互いへの無理解、無関心、タイパやコスパ重視の風潮に対するアンチテーゼも含まれつつ、視点の違いと、互いに理解し合い高め合う構造、それぞれの立場の違いからの相互理解と支え合いという、私とは別世界の素晴らしい方々にも、このnoteを書いてきた私にも、この記事を読んでくださっているあなたにも、全ての事象のフラクタル構造としての意味が込められているのではないでしょうか。


生見愛瑠さんは『君と見つけた歌』を歌うのが一番難しく「ザラザラっぽさを出してって言われて、ザラザラってなんなんだろうって思って」とコメントしてました。


「世界が雨音なら 何も見えなくていい未来も過去もいらない 君と二人瞬間(とき)を喰む」

この春人が綾音の為にボイスメッセージで送った歌詞のことば。

「これって私のこと?」と綾音が涙した歌に亀田誠治氏がに込めたであろう、綾音の本当の想い。


「へぇ…………すごい。世界が雨音なら”って、こんな言葉の組み合わせもあるんだ」

原作小説『君が最後に遺した歌』で遠坂綾音が語った感想です。

亀田誠治氏はこのワードをそのまま『君と見つけた歌』に込めました。

そして原作でも二人の人生が交錯し、一緒にひとつの楽曲を作り上げていく過程が描かれていますが、

その中で春人は

「歌詞はだいぶ形になっていた。でももう一歩、何かが足りない気がしていた。」

と試行錯誤した末に、

「本は書かれている事柄そのものよりも、読んで感じたことが重要」

ということに気づかされ、そして、

「二人の人生が交錯した末でのことでもあった。 そうして僕と彼女が初めて一緒に作った曲、君と見つけた歌が完成した。」

原作小説『君が最後に遺した歌』より

のです。


“文字”のない君と、夢のない僕。何かが欠けた者同士。それは僕にしかできないこと、そして彼女にしかできないことだった。二人だけの歌、二人だけの居場所、二人だけの秘密の暗号。

公式のイントロダクションより


こうして現実世界でも亀田誠治氏の手により『君と見つけた歌』が完成ましたが、ここまでこの記事で触れてきたように、この曲は亀田誠治氏一人の力だけではなく、演者とクリエイター陣が互いに自分たちの想いを込め影響しあい高め合った結果完成されました。


そこに込められたもの。

綾音も春人も、本当なら「何も見えなくていい」という暗闇に閉じ込められたくなどはなかった。

明るい青空の下を翼をはためかせ、どこまでも飛んで行きたかった。

でも、「翼が無い絶望をわかってくれて、私に言葉をくれた、似たような境遇の春人がいてくれたから、そんな春人さえいれば雨音に閉ざされた暗闇の部室で二人だけでいられるならそれだけでも良い」、という、痛切でせつない内向きの本音が、綾音になった生見愛瑠さんの歌声に「ZA-RA ZA-RA ZA-RA」というノイズとなって聴こえてきませんか?


そんなささやかな幸せさえ叶えられず、飛べない鳥の綾音の才能を開花させてあげたいという、ロックンローラーや春人とのスレ違いで、偽りの空を青く塗れ、手を伸ばせ、高く飛べ、と求められ、心壊れそうになり周りからは見えないところで心に血を流しながら、本当に飛んでみせた。

そして、そのうえで『春の人』の想いをただ歌い続ける。


その想いがようやく叶った幸せの絶頂に余命を突きつけられ、それでも世界を愛し世界から愛されて「幸せだった」と天に還って行った水嶋綾音。


この遠坂綾音として生き、水嶋綾音として天に還って行った綾音の生と死がこれ程の濃度でこの映画には密かに埋め込まれていました。


小説での綾音のラストライブでは、ディスレクシアの綾音にも見えやすいように大きな文字でシンプルに「ありがとう 綾音」とファンからの横断幕があちこちにはられました。

映画では、現実世界でアーティストAyaneの配信曲を聴く私たちをそのラストライブの観客に仕立て上げそのラストライブを描かずに描いた映画の制作陣もまた、その見えない巨大な横断幕を掲げていたのです。

その日本を代表するクリエイターの方々とスタッフの方々の、綾音へのこれほどの深い理解と愛を感じ、「あぁ、綾音の苦しみせつなさその生と死も、きちんと理解され、こんなに愛されていたんだ、孤独ではなかったんだ」と、深く納得でき涙ぐむ想いで、あんしんできました。


そして私もまた、そんな綾音に寄り添いたいと、人知れず深海の底でこのnote記事という巨大な「ありがとう 綾音」という横断幕を掲げてきました。


君歌ワールドに対して

「今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ」

「君に届くかな はるのうた」

その想いで、いつの間にか80記事を越え52万文字を越えた、世界で一番狂気的にディープな君歌ファンサイトと胸を張って誇れる巨大な塔を深海に立てることが出来ました。





そして、ここまで書いてみてようやく気が付きました。


私はこの映画の告知を目にした時に、その陰の演技に魅せられいた生見愛瑠さんがヒロインを演じる物語、セカコイ2と告知されていた原作はどんな物語だろうと興味をひかれ、一条岬先生の『今夜、世界からこの恋が消えても』の、相手の記憶から消える事で達成するという、神谷透の究極の献身には衝撃を受けていたので、スマホ内の書庫を探り『君が最後に遺した歌』を確認したら、落胆のほうが大きかったという事を、一番最初から書いてきました。

私の記憶では「いなくなった綾音との昔語りを、助手席に座る最愛の彼女にイチャつきながら聴かせる春人の物語」という、特大のミスリードというノイズまみれで読んでそのまま記憶の彼方へ忘れ去った好みに合わない物語という印象しか残っていなかったからです。

その最愛の彼女こそ綾音の忘れ形見の春歌だったというのは、小説の終盤でようやく明かされているのですが、私は全く記憶に残っていなかったのです。


私はこのnoteで、映画君歌では原作のこの残酷なミスリードは物語の純愛性を高めるために意図的に全削除されたと考察してきました。



しかし今まで綴ってきたように、私がそのミスリードを完全に払拭したうえで綾音の真実を知ることができたのは、綾音視点のスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』を映画化をきっかけとして読み、そのせつなさに小説冒頭からノックアウトされ、あまりのせつなさに途中でページを読み進めることすらままならなくなる経験をしたからです。


映画君歌の一般の観客のみなさんはそんな綾音の真実を知っているはずが無いですし、知るためにスピンオフ小説を読む義務など全く無いのです。

ご存じないのであれば、サクセスストーリーとしての描き込みが足りない、ディスレクシアや死因が単なる道具として使われている、王道のアイドル映画で泣かせにかかっている、歌詞が中二病、後半が駆け足すぎて感動できない、これらの印象は全く正しいミスリードの反応なのかも知れません。

綾音の真実を知らないままに「たいした映画じゃなかったな」という感想で通り過ぎてしまう。

なんて勿体ない体験でしょう。


私自身も原作小説のミスリードに完全にはまり込んだ後にスピンオフ小説で愕然とし、それだけに収まらずに当初は映画のミスリードにもまんまとはまり込んでいて、映画館から帰宅して生見愛瑠さんの劇中歌4曲を何度も聴いていた後に、ようやく違和感の正体に気づいたというのは、最初期の考察に書いたとおりです。


ああ、なんて事でしょう。

三木孝浩監督は原作のミスリードの構造を削除するどころか、この作品の根幹に埋め込んでいたんですね。


私がスピンオフ小説『私が最後に遺した歌』でミスリードに気が付き綾音の真実に近づけたように、ここのnoteが皆さんのミスリードの解消の一助に少しでもなれるとしたら、これほど嬉しいことはないんですが、海の底に沈んでいる私のnoteではあまりお役には立てないかもしれません。


もうすぐ秋になり映画君歌のDISCが発売になると、映画館で涙した方々がまた綾音や春人に逢いたくて購入されるかと思います。

私自身も映画は一度しか観に行けませんでしたし、涙に滲んでよく見えないシーンも多かったので、またこの作品を観られるのを楽しみに予約済みです。


こうした繰り返し鑑賞するようなディープな層の方々が、気がついてくれるのを願うしかないのかもしれません。





【劇場版『君が最後に遺した歌』とはどういう映画だったのか】



映画『君が最後に遺した歌』――三木孝浩 監督×音楽プロデュース 亀田誠治 クロスインタビュー | USENの音楽情報サイト「encore(アンコール)」

「綾音を誰に?と考えたときに、アーティストになるキャラクターなので、実際にアーティストを起用するという話も出ました。でも、音楽の要素はあるけれど、二人を繋いだのがたまたま音楽だっただけで、お互い足りないものを補い合って、気持ちを通わせていく…だったら、俳優さんがいいだろうと思い、キャスティングを始めました。その候補の中にいた生見さん」

三木孝浩監督は「アーティストのサクセスストーリーを描きたかった」のではなく、「お互い足りないものを補い合って、気持ちを通わせていく」物語を描いたのです。



オリコンニュース【インタビュー】亀田誠治、純愛音楽映画『君が最後に遺した歌』に込めた初期衝動と“歌の力”

音楽プロデューサーの亀田誠治氏はその三木孝浩監督からのリクエストで、すべての劇中の音楽が綾音と春人のセリフにもなり、心の動きや情景の描写にもなるように、“一本の線”になるように繋ぎました。

『はるのうた』に関して

「メロディーも言葉も情景も、映画を見た人の心の中で蘇るようなストーリーを歌にしました。」

まさに、映画を見た人の心の中でメロディーも言葉も情景も蘇るような、10年の映画のストーリーそのままズバリの歌にされていました。


本作の音楽について

「綾音と春人の思い。その思いが永遠になってずっと流れているという気持ちで聴いてほしい」


君が最後に遺した歌✕Epiphone | Gibson Japan 

生見愛瑠さんのコメント

「素晴らしい楽曲の数々にも注目していただけたらと思います。歌詞の中に隠されたメッセージがあったりするので、それと照らし合わせたりしながら、春人と綾音の10年間の物語を、ぜひ大切な人と一緒に観て欲しいです。」


『君と見つけた歌』の「世界が雨音なら何も見えなくていい」(絶望の雨音)

『Wings』の「1.2.3.4 深呼吸」(虚勢の翼)

『春の人』の「かいじゅうがねむる こどくのやみも もうこわくないよ」(孤独の沈黙)

『はるのうた』の「君の涙がプリズムの光になって」(光の中での永遠の別れ)


4つの歌の歌詞一つ一つのことばには、血の滲むような祈りと、悲鳴と、そして究極の愛、生と死、絶望と救済の連鎖が重く宿り痛いほどに刻み込まれていますが、その歌詞の連なりには多くの余白も感じられます。

それは観客一人一人の受け取り方で変わるのかも知れません。


この映画の撮影はまるでドキュメンタリーのような撮影手法が取られたそうですが、そのクリエイター陣や演者の方々という制作陣が、互いに自分の矜持を持って自らの生きる意味の価値観を自分の領域に注ぎ込んで高め合った。


高め合ったこの映画の世界は一緒のはずなのに、それぞれに見ている世界は大きく異なっている。 

それぞれの真心の視点が違うからこそ、互いの新たな気付きにより大きく影響され、高め合うことができたのでしょう。


この映画の中には、どれだけの人生とそれぞれの人の「あの時、言えなかったけど(そして矜持ゆえに言わなかったけど)、ほんとうは…。」という想いが込められているか。

それらの真相を覗き込む事ではじめて見えてくる、あまりにも沢山の、恐ろしいほどの深淵が内包されているのです。


それは、原作者、監督、音楽プロデューサー、脚本家、演者、制作に携わった膨大なスタッフ、そして何万人という観客一人一人、それぞれがその内に秘めた想いを反映しながらその深淵を覗き込んだ時、皆少しずつ違う、しかしその根幹の魂が共通の物語が、それぞれ見えてくるのではないでしょうか。



【結論をわかりやすくここに後日追記しました】


劇場版『君が最後に遺した歌』がどのような映画だったのか。


本当に美しいものを提示する為に、損得勘定や効率(タイパ・コスパ)そして見返りなどを求めない「声にならない声」に寄り添う献身的な愛と、クリエイター陣や演者の狂気的なこだわり(矜持)が結実した、お互い足りないものを補い合うという、それを受け取る観客がそれぞれの内に秘めた想いを投影し自分だけの「真実」を見出すための物語でした。

極限まで凝縮した一言で言うと、

【『あの時、言えなかったけど…本当は…』という想いに寄り添う物語】

というのが、私が最後にたどり着いた結論でした。


私もここまで来てようやくわかりました。

音楽のかいじゅう亀田誠治氏に更にひれ伏しながら、自らの考察の浅さを心底から謝罪したいと感じます。


オリコンニュース
【インタビュー】亀田誠治、純愛音楽映画『君が最後に遺した歌』に込めた初期衝動と“歌の力”

「今作は、劇中の音楽が綾音と春人のセリフにもなり、心の動きや情景の描写にもなる。すべての音楽が“一本の線”になるように繋げてほしいというリクエストを三木監督からもらいました」

この映画の10年間を凝縮し総括するのがラストシーンの『はるのうた』です。

その歌詞の結び

「今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ」
「僕はここにいるよ 」
「君に届くかな はるのうた」


私の君歌考察のスタートが、この歌詞が『春の人』の

「そのはるよぶひとを
ずっとさがしているよ
きみをうたいつづける」

へのアンサーだと遅ればせながら気がいつた衝撃からでしたが、いまこの総括記事の結論を言語化する事でようやく知ることが出来た気づき。

このアンサーはそれだけではなく、

『あの時、言えなかったけど…本当は…』

という公式が一番最初に置いていた映画のキーフレーズへのアンサーソングとして、

「今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ」
「僕はここにいるよ 」
「君に届くかな はるのうた」

と、『春の人』を奏でるあの綾音と同じ心境でただ歌い続けていました。


すべての音楽が“一本の線”になるように繋げてほしいという三木孝浩監督からのリクエストに応えて、『あの時、言えなかったけど…本当は…』というこの物語が描き出した全ての想いに対して、すべての音楽で繋いだ“一本の線”の先が

「今なら言えるよ 好きだよ大好きだよ」
「僕はここにいるよ 」
「君に届くかな はるのうた」

のラストソングに繋がっていたのです。

そしてこのアンサーは、君歌ワールドが包括していた全ての『あの時、言えなかったけど…本当は…』へのアンサーと、綾音と春人の10年の『あの時、言えなかったけど…本当は…』へのアンサーだけではなく、春人のことばを通して生見愛瑠さんの歌声で私の10年の『あの時、言えなかったけど…本当は…』にも優しい【はるのうた】のアンサーを返してくれました。

これはもちろん、私個人に向けられたメッセージなどではもちろん無く、現代に生きる
『あの時、言えなかったけど…本当は…』
を、人知れず抱えて生きている、全ての人々に向けた優しい【はるのうた】なのだ
と思います。

なんて優しく、そしてほんとうに美しいメッセージでしょうか。

そしてあらためて、それは生見愛瑠さんの演技にも何年も前から完全に通じていた事に気が付きました。

それはこのまま次のページとなる、あとがきで。

次ページ:【映画君歌の誰も知らない真実】あとがき 1|タイパと『あの時、言えなかったけど…本当は…』




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【映画君歌の誰も知らない真実】



【掲載画像について】


※掲載画像は作品の世界観やキャラクターを表現したオリジナルのイメージビジュアル生成です。本編中に全く同じシーンが登場するわけではありません。




【免責事項および読者の皆様へのお願い】


■ 考察内容について


本記事における楽曲、ストーリー、演出に対する考察は、すべて映画、原作小説、スピンオフ小説を鑑賞・読了した筆者個人の主観的な解釈(受け取り方)に基づくものです。


文章の性質上、熱意のあまり「〜である」「〜に違いない」と断定的な表現を用いている箇所が多々ありますが、これらは決して公式の意図を代弁・保証するものではありません。この物語にどのような真実が隠されているのかは、この記事を読んでくださった皆様お一人お一人のお心の中で、自由に感じ、判断していただければ幸いです。




■ 出演者(生見愛瑠さん)への言及について


本考察内において、主演である生見愛瑠さんの演技の凄みや、役への向き合い方(人間性)について、筆者の独断で深く言及・想像している箇所がございます。


しかし、筆者は彼女のSNSや全出演番組を網羅しているような深いファンではなく、あくまで一人の映画ファン(浅い応援者)としての視点から「スクリーンに映る彼女の凄まじい表現力」に圧倒され、執筆したものです。


日頃から彼女を深く応援し、彼女の本当の姿を熟知していらっしゃるファンの皆様の「生見愛瑠像」を否定する意図は一切ございません。もしご不快に感じられる表現がありましたら、すべては筆者の表現力不足と、作品への愛が暴走した結果の「個人的な感傷」として、ご容赦いただけますと幸いです。

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