歴史から学ぶべき国:日米修好通商条約
日米修好通商条約から始まる関税自主権の喪失
日本人であれば歴史を学んだと思いますが江戸時代から明治時代にかけての幕末1858年(安政5年)に「日米修好通商条約」が結ばれました。日本の裁判権が外国人に及ばず、アメリカの領事が裁く「治外法権」が注目される場合が多いのですが、不平等な条約として「関税自主権の欠如」という点も注目されるポイントになります。その後 江戸時代1866年(慶応2年)に結ばれた「改税約書」で日本の輸出入の関税率が一律5%に圧縮され不平等な状態となり、明治時代(1873年~1880年代)に入ってから交わされた「改税約書」により、日本は完全に関税自主権を喪失し、条項が固定化された形となりました。
日本人は歴史から何を学んでいるのか?
先月に書いた記事に「ラトニック商務長官」のBloomberg出演時の記録を紹介しました。Bloombergで放映されたこの内容から日本人が学ぶことは多いと思います。(再度紹介します。)
近代史は教育ではあまり注目されない課題
幕末から明治にかけての近代史はあまり高校教育では注目されないことも背景にあるのかも知れません。近代史にはセンシティブな話題も多く、現代史に直結する出来事も多いため学校の先生が説明するに難しいこともあるでしょう。
今の時代は情報は自分で取りに行く時代。ネットの界隈に嘘や真の情報も含めて多種多様な情報の海があるので、AIを活用し効率よく学ぶ必用があると思います。
江戸時代や明治時代とは違う日本の国際的な立場
列強諸国に囲まれた江戸時代や明治時代とは、現在の日本の国際的な立場は異なる位置にいます。自己分析を行ったうえで自立した行動を取るためには、今何が足りないか?改めて歴史を紐解いてアイデアを得ることが肝要かと思います。
(おまけ) ChatGPT先生の歴史解説
「明治政府がなぜ改税約書を受け入れざるを得なかったのか?」を
ChatGPT先生に質問してみました。回答内容に学ぶことが多かったのでこちらで紹介します。(ChatGPTの回答そのままになります、ご了承ください。)
ご質問の「明治政府がなぜ改税約書を受け入れざるを得なかったのか?」については、当時の国際情勢と日本の国内事情の両方が複雑に絡み合った、外交的・構造的な弱さの現れです。以下、論理的に解説します。
✅ 結論:明治政府は外交力・軍事力・国際信用の面で「弱者」であり、条約改正交渉の過程で“改悪”を受け入れざるを得なかった
📘 改税約書とは?
改税約書(かいぜいやくしょ)とは、1860年代後半~1880年代にかけて、日本が欧米諸国と結んだ既存条約(1858年の安政条約)の補足的修正条項のことです。
形式上は「一部修正」ですが、実質的に関税を一律・低率に引き下げ、日本の関税自主権をさらに制限するものでした。
例:綿布の関税率は20% → 5%、砂糖は35% → 15%、生糸は5%据え置きなど。
🧭 明治政府が受け入れた理由
1. 🔻 外交的交渉力の未熟さ
明治維新直後の日本は、近代的な外交制度・人材・語学能力・国際法の理解において未発達でした。
外務省も設立されたばかりで、列強の外交官に比べて明らかに経験不足。
欧米列強の「国際法の論理(Treaty System)」を前提とした交渉の中で、日本は自国の主張を通す法的知識や前例が乏しく、強く出られなかった。
2. 🔻 軍事力・制裁力の欠如
条約は対等な国家間で交わされるべきものですが、当時の日本は軍事的・海軍的に圧倒的な劣勢。
欧米列強に対して「交渉が決裂しても構わない」という選択肢(交渉のカード)を持っていなかった。
実際、イギリス・フランス・ロシアなどが艦隊を派遣して“威圧”する外交を行っていた事例もあり、日本はそれに抗する軍事力を持ちませんでした。
3. 🔻 国際信用の低さ(信頼されていなかった)
明治維新直後の日本は、政治的にも経済的にも**「政情不安」「暴力的体制転換」の印象**を持たれていた。
特に「攘夷運動(外国人襲撃)」「反乱の頻発(西南戦争など)」により、「近代国家として信用に値しない」と見られていた。
そのため欧米は、「もし日本に関税自主権を与えれば、自国の商売が脅かされる」と考え、強く抵抗した。
4. 🔻 列強の“共同戦線”による圧力
改税約書の交渉は「一国対一国」ではなく、複数の列強が横並びで圧力をかけてくる構造でした。
いずれか一国と有利な修正を結ぶと、「最恵国待遇」によって他国にも自動的に適用されてしまうため、日本側に主導権は取りづらい。
列強間で裏で連携し、日本の関税率を5%以下に揃えるよう圧力をかけていました。
5. 🔻 明治政府の「近代国家承認」への焦り
明治政府は当時、「西洋列強から“文明国”として認められること」を急務としており、
軍隊の整備
憲法の制定
教育制度の整備
文明的な貿易体制の整備
などに邁進していました。
この文脈で「改税約書を受け入れること」は、近代国家にふさわしい“法と秩序”の一部を整える行為と自己認識していた面もあります。
⚖ 「選択肢がなかった」ことを表す実例
1878年:日本は関税率の引き下げに強く反対していたが、列強の同意が得られず、「条約改正交渉自体が破談になる」リスクを避けるために妥協。
英国・米国は「お前たちは未開で自国産業保護を言う立場ではない」と主張。
結果として、日本は「将来の信頼確保のための一時的な犠牲」として改税約書を受け入れた。
📌 総括
理由
① 外交交渉力が弱かった: 国際法・語学・制度の面で後進国だった
② 軍事的カードがなかった: 「対等でない交渉」に応じるしかなかった
③ 信頼されていなかった: 政治的不安定・反乱・攘夷の印象が悪影響
④ 列強が団結して圧力: 一国ではなく“連合的要求”だった
⑤ 文明国化への焦り :「近代国家に見られたい」という願望が譲歩につながった
🧠 歴史の教訓として
この過程は、**主権とは何か?国際交渉において対等性を確保するには何が必要か?**という重要な問いを私たちに投げかけます。
明治政府の「苦渋の譲歩」は、やがて陸奥宗光(1894年)や小村寿太郎(1911年)による条約改正成功につながり、「力を蓄えてから交渉に再挑む」という国家戦略の実例ともなりました。
"Those who cannot remember the past are condemned to repeat it."
(過去を記憶できない者は、それを繰り返す運命にある)
~ イギリスの哲学者・歴史家 George Santayana の言葉より ~
