世界心霊用語史・比較補論objective / subjective は、何を「客観的/主観的」に詰め込んでいるのか――真理・公平・再現性・一人称経験を、二語で分けてよいのか
世界心霊用語史・比較補論
objective / subjective は、何を「客観的/主観的」に詰め込んでいるのか
――真理・公平・再現性・一人称経験を、二語で分けてよいのか

「それは主観でしょう」
と言われる。
少し弱くなる。
「これは客観的なデータです」
と言われる。
少し強くなる。
妙なことである。
なぜなら、
主観的であることから、偽であるとは導けない。
し、
客観的であることから、真であるとも導けない。
からである。
たとえば、
私はいま歯が痛い。
これは一人称経験についての報告だから、ある意味で非常に「主観的」である。
しかし、
だから痛くない。
とはならない。
反対に、
この温度計は20.0℃を示している。
という測定は、かなり「客観的」に見える。
しかし温度計が壊れていれば、表示は間違っている。
だから、
主観的 ⇒ 偽
ではない。
そして、
客観的 ⇒ 真
でもない。
にもかかわらず現代日本語では、
主観的
≈ 個人的
≈ 偏っている
≈ あてにならない
客観的
≈ 公平
≈ 科学的
≈ 信頼できる
≈ 正しい
という評価まで乗りやすい。
では、
「主観的/客観的」という二語には、いったい何が詰め込まれているのか。
今回はそこを分解してみたい。
1 今回は「なぜそうなったか」を確定する稿ではない
最初に射程を限定する。
1881年の『哲学字彙』を見ると、
Subjective 主観的
Objective 客観的
は、すでに載っている。
一方、同じ辞書では名詞の方は、
Subject 心、主観、題目、主位(論)
Object 物、志向、正鵠、客観
と揺れている。
さらに重要なのは、
Objectivity
Subjectivity
は、1881年版には独立見出しとして立っていないことである。
つまり、
名詞 subject / object
→ 訳語がまだ競合
形容詞 subjective / objective
→ 主観的 / 客観的 がすでに辞書化
抽象名詞 objectivity / subjectivity
→ 少なくとも1881年版では未立項
という非対称な状態がある。
これは面白い。
ただし、ここから、
1881年にはすでに「客観的=公平で正しい」「主観的=偏っている」という現在の評価が成立していた
とは言えない。
辞書に形容詞が存在することと、日常的な評価語になっていることは別問題だからである。
したがって今回は、
「客観的/主観的」が日本語史上いつ現在の評価を帯びたか
を確定するのではなく、
現在の二語の内部に何が圧縮されているのかを分解し、その歴史を検証するための地図を作る。
そこまでを行う。
2 そもそも欧米語でも、最初から現在の意味ではなかった
現代語だけを見ると、
objective = object側
subjective = subject側
という単純な対に見える。
しかし歴史はもっと複雑である。
前稿で見たように、17世紀のDescartesが使う realitas objectiva は、現在の、
人間の心とは独立して客観的に存在するreal reality
という意味ではない。
むしろ、
観念が何かを表象する限りで、その観念に帰属する「表象されたものの実在性」
を問題にしている。
つまり、
objective
という語に、
外界独立
無偏見
公平
信頼
科学的
という現在の意味が最初から入っていたわけではない。
objective / subjective 自体が、欧州語内部ですでに長い意味変化を経験している。
3 しかも「客観性」は19世紀科学の新しい認識的徳だった
ここで科学史が重要になる。
Lorraine DastonとPeter Galisonは『Objectivity』で、科学における客観性を、
古代から存在した一個の永遠の理念
として扱っていない。
彼らが示したのは、近代科学では異なる認識的徳が歴史的に現れたということである。
大まかには、
truth-to-nature
mechanical objectivity
trained judgment
などである。
19世紀のmechanical objectivityでは、
科学者自身の判断・美的選択・期待をできるだけ抑える
ことが理想になる。
写真。
自記装置。
機械的記録。
そこでは、
自分の意志を働かせないこと
自体が科学者の徳になった。
だから、
客観性の歴史は「人間を消す歴史ではなかった」
と単純に言うのも正確ではない。
ある時期には実際、
人間の判断を極力消す
ことが理想化された。
しかしその後には、
機械だけでは判断できない。
熟練した専門家の判断も必要である。
としてtrained judgmentが前景化する。
したがって、
客観性は、一つの定義が進歩して完成したのではなく、複数の認識的徳が歴史的に重なってできた。
と見る方がよい。
4 すると1881年の日本は「できたての客観性」を受け取ったことになる
ここが前二稿と少し違う。
subject / object は、古代・中世以来の長い多義性を抱えていた。
しかし19世紀的なscientific objectivityは、もっと新しい。
つまり1881年の日本は、
数百年前から完成していた「客観性」を輸入した
のではない。
むしろ、
欧米科学で形成されつつあった新しい認識的徳を、かなり同時代的に受け取った
ことになる。
したがって、
欧米で完成
↓
日本へ輸入
↓
日本で評価語化
という単純な一方向モデルではない。
より現実的なのは、
欧米の哲学・科学
↕
近代日本の哲学・科学
↕ ↕
学校 ←→ 行政 ←→ 報道
↘ ↓ ↙
日常語
↕
再び専門領域へ
というネットワークである。
しかも英語・ドイツ語からは、その後も新しい意味が何度も再入力される。
5 では現在の「客観的」には何が入っているのか
まず「客観的」を分解する。
少なくとも、次の問いは別である。
問題問い存在人間が信じなくても存在するかアクセス特定個人しか直接アクセスできないか観測者依存観測者を替えても結果が保たれるか手続き同じ規則・方法を適用しているか再現他者が同じ手続きで同じ結果を得られるか公平特定の人を優遇していないかbias系統的な偏りがないか精度測定値が対象を正確に表しているか真理命題そのものが真か
これらは重なることがある。
しかし同じではない。
しかも、この九項が自然界に存在する「客観性の九成分」だという意味でもない。
これは、
現在「客観的」と呼ばれる場面を分解するための分析軸
にすぎない。
数や境界は、分析目的によって変わりうる。
A――規約・モデル依存――である。
6 Heather Douglasは、客観性が一つではないことをすでに論じている
ここで先行研究と接続しておく。
Heather Douglasは2004年の論文 “The Irreducible Complexity of Objectivity” で、scientific objectivityの用法を複数に分解し、
それらを一つの意味へ還元できない
と論じた。
つまり、
客観性には一つの本質があるはずだ
と考えるより、
別々の問題に「objective」という同じ評価語が使われている
と考える方がよい。
さらにDouglasが指摘する重要な点は、
「これはobjectiveだ」
という言葉には、
だから、この結果を信頼すべきだ
という評価的・修辞的な力が伴いやすいことである。
ここは今回のテーマと直接つながる。
7 「客観的」は単なる記述語ではなく、評価述語にもなる
たとえば、
客観的な方法です。
という。
これは方法の分類に見える。
しかし同時に、
だから信頼してよい。
という評価まで含みやすい。
同様に、
それは主観的ですね。
と言うと、
だから議論の根拠として弱い。
という含みを持つ場合がある。
つまり現代の、
客観的
主観的
は、単なるrelation markerだけでなく、
判断・証拠・手続きへ認識的・規範的評価を付ける「評価述語」
として働く。
ここで「operator」と呼ぶ必要はない。
形式論理上のoperatorとは別物だからである。
8 しかし評価の正負はsubject / objectそのものから出てこない
ここで前三稿をつなぐと面白いことに気づく。
同じ subject 系なのに、
主観的
→ 個人的
→ 偏っている
→ 負の評価を受けやすい
一方、
主体的
→ 自分から行う
→ 自主的
→ 積極的
→ 正の評価を受けやすい
となった。
両方ともsubject周辺から来ている。
なのに評価の符号が反対である。
これは重要である。
subjectだから負評価になるのではない。
評価を決めたのは、
どの対概念ネットワークへ配置されたか
なのである。
9 「主観―客観」と「主体―客体」では、威信の置き場所が逆になる
認識論では、
主観 ↔ 客観
という対立が形成された。
ここでは、
主観から距離を取る
ことが、
公平
検証可能
科学的
信頼可能
と結びつきやすい。
したがって「客観」側へ認識的威信が集まる。
一方、行為論では、
主体 ↔ 客体
となる。
こちらでは、
主体
が、
能動
自律
責任
行為
自主性
と結びつきやすい。
だから、
客観的
= 正評価
主体的
= 正評価
が同時に成立できる。
つまり正負を決めるのは、
主/客、subject/objectという語源的位置ではない。
その語がどの関係ネットワークに置かれ、何を価値として要求する制度で使われたか
なのである。
10 主観性も一つではない
今度は「主観的」を分解する。
少なくとも、
問題問い一人称依存本人の経験として成立するか視点依存立場が変われば見え方が変わるか選好依存好みに依存するか判断者依存評価者ごとに結論が変わるか私秘的アクセス本人しか直接アクセスできないかbias系統的な偏りがあるか恣意性好き勝手に変えられるか
これも全部別である。
だから、
主観的であることだけから、偏っているとは言えない。
そして、
主観的であることだけから、あてにならないとも言えない。
11 「痛い」は主観的だが、恣意的ではない
私は痛い。
この経験は、
一人称的アクセスに強く依存する
という意味では主観的である。
しかし、
好きなときに痛いことにする
わけではない。
痛みはむしろ本人に強制的に生じる。
したがって、
private access
≠
arbitrary judgment
である。
ここを「主観」の一語にまとめると、
本人しか直接知らない
と、
好き勝手に決めている
が混同される。
12 主観的経験と、主観的証拠を分ける
たとえば痛みを研究する。
現象
本人の痛み経験。
報告
「痛い」という発言。
行動
顔をしかめる、患部をかばう。
生理測定
心拍や神経活動。
推論
本人がどの程度痛みを経験しているか。
これらは別の層である。
だから、
痛みは主観的だから科学的に研究できない。
という説明は雑である。
正確には、
現象への直接アクセス条件が一人称的である。
しかし、
その現象についての証拠まで全部私秘的であるとは限らない。
のである。
13 逆に「客観的測定」だから真とも限らない
温度計を使う。
誰が読んでも20.0℃。
測定procedureも標準化されている。
それでも、
校正が間違っている
可能性がある。
すると、
observer-independent
や、
procedurally standardized
であっても、
accurate
とは限らない。
さらに、
accurate measurement
であっても、
そこから導いた理論がtrue
とは限らない。
したがって、
procedure
measurement
inference
truth
を分ける必要がある。
14 「客観的事実」は少なくとも三層に分ける
「それは客観的事実です」
と言われる。
ここでも何を言っているのか分けよう。
A 存在論的客観性
人間が信じなくても成立している。
B 認識論的客観性
十分な共有可能な証拠で確認されている。
C 手続的客観性
公開・標準化された手続きを経ている。
この三つは別である。
たとえば、
ある病気が存在する
ことはAの問題。
その病気を、
今の検査法で十分確認できているか
はB。
検査が、
誰に対しても同じprocedureで行われるか
はC。
同じ「客観的」で呼ぶと、問題が混ざる。
15 そして存在論は+Oへ分ける
ここで本シリーズの+Oが必要になる。
あるものについて、
複数人が同じように観測した。
これは重要な証拠になる。
しかし論理的には、
intersubjective agreement
から、
mind-independent entity exists
が自動的に出るわけではない。
ただし逆に、
だから外部実在について何も推論できない
という意味でもない。
科学的実在論では、
再現性
予測成功
観測者非依存
理論的統合
などから、
外部実在を仮定するのが最善の説明である
という推論が可能である。
つまり、
認識論的客観性と+Oは同一ではない。
しかし、
無関係でもない。
証拠から存在論仮説へは、別途推論が必要なのである。
16 間主観性は「主観と客観の中間」ではない
ここでよく出てくるのが、
intersubjective
間主観的
である。
しかし、
主観
↓
間主観
↓
客観
という一本線にしてはいけない。
たとえばミュラー・リヤー錯視。
ほとんど全員が、
二本の線の長さが違って見える
と報告したとする。
これは非常に強い間主観的一致である。
しかし実際の線の長さが異なるとは限らない。
つまり、
共有されている経験
と、
対象のmind-independent property
は別である。
17 貨幣や法律も単なる「みんなの主観」ではない
言語。
貨幣。
法律。
慣習。
社会規範。
これらには、
間主観的に共有・維持される側面
がある。
しかし、
みんなが同意しているだけ
でもない。
たとえば貨幣には、
法
国家
銀行
決済制度
記録
物理的インフラ
強制力
などH₁/H₂の実装がある。
したがって、
intersubjective agreement
と、
institutional fact
も同一ではない。
「間主観的」という便利な第三項にも、別の詰め込みが起こりうる。
18 「数字だから客観的」は、なぜこれほど強いのか
ここで数量化の話になる。
たとえば、
満足度を1〜5で答えてください。
と言う。
もともとは主観的な自己報告である。
それを数字にする。
しかし、
主観的経験
↓ 数値化
客観的事実
へ魔法のように変わったわけではない。
正確には、
自己報告を標準化されたprocedureでquantityへ変換した
のである。
19 しかし数量化には制度的な合理性がある
だからといって、
数字にするのはインチキだ
でもない。
Theodore Porterの Trust in Numbers が重要になる。
数字は、
同じ基準を使いやすい
遠隔地へ伝えやすい
個人裁量を減らしやすい
誰が決めたかを前面に出さずに済む
手続きを監査しやすい
という制度的利点を持つ。
特に、
恣意的だ
身内びいきだ
担当者の気分だ
という批判を受けやすい組織では、
数字によって決めました
という説明が強い。
だから、
数字=客観
という単純な同一視は誤りでも、
なぜ数字が客観性の記号になりやすいか
には制度的理由がある。
20 心理測定でも「数値化≠ただの飾り」ではない
ここも注意する。
心理測定学や精神物理学では、
item response theory
latent trait models
psychophysics
などを用い、
個々の自己報告を単に数字へ変える
以上のことを行う。
複数項目や複数被験者の反応構造から、
比較的安定したparameter
を推定する。
だから、
主観的報告を数量化しただけだから無意味
でもない。
正確には、
主観的データ源から、どの条件のもとでどの程度観測者・項目・測定条件への依存を減らせるか
が問題になる。
21 「客観性profile」を一つの数字へ縮約することはできる
前稿では、
客観性は一つの数字にはできない
と書いた。
これは強すぎた。
たとえば、
O=w1R+w2S+w3I+⋯O=w_1R+w_2S+w_3I+\cdots
のような総合指標を作ること自体はできる。
問題は、
重み wiw_i が自然界から一意に与えられるわけではない
ことである。
再現性を重くするのか。
公平性を重くするのか。
観測者非依存を重くするのか。
それは目的と規約に依存する。
したがって、
客観性を単一指標へ縮約することは可能だが、その縮約には追加の評価規則が必要になる。
これはBではなくAの問題である。
22 一つの研究に「主観的データ」と「標準化された手続き」は共存できる
被験者1000人に、
痛みを0〜10で答えてください。
と聞く。
各回答は一人称経験についてのself-reportである。
つまりデータ源はsubjective。
しかし、
同じ質問
同じ尺度
同じ手続き
事前登録
統計解析
公開データ
を使えば、procedureの一部はかなりstandardizedにできる。
つまり、
data source
= subjective
procedure
= standardized / comparatively observer-independent
は同時に成立する。
ここで重要なのは、
同じものが同じ意味で主観的かつ客観的なのではない。
述語を付けている対象が違うのである。
23 主観/客観が排他的に見えるのは、主語を省いているからである
「これは主観的です」
と言う。
何が?
経験が?
報告が?
測定方法が?
判断基準が?
結論が?
同じく、
客観的です。
何が?
対象が?
procedureが?
データが?
判定規則が?
命題が?
ここを省くから混乱する。
つまり、
「主観的/客観的」は単独では情報量が少なすぎる。
本当に必要なのは、
objective in what respect?
subjective in what respect?
である。
24 第三者視点も客観性を保証しない
「第三者の立場から客観的に見よう」。
よく言う。
しかし第三者にも、
利害
偏見
無知
文化的前提
認知的限界
がある。
第三者視点が与えるのは、
当事者視点からの距離
であって、
真理保証
ではない。
したがって、
third-person perspective は objectivity の一方法にはなりうるが、それ自体がobjectivityではない。
25 客観性とは、対象そのものの属性とは限らない
「このデータには客観性がある」。
そう言う。
しかし場合によって客観性は、
対象
+
測定器
+
測定者
+
protocol
+
解析法
+
公開制度
+
検証共同体
という関係システムの性質である。
つまり、
客観性がobjectの中に入っている
わけではない。
少なくとも手続的客観性については、
objectへのアクセスをどのように組織したか
が重要になる。
26 客観性は「subjectを消すこと」と「subject依存を管理すること」の両方の歴史を持つ
ここでDaston & Galisonへ戻る。
mechanical objectivityでは、
subjectの判断をできるだけ消す
ことが目指された。
しかしtrained judgmentでは、
熟練したsubjectの判断を適切に使う
ことが重要になる。
つまり、
subjectを排除する
だけではない。
subjectを訓練する
もある。
さらに現代なら、
subject依存を
standardize
公開
監査
複数人で相互検証
する。
したがって、
客観性とは常に人間を消すことではない。
より正確には、
何を人間判断から切り離し、何を人間判断へ残し、その判断をどう統制するかという歴史的技術の集合である。
27 「主観的」は議論を退けるspeech actにもなる
それは主観ですよ。
これは記述だけではない。
文脈によっては、
それ以上、証拠として扱いません。
という行為になる。
一方、
客観的データです。
には、
これを議論の基準として認めてください。
という力が乗る。
つまり「客観的/主観的」は、
信頼を配分する社会的ラベル
になりうる。
ただし、
いつ日本語でこの用法が成立したか
は、まだ未確定である。
28 学校では「客観的」が行動規則になる
学校で、
客観的に書きなさい。
と言われる。
では何をするのか。
出典を出す
数字を使う
感情表現を減らす
一人称を避ける
複数資料を比較する
根拠と意見を分ける
などへ翻訳される。
ところが、
一人称を書かなければ客観的
でもなければ、
数字を出せば客観的
でもない。
つまり抽象的な「客観性」は、制度に入ると、
具体的な行動規則へ再翻訳される。
ここにはP¹候補がある。
29 報道の「客観性」もprocedureになる
報道でも、
事実と意見を分離する
複数の当事者へ取材する
出典を明示する
反論機会を与える
などが、
客観報道
の具体的procedureになる。
しかし、
両論を同じ分量で載せれば客観的
とは限らない。
証拠が、
A説 100
B説 1
なのに、
A 50%
B 50%
と扱えば、
balance
はあっても、
evidence-sensitive accuracy
とは限らない。
つまり、
balance
≠
impartiality
≠
accuracy
≠
truth
である。
30 行政の「客観的基準」は、分類を現実にする
行政では、
客観的基準に基づいて対象者を決定する。
と言う。
このとき「客観的」は、
年齢
所得
点数
数値基準
証明書
申請要件
へ変換される。
すると単なる言葉ではなく、
誰が給付を受けるか
誰が除外されるか
を実際に変える。
ここまで来ると、
概念
↓
分類規則
↓
制度的処遇
が成立する。
P¹を実証できる可能性が高い領域である。
31 そして制度が客観性概念を作り返す可能性がある
さらに、
客観的にするため点数化した。
しかし点数化すると、
gaming
metric fixation
proxy failure
Goodhart型問題
が起きる。
すると、
数字だけでは客観的ではない。
専門家判断も必要だ。
という反省が起こる。
これはDaston & Galisonのtrained judgmentにも通じる。
もし、
客観性規範
↓
制度設計
↓
新しい失敗
↓
客観性概念の再定義
↺
まで史料で追えれば、P²になる。
現在は候補である。
32 形容詞化と名詞化も分ける
ここまでの語形を並べると、
objective
→ objectivity
subjective
→ subjectivity
客観的
→ 客観性
主観的
→ 主観性
となる。
しかしこれは、
歴史的成立順序
ではない。
形態上の派生関係である。
1881年の『哲学字彙』では、
客観的/主観的
があるのに、
Objectivity / Subjectivity
はまだ独立見出しとして存在しない。
だから、
形態的派生順序 ≠ 歴史的出現順序
を守る。
33 「〜性」の問題は日本語だけではない
日本語では、
客観性
主観性
主体性
合理性
自律性
のように「〜性」で抽象名詞を作れる。
しかしEnglishにも、
objective → objectivity
subjective → subjectivity
がある。
Germanにも、
objektiv → Objektivität
subjektiv → Subjektivität
がある。
したがって、
日本語の「〜性」が特別にreificationを生む
という話ではない。
むしろ、
複数の言語が、predicateをabstract property nounへ名詞化できる。
便利である。
しかしその便利さゆえに、
複数条件の集合を、一つの属性のように扱う
危険も生じる。
34 名詞化は悪ではない
ここもガードレールが必要である。
名詞化 ≠ 実体の発見
だからといって、
名詞化は錯誤だ
でもない。
「信頼性」「妥当性」「再現性」と同じく、
複雑な条件集合を一つのtechnical conceptとして操作する
ことには大きな利点がある。
問題は、
客観性という一語で何を測っているのかを忘れる
ことである。
だから、
nominalization ≠ reification
だが、
nominalization ≠ error
でもない。
35 A / B / E / P / Uで診断する
A――非常に強い
何を客観性と呼ぶかは、
science
journalism
law
education
administration
psychology
で違う。
さらに複数次元を総合指標へまとめる際のweightも規約依存。
B――基本的には置かない
「完全なobjectivityは論理的に不可能」という定理は、ここでは示されていない。
観察の理論負荷性。
Nagel的な「どこでもないところからの眺め」の困難。
こうした議論はある。
しかしそれだけでBにはしない。
E₃として管理する。
E₁――強い
1881年の「客観的/主観的」が現在と同じ評価ニュアンスを持っていたかは、辞書だけでは分からない。
新聞・雑誌・教科書・論文の用例が必要。
E₃――非常に強い
何をobjectivity / subjectivityとして測るか自体がmodel-dependent。
P¹――有力候補
「客観的に判断せよ」という規範が、
数値化
標準化
複数審査
盲検
行政基準
などへ変換され、実際の行動を変える経路は実証可能性が高い。
P²――候補
その制度が新しい問題を作り、「客観性」概念そのものを変更するfeedbackまで確認できればP²。
U――強い
現在の評価語化に、
19世紀欧米科学のobjectivity
哲学
日本語訳語形成
学校
報道
行政
数量化
既存の公平/偏り語彙
がそれぞれどれだけ寄与したかは、まだ分離できていない。
36 では「客観的=正しい」は、なぜ生まれたのか
ここまで来て、ようやく最初の問いへ戻れる。
ただし、歴史的因果はまだ確定していない。
現段階で言えるのは構造仮説である。
「客観的」が正の評価を得たのは、objectだからではない。
「主観―客観」という認識論的対立の中で、客観側へ、
科学的信頼
観測者非依存
公平性
非人格性
標準化
再現性
といった認識的徳が接続された。
その結果、
客観的
が、
「信頼してよい」
という評価を帯びやすくなった。
一方、
「主観的」が負評価になったのもsubjectだからではない。
客観側が信頼の標識になるにつれ、その対立項へ、
私的
個人的
偏っている
好みに依存する
あてにならない
という、本来別々の属性が押し込まれた可能性がある。
37 しかし同じsubject系の「主体的」は正評価になった
ここが三稿を通じた一番面白い点である。
subject
↓
主観
↓
主観的
↓
偏り・私的
だけを見れば、
subject系=負評価
と思いたくなる。
しかし、
Subjekt
↓
主体
↓
主体的
↓
自主・積極・自律
も存在する。
正反対である。
したがって、
評価の正負は原語から決まらない。
むしろ、
語
↓
どの関係ネットワークへ配置されたか
↓
どの制度で反復されたか
↓
何を望ましい状態としたか
↓
評価符号
である。
これは翻訳史としてかなり重要だと思う。
38 翻訳は語義だけでなく、価値まで再配置する
前稿まで、
翻訳とはtyped relation graphの部分的再写像である。
と書いた。
今回はそこへ一段加わる。
翻訳語が制度へ入ると、
そのrelationへ価値が付く。
つまり、
主観 ──認識──→ 客観
↑
「こちらが望ましい」
主体 ──行為──→ 客体
↑
「こちらが望ましい」
のように、別々のrelationで別々のnodeへ正の符号が付く。
したがって翻訳は、
語を移すだけでもない。
関係を移すだけでもない。
関係に付随する社会的価値まで再編成することがある。
39 第4項――本当にいつ評価語になったのか
ここから先は実証課題である。
① 『哲学字彙』1881/1884/1912
Objective
Subjective
Objectivity
Subjectivity
を追う。
特に、
「客観性」「主観性」がいつ独立technical termとして現れるか。
② 新聞・雑誌
「客観的」と、
公平
正確
真実
科学的
信頼
冷静
の共起。
「主観的」と、
偏る
独断
私情
個人
感情
不正確
の共起を年代別に追う。
これで表題の問いに直接答えられる。
③ 科学方法論
日本の科学文献で「客観性」が、
photography
recording apparatus
measurement
reproducibility
standardization
と結びつく時期を見る。
Daston & Galison型のobjectivity受容と比較する。
④ 学校
「客観的に書く」
が、
一人称禁止
数字使用
出典提示
根拠提示
のどれへ翻訳されたかを見る。
⑤ 報道
「客観報道」「公平中立」が、
客観性
といつ結びついたか。
日本では欧米報道史をそのまま移せないので、独自確認が必要。
⑥ 行政
「客観的基準」「客観的評価」が、
点数
所得基準
年齢
資格
審査表
などへどう実装されたか。
Porter型のquantificationとの関係を見る。
結び――「客観的か、主観的か」だけでは情報が足りない
もう一度、
それは客観的ですか。
と聞く。
しかし本当は、
何が?
である。
対象が?
存在が?
経験が?
報告が?
測定法が?
procedureが?
評価規則が?
結論が?
命題が?
そして、
どの意味で?
である。
観測者に依存しないのか。
他人が再現できるのか。
手続きが公平なのか。
測定値が正確なのか。
biasが少ないのか。
命題が真なのか。
これらは違う。
同じく、
主観的です。
だけでは、
一人称的なのか
私秘的なのか
視点依存なのか
好みなのか
評価者差なのか
biasなのか
恣意的なのか
が分からない。
だから今回の最終的なガードレールは、非常に簡単である。
「客観的ですか?」より、「どの意味で客観的ですか?」と聞く。
「主観的ですか?」より、「何が、どの意味で主観的ですか?」と聞く。
主観性と客観性は、一つの物差しの左右ではない。
それぞれ複数次元のprofileを持つ。
そのprofileを一つの数字へまとめることはできる。
しかし、そのときは重み付けという新しい規約が入る。
数値化したから真になるわけではない。
一人称経験だから偽になるわけでもない。
間主観的一致だから外部実在が自動的に確定するわけでもない。
そして「客観性」という名詞を作ったから、客観性という単一の実体が発見されたわけでもない。
前三稿を並べると、さらに大きな図が見える。
subject
→ 主語 / 主観 / 主体
object
→ 客観 / 客体 / 対象 / 目的語
↓
主観的 / 客観的
→ 複数の異質な評価軸を再び圧縮
↓
主観性 / 客観性
→ 抽象的な性質語として運用
つまり翻訳史には、
分化
だけがあるのではない。
一度分けられた問題が、別の語形では再びまとめられる。
さらに制度へ入ると、
その語に「望ましい/望ましくない」という価値まで付く。
だから翻訳とは、
名前の置換でも、
意味境界の移動だけでもない。
関係を再配置し、その関係に付く認識的・社会的価値まで変える歴史過程
なのである。
そして「客観的/主観的」の二語は、そのことを非常によく見せてくれる。
なぜなら、この二語ほど、
世界を説明する言葉であると同時に、相手の説明を採用するか退けるかを決める言葉
へ育った語も、そう多くないからである。
出典
1881年『哲学字彙』――最重要一次資料
Subjective=主観的、Objective=客観的、一方で Subject=心・主観・題目・主位(論)、Object=物・志向・正鵠・客観 を直接確認できます。また1881年版には Objectivity / Subjectivity の独立見出しがありません。緒言にはFlemingを底本としたこと、学科によって語義が違う場合は区別したことも明記されています。
国立国語研究所『哲学字彙』1881年全文翻字「主観的」の日本語用例史
精選版日本国語大辞典では1881年『哲学字彙』を資料として挙げ、現在の「個々人の心理に依存する」「ひとりよがり」といった意味も整理されています。ただし、1881年当時から現在の日常的な負評価が全部成立していた証拠にはなりません。
コトバンク「主観的」「客観的」の日本語用例史
1881年『哲学字彙』では「かっかんてき」、1907年『辞林』では現在に近い「きゃっかんてき」が確認できます。さらに「第三者の立場」「主観を離れる」という後代の意味も追えます。
コトバンク「客観的」Lorraine Daston & Peter Galison, Objectivity――科学的客観性の歴史
2007年。科学的objectivityを永遠不変の理念ではなく、19世紀半ばに前景化する歴史的な認識的徳として扱い、truth-to-nature / mechanical objectivity / trained judgment の違いを追います。今回の「客観性は単一属性ではない」「判断排除型と熟練判断型が歴史的に異なる」という節の中心文献です。
Peter Galison公式ページ:Daston & Galison, Objectivity
邦訳『客観性』名古屋大学出版会Lorraine Daston, “Objectivity and the Escape from Perspective” (1992)
現在のobjectivityが、metaphysical / methodological / moral など異なる意味の融合物で、それぞれ別の歴史を持つと明示した重要論文です。本稿の「客観性profile」の直接的な先行研究になります。
SAGE論文ページHeather Douglas, “The Irreducible Complexity of Objectivity” (2004)
objectivityの8つの区別可能な意味を提示し、それらが相互に還元できないと論じます。また「objective」と呼ぶことには「その結果を信頼すべきだ」というendorsementの修辞的力が伴うと指摘しています。今回の「評価述語」論に最も直接対応します。
PhilSci-Archive論文ページ・全文PDFありTheodore M. Porter, Trust in Numbers――数量化と客観性
1995年。quantificationを単なる自然科学の成功の模倣ではなく、非人格性・標準化・制度的信頼を得る技術として分析します。「数字だから客観的」という通念がなぜ制度的に強くなるのかを説明する中心文献です。
JSTOR:Trust in Numbers
邦訳『数値と客観性』みすず書房Descartesの realitas objectiva
SEPのDescartesのideas項。Descartesでは「objective reality」は現代的な「心から独立した客観的実在」ではなく、ideaが何かを表象することにおいて持つrealityを指します。改稿第2節の歴史的ガードレール用です。
Stanford Encyclopedia of Philosophy:Descartes’ Theory of Ideas存在論的/認識論的 objective–subjective の区別――John Searle
Searleはobserver-relative / observer-independentと、epistemic / ontological senses of objective–subjective を区別しています。「客観的事実」を存在論・認識論・制度に分ける補助線として使えます。
Searle, “Social ontology: Some basic principles”社会的過程としての科学的objectivity――Helen Longino
個々の研究者から価値を完全排除するのではなく、批判・応答可能性をもつ社会的過程としてscientific objectivityを確保する方向の代表文献です。本稿の「subjectを消すより依存を管理する」論を補強できます。
JSTOR:Science as Social Knowledge
石部統久・ChatGPT5.6
査読:ChatGPT5.6・Claude Opus5・Grok・Gemini3.7(Parcae Protocol)
