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ホロコーストの600万人の犠牲者数についての文献紹介(5):フランスとベルギー

前回:

これまでドイツ、オーストリア、ルクセンブルク、と翻訳してきて思ったのは、割と仔細な各国のユダヤ人迫害状況まで記事中に書かれてあり、そうした内容の勉強にもなるということです。犠牲者数に関する詳述だけかと思っていたのですが、それだけではありませんでした。

では続いて、フランスとベルギーです。さっさと翻訳に移りましょう。今回は、フランスでのユダヤ人の迫害の歴史まで解説されています。どうやら、各国の記事を書いているそれぞれの歴史学者に、ほぼ記事内容は自由に任せられていたようですね。

▼翻訳開始▼

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ジュリアーネ・ヴェッツェル

フランスとベルギー

フランスおよびベルギーのユダヤ人の運命は、共通の章でまとめて記述することができる。両国はドイツの軍事行政下にあり、両国における法的制限は「最終解決」に至るまでほぼ並行して進行した[1]。ルクセンブルクやオランダが併合あるいは事実上の併合によって大ドイツ帝国の行政単位に組み込まれたのに対し、ベルギーおよびフランスの軍事行政下の地域(併合されたユーペン=マルメディ州およびアルザス=ロレーヌを除く)にはこれが当てはまらなかった。

フランスとベルギーは、1940年春にドイツによって占領された。ベルギーは5月28日に降伏し、フランスは6月22日にコンピエーニュの森で休戦協定に調印した[2]。この協定により、フランスは占領地域と非占領地域に分割された。最初、ロワール川北部から大西洋沿岸に広がる占領地域はパリの軍事総督の管轄下に置かれ、1940年10月以降はフランス軍事司令官の


1 . Grundlegend für die Darstellung der Verfolgungsgeschichte in Frankreich und Belgien sind die jeweiligen Kapitel in Raul Hilbergs Publikation „Die Vernichtung der europäischen Juden. Die Gesamtgeschichte des Holocaust" (Berlin 1982) und Gerald Reitlingers Abhandlung über die „Endlösung. Hitlers Versuch der Aus-rottung der Juden Europas 1939-1945" (Berlin 19614) Speziell für die französischen Verhältnisse erwiesen sich sowohl das von Georges Wellers herausgegebene Buch „L'Etoile jaune à l'Heure de Vichy. De Drancy à Auschwitz" (Paris 1973) als auch die ausführliche Darstellung von Michael R. Marrus und Robert O. Paxton „Vichy France and the Jews" (New York 1983) als unerläßlich. Die Frage der Auswirkungen auf die französi-schen Kolonien ließen sich anhand von Michel Abitbols „Les Juifs d'Afrique du Nord sous Vichy" (Paris 1983) und Eberhard Jäckels „Marokko im Zweiten Weltkrieg" (Gutachten 1966) gut bearbeiten. Was Belgien betrifft, so konnten viele Hintergründe dem Eichmann-Prozeß, Protokoll Nr. 362, entnommen werden, das unter dem Titel „Les Crimes de Guerre commis sous l'Occupation da la Belgique" (Liège 1947) vom belgi-schen Justizministerium herausgegeben wurde.
Daten und Fakten sowie die Grundlagen für die Ermittlung der Zahl der Opfer in der Phase der „Endlö-sung wurden aus den Arbeiten von Serge Klarsfeld und seinen Mitarbeitern übernommen: Serge Klarsfeld/Maxime Steinberg, Die Endlösung der Judenfrage in Belgien, Dokumente o. J.; dies, Mémorial de la Dépor-tation des Juifs de Belgique, Bruxelles 1982; Serge Klarsfeld, Die Endlösung der Judenfrage in Frankreich. Deutsche Dokumente 1941-1944, Paris 1977, und Beate und Serge Klarsfeld, Le Mémorial de la Déporta-tion des Juifs de France, Paris 1978 (hier wurde die sich im Institut für Zeitgeschichte München befindliche deutsche Übersetzung aus dem Jahre 1982 verwendet) sowie Serge Klarsfeld, Vichy-Auschwitz. Die Zusam-menarbeit der deutschen und französischen Behörden bei der „Endlösung der Judenfrage" in Frankreich, Hamburg 1989. Für die Ermittlung der Zahl der Opfer wurden des weiteren die Artikel von Maxime Stein-berg (Statistiques de la déportation des Juifs de France d'après les dossiers de la Gestapo de Paris, vol. 21, Nr. 7 vom Januar - März 1966) und Adam Rutkowski (Les déportations des Juifs de France vers Auschwitz-Bir-kenau et Sobibor, vol. 26, Nr. 57/58 vom Januar - Juni 1970) in „Le Monde Juif herangezogen. Schließlich ergaben sich Vergleichsmöglichkeiten auch durch den Aufsatz von Georges Wellers in der Beilage zur Wo-chenzeitung das Parlament - „Aus Politik und Zeitgeschichte" - vom 29. Juli 1978, „Die Zahl der Opfer der ,Endlösung' und der Korherr-Bericht".
2 . Der Waffenstillstandsvertrag trat am 24. Juni 1940 in Kraft und blieb, da es nie zu einem Friedensvertrag kam, bis zum Ende der deutschen Besetzung bestehen, vgl. Jäckel, Marokko, S. 26.


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管理下に移された。非占領地域は当初フランス南部に残り、アンリ・フィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政府によって統治された。ドイツに併合されたアルザス=ロレーヌは、ガウライターのロベール・ヴァグナーおよびヨーゼフ・ビュルケルの管轄下に置かれた。エーヌ県、アルデンヌ県、ノール県、パ=ド=カレー県、ソンム県はベルギーの軍事司令官の支配下にあった[3]。

フランス占領地域では、ドイツ人は当初、ユダヤ人に対して比較的穏健な対応をとった。しかし、何世紀にもわたる反ユダヤ主義の伝統と、ますます強化されるドイツの政策が相まって、あらゆる反ユダヤ的措置が大きな反発なく実行されることが可能となった。ヴィシー政権も反ユダヤ主義的な性格を持ち、ドイツ人より先にユダヤ人への迫害措置を講じた。

フランスにおける反ユダヤ主義の伝統は、5世紀および6世紀に最初の大規模なユダヤ人居住が記録されて以降、1007年にまで遡ることができる[4]。カロリング朝の王たちがユダヤ人に完全な法的平等を保障した後、最終的に十字軍への道を開いたキリスト教西欧における急進的変化が、リモージュにおいて最初のユダヤ人迫害を引き起こした。聖職者や敬虔王ロベール(996年 - 1031年)の支援を受け、1012年までにフランス全土がこの迫害に見舞われた。第一次十字軍が再びポグロムを引き起こした後、1171年にブロワで31人のユダヤ人女性、男性、子供が儀式殺人の罪で告発され、杭に縛られ焼き殺された。聖体損壊の非難は1290年に初めて記録されている。その16年後、フィリップ4世端麗王(1285年 - 1314年)はユダヤ人追放を命じた。避難民はベルギーを含む諸地域に避難したが、ベルギーでは13世紀初頭になってようやくユダヤ人の定住が記録されるようになったばかりであった。そのわずか2年後、新たな十字軍がルーヴェン(ベルギー)で最初のユダヤ人大虐殺を引き起こした。ルイ10世(1314年 - 1316年)は1315年7月にユダヤ人のフランス帰還を許可したが、その後も彼の後継者たちのもとで迫害は続いた。ベルギーとフランスの両方で、1348年から1349年にかけてのペストが大規模なポグロムのきっかけとなった。ベルギーのエノー州は、1306年に多くのフランス系避難民が定住していたため、この暴動の中心となり、ブラバントと同様にユダヤ人は完全に絶滅した。フランスにおける迫害の規模は州ごとに異なり、フランシュ=コンテではすべてのユダヤ人が追放された一方、ドーフィネでは彼らは自由を享受し続けた。しかし約50年後、シャルル6世(1380年 - 1422年)が1394年9月17日に全ユダヤ人追放を命じ、フランス全土が対象となった。

中世の終わりには、アルザス=ロレーヌ、アヴィニョン、コント=ヴネサンおよびニースを除き、フランスにはもはやユダヤ人はいなかった。残留できたのは改宗者のみであり、彼らは完全にキリスト教社会に同化し、もはやユダヤ人とは見なされなくなった。18世紀初頭になってようやく、再びユダヤ人がパリに定住し始めた。彼らは主にドイツとオランダから来た者であった。同時期、ベルギーにも少数のアシュケナジム移民が見られた。フランス革命前夜には、フランスにはすでに4万人のユダヤ人が再び居住しており、その84%がイディッシュ語を話すアシュケナジム、


3 . Wellers, L'Etoile, S. 47 f.
4 . Der geschichtliche Überblick basiert auf der Encyclopaedia Judaica.


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16%がセファルディムで構成されていた。1790年および1791年に、彼らはすべてフランス市民権を与えられ、それによって市民的権利を獲得した。

1831年のベルギー独立に伴い、ベルギーでもユダヤ教が正式に承認された。1940年5月にドイツ軍が到着するまで、ベルギーのユダヤ人は中欧および東欧からの大規模な移民にもかかわらず、それ以上の迫害を免れていた。一方、フランスでは1840年、ダマスカス事件が再びユダヤ人社会を揺るがした。ダマスカスのユダヤ人に対する儀式殺人の告発に端を発するフランス政府および世論の敵対的態度は、フランスのユダヤ人に、自らの解放への信頼がいかに儚いものであるかを痛感させた。1848年2月にはアルザスおよびズンドガウ地方の農民による襲撃が発生し、やがてより北方の地域にも拡大した。ユダヤ人の家屋は略奪され、軍隊が出動してようやく秩序が回復された。

1830年、フランスは古代からユダヤ人の入植史を有するアルジェリアを征服した。1830年当時のアルジェリアのユダヤ人人口(3万人)は、ユダヤ教に改宗したベルベル人の子孫、14世紀に到来したスペイン系、17世紀のフランス系およびイタリア系移民から構成されていた。アルジェリアのユダヤ人は、1805年の一度だけ虐殺に遭ったことがあったが、1870年10月24日のクレミユー令によりフランス市民権を与えられた。この帰化はフランスによる征服以来進んできた同化の頂点をなし、直ちに反ユダヤ主義の波を引き起こし、1881年、1882年、1883年、1897年および1898年のポグロムに頂点を迎えた。

同時に、フランス本国では第三共和政の世俗化政策や改革思想が、教会や王党派の間に反ユダヤ的態度を生み出した。「ラ・クロワ」のような反ユダヤ主義新聞が市場に現れ、エドゥアール・ドリュモンの著書『ユダヤのフランス』(1886年)はベストセラーとなり、1889年には「反ユダヤ主義同盟」が結成された。1892年以降、ドリュモンは新聞「ラ・リーブル・パロール」を発行し、直ちにユダヤ人将校が国家反逆やスパイ活動を行っているとするキャンペーンを開始した。

このような状況下で「ドレフュス事件」が発生した。フランス参謀本部将校アルフレッド・ドレフュスは、1894年10月15日、ドイツへの国家反逆とスパイ活動の嫌疑で有罪となり、終身刑と悪魔島への流刑を言い渡された。「ドレフュス派」(ゾラやクレマンソーを含む)は流刑囚の無実を証明するために闘い、中道派と左翼の一方と右翼諸派の他方との激しい論争の末、1906年にドレフュスは無罪となり名誉回復を果たした。しかしこの勝利は決して一般世論を納得させるものではなく、むしろ反ユダヤ主義者の勢いを強める結果となり、その動きはアルジェリアでも顕著になった。フランス反ユダヤ主義政党のアルジェリア代表となったのも、他ならぬドリュモンであった。

第三共和政下の1871年以降、ユダヤ人に対する国家による特別扱いは一度も存在しなかったが、状況は次第に悪化していった。特に、1881年のロシア・ポグロム後に流入した東欧ユダヤ人の大規模移民や、サロニカ、コンスタンティノープル、スミルナからのユダヤ人移民は、フランス人の間に外国人、特にユダヤ人への敵意を増大させた。


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この時期、フランスは1912年にモロッコを保護国として統治下に置いた。同時期、フェズでのポグロムにより100人以上のユダヤ人が殺害された。このような反ユダヤ的な暴動は、ユダヤ人のルーツが古代にまで遡るモロッコにおいて長い伝統を持っており、フランス統治とはほとんど関係がなかった。フェズでは1438年にモロッコ最初のメッラー(ユダヤ人居住区)が設置され、ユダヤ人はそこに隔離された[5]。1941年8月19日、ヴィシー政権はこの伝統を復活させ、すべてのモロッコのユダヤ人をメッラーに移住させた。それまでモロッコのユダヤ人は完全な自由を享受していた。フランス保護国政府も、スルタンの保護によって保障されていた彼らの地位を揺るがすことはなかった。保護国宗主国の寛容な姿勢により、モロッコのユダヤ人の間では同化志向がますます高まった。しかし、植民地支配者の社会に完全に溶け込むことはできなかった。北アフリカのフランス中産階級に根付いた反ユダヤ的態度がそれを妨げていた。

第一次世界大戦の勃発はフランスへの移民の流れを止め、フランス全土での反ユダヤ主義を一時的に終息させた。敵に対抗するための統一戦線の必要性が、この種の対立を生じさせなかったのである。戦後、再び東方から大規模な難民流入が始まったが、今回はユダヤ人兵士の戦争への貢献もあり、反ユダヤ的暴動は発生しなかった。この比較的ユダヤ人に好意的な雰囲気の中で、1926年、ショーレム・シュワルツバルドがパリでウクライナの軍指導者を暗殺し、1919年にロシアでのポグロムで10万人のユダヤ人が殺害されたことに抗議した事件では、彼は世間を驚かせる裁判で無罪となった[6]。その翌年の1927年8月、フランス議会は非常に自由主義的な帰化法を可決した。1929年の株式市場の暴落も、他のヨーロッパ諸国とは異なり、フランスでは新たな反ユダヤ主義を生み出さなかった。これはフランス経済が世界市場から遮断され、直接的な影響を受けなかったためである。大恐慌の影響は1930/31年になって現れ、1932年には生産が27%減少した[7]。同時に、フランスはますます主要な移民受け入れ国となり、特にドイツで国民社会主義者が権力を掌握してから顕著になった。1933年の最初のドイツ系ユダヤ人亡命者の波は1万7千~2万人に達した。しかし、その多くは翌年、ドイツ情勢が一時的に安定したかのように見えたため、帰国した。1920年代には移民を歓迎していたフランス国民も、10年後には彼らの存在を重荷と感じるようになり、反ユダヤ主義が再び台頭した。最初のユダヤ人大虐殺は1934年、アルジェリア総督府のコンスタンティーヌで発生した。また、古代カルタゴ時代からユダヤ人を擁しており、1881年以降フランス保護国であったチュニジアでも、1932年と1934年にいくつかの都市で反ユダヤ暴動があった。モロッコだけはこの時期、被害を免れた。


5 . Jäckel, Marokko, S. 66.
6 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 25.
7 . Ebenda, S. 35.


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フランスでは、1934年11月20日の法律によってユダヤ人難民の就労が禁止された。再び反ユダヤ主義的な風潮が広がる中、1936年6月にレオン・ブルムがフランス初のユダヤ人首相に選出された。これに対し、とくに野党は反ユダヤ主義的偏見を利用して革命的変化を予言した。1938年にはパリで反ユダヤ人デモが行われ、同年のユダヤ教の大祭日にパリの首席ラビは信者に対し、シナゴーグ以外の場所で大規模な集会を行わないよう警告した[8]。11月には1927年の自由主義的な帰化法が制限され、1938年11月12日の政令により、すでに帰化したユダヤ人であっても「フランス市民の称号に値しない」とされた場合は国籍を剥奪できると定められた[9]。さらに1939年、ピウス12世は、1898年に設立された反ユダヤ主義団体「アクション・フランセーズ」の機関紙に対して科されていた禁止措置を解除した。これにより、カトリックの支持者も、反ユダヤ主義的フランス人思想家シャルル・モーラスの新聞を再び自由に読むことができるようになり、その多くの主張が一般に浸透した[10]。

こうして第二次世界大戦前夜、反ユダヤ主義の伝統はフランス人に再び定着した。排外主義もまた大きな役割を果たし、1940年当時、フランスに住むユダヤ人30万人のほぼ半数は国外生まれであった[11]。1940年6月、ドイツ国防軍がフランスに休戦協定の調印を強制すると、敗戦の意識は反ユダヤ主義を再び活気づけ、ユダヤ人は戦争敗北の格好の責任転嫁の対象となった。

1940年時点で推定9万人[12]のユダヤ人がいたが、そのうちベルギー国民であったのは5〜10パーセントにすぎなかった。ベルギーはきわめて制限的な帰化政策をとっていたにもかかわらず、外国人嫌悪や目立った反ユダヤ主義は存在せず、ユダヤ人は法的に完全な平等の下で生活していた。1942年のドイツの特別報告書では、ベルギーでは「カトリック教会とフリーメーソン的自由主義の庇護の下で、ユダヤ人社会の拡大と発展に門戸が開かれていた」と述べられている[13]。しかし、ドイツの侵攻時には、


8 . Ebenda, S. 391.
9 . Ebenda, S. 56.
10 . Ebenda, S. 51.
11 . Die Zahl beruht auf einer Schatzung, da es keine offiziellen Erhebungen über die jüdische Bevölkerung und die Ein- bzw. Auswanderungen gibt. Noch 1933 nahm Frankreich etwa 55 000 Juden aller Nationalita-ten auf. Vgl. ebenda, S. 36, und Encyclopaedia, vol. 7, S. 32.
12 . Ebenfalls eine Schatzung. Die Encyclopaedia (vol. 4, S. 420) gibt eine Spanne von 90 000 bis 110 000 an. Der „Sonderbericht über das „Judentum in Belgien" vom 31.1.1942 nennt für das Jahr 1939 116 000 Ju-den, die sich wie folgt verteilten: 80 000 in Groß-Antwerpen, 25000 in Groß-Brüssel, 3000 in Lüttich, 2000 in Charleroi und die restlichen 6000 verstreut in übrigen Städten, Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, Dokument CDJC, LXXVII-31, S. 9.
13 . Ebenda, S. 10.


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約3万人[14]のドイツ系ユダヤ人難民のうち、すでに3分の1がまだ占領されていないフランスへ逃れていたが、残っていた男性はすべて拘束され、志願兵としてベルギー軍で従軍していた者もいたにもかかわらず、ドイツ側の潜在的な協力者と見なされ、フランスのギュルス収容所へ送られた。1940年10月28日にドイツ軍政当局が全ユダヤ人の登録を命じた際には、4万2千人[15]しか届け出なかった。これは、大規模なフランスへの逃亡の結果であり、またベルギーのユダヤ人の多くが高度に同化していたため、登録命令を逃れることができたためであった。したがって、1940年11月時点でベルギーには、登録者数とドイツ側が把握していた届け出のない子ども1万人を合わせた約5万2千人[16]のユダヤ人がいたと推定できる。しかし、届け出のなかった者の中には子ども以外も相当数含まれていた可能性が高い。

アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン将軍が軍政総督としてベルギーに赴任したことで、国民社会主義的過激主義の明確な反対者がベルギーに来ることとなった。彼は1944年9月に解任されるまで、保安警察の介入に対しても成功裏に抵抗することができた。1940年11月以降、コンスタンティン・カナリス[17]がブリュッセルのSipo-SD長官となった。このため、ベルギーでの反ユダヤ的迫害は当初、立法上の制限に限定されていた。1940年10月23日の最初の政令は、儀式的屠殺を禁止するものであった。10月28日の登録政令と同時に、ベルギーから逃亡したユダヤ人の帰還禁止、すべてのユダヤ人企業の登録義務、企業および不動産に対する処分禁止、ならびにユダヤ人経営の飲食店の表示義務が命じられた。同じく1940年10月28日付の第二の政令は、ユダヤ人の官職や地位からの離脱を規定するものであった。「この規定により、1940年12月31日をもって、ユダヤ人は国家の職、公的報道機関および放送業務、弁護士業務、ならびに学校および大学の教職から退かねばならなかった」[18]。1942年6月1日以降、ユダヤ人医師および歯科医師はユダヤ人患者のみを診療することが許可された。これにより、ベルギーにおける最後の反ユダヤ的ドイツ法が施行された。

ベルギーと同様に、ヴィシー政権の反ユダヤ的措置も当初は法的制限に限られており、それは国土の両地域に適用された。これに対し、ドイツ軍司令官によって公布された政令は占領地域のみに適用された。これは当然、占領地域のユダヤ人にとって二重の打撃となった。しかしドイツとは異なり、占領下フランスでは混血結婚や養子縁組は反ユダヤ的立法の対象外であった。

ドイツ軍占領前に、ヴィシー政権は最初の反ユダヤ的措置を実施した。1940年8月27日、当時の司法大臣ポール・マルシャンドーにちなんで名づけられた、新聞における反ユダヤ的逸脱を取り締まり、


14 . Hilberg, Vernichtung, S. 415; Encyclopaedia, vol. 4, S. 420.
15 . Reitlinger, Endlösung, S. 388; Nbg. Dok. NG-2380, Bericht des Militärgouverneurs von Belgien und Nord-frankreich, Nr. 10 vom 19.11.1940.
16 . Von Bargen (Vertreter des AA in Brüssel) an das Auswärtige Amt, 11.11.1942, Nbg. Dok. NG-5219, vgl. Hilberg, Vernichtung, S. 416. Die jüdischen Bewohner der beiden vom Militärbefehlshaber in Brüssel ver-walteten französischen Départements waren zum Teil vor der Ankunft der Deutschen nach Frankreich ge-flohen. Die Militärregierung hatte noch im Oktober 8000 Juden aus Belgien nach Frankreich abgeschoben. Innenministerium (gez. Jacobi) an das AA vom 19.11.1942 mit Bericht des Militärbefehlshabers in Belgien und Nordfrankreich, Nbg. Dok. NG-2380, vgl. Hilberg, Vernichtung, S. 416.
17 . Canaris war zunächst bis 26.11.1941 im Amt und dann nochmals vom 1.2.1944 – 15.9.1944. Ernst Ehlers lõste ihn im Dezember 1941 bis 31.1.1944 ab. Judenreferenten" waren Kurt Asche (bis 1942) und Fritz Erdmann (bis 1943).
18 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, „Sonderbericht", S. 11 f.


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これを刑罰の対象とする1939年4月制定の法律が廃止された[19]。それまで反ユダヤ的な新聞記事は効果的に抑制されていたが、この廃止によって、そのような内容を書く者はフランスの新聞で自由に活動できるようになった。このようにして助長された反ユダヤ主義は、大多数が無関心な国民と遭遇した。国民の関心は「ユダヤ人問題」ではなく、むしろ捕虜、ドイツへ強制送還されたフランス人労働者、そして日々の生き延びることに向けられていた。そのため、「アクション・フランセーズ」派のような急進的反ユダヤ主義に対しても、反対運動は起こらなかった。これは政府にとって法律施行を容易にした。

8月27日の布告が最初の真に反ユダヤ的法律であったが、それ以前の1940年7月18日の公務員浄化法も、明示的ではないものの、事実上ユダヤ人を対象としていた。この時点から(いくつかの例外を除き)フランス人の父親を持たない者は公職に就くことができなくなった[20]。そのわずか4日後の1940年7月22日には、帰化の再審査に関する法律が公布された。1927年以降にフランス国籍を取得したすべての者に対し、政令によってその国籍を剥奪できるようになった[21]。国民議会がペタン元帥にほぼ無制限の権力を付与し、彼をヴィシーの国家元首に就任させてからわずか12日後、この法律に基づき、すべての帰化を調査し、望ましくないとみなされる者から国籍を剥奪する委員会が任命された。

パリでは1940年8月7日、ドイツ大使館が再開された。その長には、すでに1939年以前からフランスで活動し、フランス右翼と緊密な関係を築いていたオットー・アベッツが就任した。彼は、フランスの「人種的浄化」を熱心に推進しようと考えていただけでなく、総統命令に基づき、フランスの占領地域と非占領地域のすべての政治問題に責任を負う立場にあった[22]。アベッツの比較的小規模なスタッフには、親衛隊少佐カール=テオ・ツァイチェルと、ユダヤ人問題担当のエルンスト・アーヘンバッハがいた。最初に、占領地域においても反ユダヤ的措置を検討したのはアベッツであり、軍政当局との会談の中で、さらに文書で「非常に緊急」としてリッベントロップに対しユダヤ人への即時行動を要求した[23]。当初、この4項目から成る要求はベルリンであまり好意的に受け取られなかったように見えたが、最終的に1940年9月27日、占領地域における最初の反ユダヤ的政令につながった。この政令は、ドイツ側の見解におけるユダヤ人の定義を定めたうえで、占領地域から逃れたユダヤ人がそこへ戻ることを禁止し、すべてのユダヤ人の登録、ユダヤ人商店の表示、そしてユダヤ人の身分証明書への「Juive」または「Juif」の記載を義務づけた[24]。


19 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 1. Das „Loi Marchandeau" verbot Presseangriffe gegen eine Gruppe von Menschen, die durch Geburt einer besonderen Rasse oder Religion angehörten", wenn sie Haß gegen diese Bürger oder Bewohner schürten".
20 . Jäckel, Marokko, S. 76. „Loi concernant l'accès aux emplois dans les administrations publiques", in: Journal officiel de la République française (JO), lois et décrets, Nr. 174, 18.7.1940, S. 4537.
21 . Ebenda, S. 77. „Loi relative à la révision des naturalisations, JO, Nr. 179, 23.7.1940, S. 4567.
22 . Hilberg, Vernichtung, S. 423. Ribbentrop an Keitel am 3.8.1940, Nbg. Dok. PS-3614.
23 . Jäckel, Marokko, S. 78: Marrus/Paxton, Vichy France, S. 6.
24 . Marrus/Paxton, Vichy France, ebenda.


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アベッツとそのスタッフに加え、1940年夏以降は治安警察(Sipo)と保安部(SD)も介入した。彼らは最終的に1942年5月以降、ほぼ完全に独立して「ユダヤ人問題」の解決を掌握することになる。まず専門家たちが到着し、その長には親衛隊大佐ヘルムート・クノーヘン(保安部)が就き、ベルリンのゲシュタポから常任代理として親衛隊少佐クルト・リシュカが配属された。IV部門の枠組みで、アイヒマンは1940年晩夏にテオドール・ダネッカーをフランスのゲシュタポ・ユダヤ人課長としてパリに派遣し、彼の後任は1942年9月に親衛隊中尉ハインツ・レートケが務めた。ダネッカーはパリの国家保安本部(RSHA)事務所に熱狂的な反ユダヤ主義者として赴任し、彼と軍政長官オットー(あるいはカール・ハインリヒ・フォン・シュテュルプナゲル)との間でユダヤ人に対する措置を巡る対立がたびたび生じた。SSと警察は1942年5月7日、上級SS・警察指導者カール・オーベルの下で自治権を獲得し、ヒムラーに直接従属することになったため、軍政長官はもはや影響力を行使できなくなった。法律や政令の実施は、もっぱらアイヒマン派の過激な反ユダヤ主義者の手に委ねられた。

しかし当初はペタンが再びユダヤ人への制限措置を講じた。1940年10月3日、最初の「ユダヤ人法(Juden-Statut)」が制定された。これは主に職業制限法であり、ユダヤ人の高級官僚への進路を封じ、その他の公務分野では勇敢勲章の保持者のみを認めた。自由職業も比例配分制に基づきユダヤ人に限定され、報道、映画、演劇、ラジオ分野からは完全に排除された。またこの法はニュルンベルク法に従い、誰がユダヤ人と見なされるかを定めた。驚くべきことに、ヴィシーはこの点で1940年9月27日のドイツの政令よりも厳しく、人種基準を用い、ドイツのように宗教所属では判断しなかった[25]。

さらに1940年10月31日の「ダヒール(Dahir)」により、この「ユダヤ人法」はモロッコにも適用され、チュニジアも1940年11月30日の「ベイ官令(Décret beylical)」で追随した。アルジェリアでは9月にクレミュー勅令が廃止され、アルジェリアのユダヤ人は無国籍となった。これにより迫害措置は北アフリカのフランス領に及んだ[26]。本国フランスでは、1940年10月4日にヴィシーが制定した「外国籍ユダヤ人法」が適用され、対象者は各県知事の決定により特定の収容所に収容され得た[27]。さらに14日後の10月18日、占領地域ではユダヤ人事業所の定義と届出義務、取引の無効化、信託管理者の任命が定められた。これらの措置自体は新しいものではなかったが、ドイツ側は自らの警察力が約3000人しかなかったため、初めて実施をフランス当局に委ねざるを得なかった[28]。


25 . Jäckel, Marokko, S. 56 und S. 86. „Loi portant statut des Juifs", JO, Nr. 266, 18.10.1940, S. 5323.
26 . Für Marokko vgl. Jäckel, Marokko, S. 57, für Tunesien und Algerien vgl. Abitbol, Juifs d'Afrique, S. 63 ff.
27 . Jäckel, Marokko, S. 59.
28 . Hilberg, Vernichtung, S. 429.


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この時期には、アルザスおよびロートリンゲンの大管区指導部が行った10月22日のバーデンおよびザールプファルツでの一斉検挙も含まれており、このとき6,504人[29]が集められ、事前の告知なしに非占領地域のフランスへ追放された。その背後には、旧ドイツ帝国領(Altreich)、オストマルクおよびベーメン・メーレン保護領から、合計27万人のユダヤ人を南フランスへ送るという、まだ初期段階にあった計画があった[30]。この行動はすでに1940年7月16日に開始されており、コルマールでは大管区指導部の決定に従ってアルザス=ロートリンゲンからすべてのユダヤ人を追放する方針のもと、町のユダヤ人を集めて停戦ラインの向こうへ送った。続きは1940年10月に行われ、アルザスだけでも22,000人のユダヤ人がこれらの行動の対象となった[31]。このことはフランスのユダヤ人社会に大きな再編をもたらし、占領地域には16万5,000人(うちパリに14万8,000人)のユダヤ人しか残らず、非占領地域のユダヤ人数は14万5,000人となり、全体のほぼ半数にまで増加した[32]。この展開は、ドイツ側が1940年時点では非占領地域を「ユダヤ人なし」にしようとは考えていなかったことを示しており、不意を突かれたヴィシー政権は、ルクセンブルクやロートリンゲンからのユダヤ人も自国領に追放される事態をもはや受け入れられなくなった。第一の措置として、バーデンおよびザールプファルツからのユダヤ人は、1939年に設置されたギュール収容所に抑留された。他の多くの追放されたユダヤ人も同様の扱いを受け、その結果、1940年末には非占領地域に抑留されていた4万人のうち70%がユダヤ人となった。最終的に、停戦ラインは双方から閉鎖され、ドイツ側はユダヤ人難民を自国領に入れず、反対側も占領地域からのユダヤ人の流入を拒んだ。

新年の初め、ドイツ当局はヴィシー政権と協議を行い、共同でユダヤ人局を設置することを提案した。この局は当初占領地域で活動を始める予定であったが、その後ほぼ専ら非占領地域で活動することになった。ヴィシー政府はこれに同意し、1941年2月に副大統領に就任したフランソワ・ダルラン提督を通じてペタンに局長の人選を委ねた。これは「ドイツから来るすべてのものに対するフランス国民の反発を、この分野では排除する」ためであった[33]。こうして1941年3月29日、国家主義者で反ユダヤ主義者、かつ反ドイツ的思想を持つグザヴィエ・ヴァラが新設されたユダヤ人問題総局の長に就任した。同局は内務省の管轄下に置かれ、二つの任務を負っていた。すなわち、管財人およびユダヤ人組織の活動を監督することと、更なる反ユダヤ法の立案であった[34]。ダネッカーは、


29 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 11. Hilberg (Vernichtung, S. 424) nennt insgesamt 6450.
30 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 11, Bericht über die Verschickung von Juden deutscher Staatsangehörig-keit nach Südfrankreich vom 30.10.1940 (AA: Inland Ilg 189).
31 . Hilberg, Vernichtung, S. 424.
32 . Ebenda. Die Zahlen über die besetzte Zone sind einem Schreiben von Dannecker an Zeitschel vom 20.10.1941 entnommen (Nbg. Dok. NG-3261). Im Februar 1941 lebten laut Bericht von Abetz noch 200000 Juden in Paris, vgl. Klarsfeld, Endlösung Frankreich, Dokument CDJC, V-62.
33 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 14f, Dokument vom 3. Februar 1941 (CDJC-XXVI-13) Besprechung zwischen dem Stab des Militärbefehlshabers, Lischka und Dannecker über die Schaffung eines Judenamtes in Frankreich, dessen Aufgaben die folgenden sein sollten: 1. „Behandlung aller polizeilichen Judenangele-genheiten" (u. a. Judenerfassung und -register), 2. „wirtschaftlicher Kontrolldienst" (Ausschaltung der Juden aus dem Wirtschaftsleben), 3. „antijüdische Propaganda im französischen Volk" und 4. „antijüdisches For-schungsinstitut".
34 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 75 f.; Hilberg, Vernichtung, S. 430.


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この「ユダヤ人事務局」の設立を提案し、その最も重要な任務をユダヤ人の「全面追放」にあると見ていたが、ヴァラの権限はあまりに制限されていると考えていた。さらに、ヴァラは自らの権限の範囲内においてすら十分に強硬な措置をとらないのではないかと危惧した。ダネッカーは「ヴァラとのさらなる会談で明らかになったのは、彼がユダヤ人問題の明確な解決を実行する気など全くないということであった」と述べている[35]。ダネッカーの目的とは対照的に、軍政当局はユダヤ人を経済から排除することにとどまった[36]。

ちょうど同じ頃、1941年5月、ベルギーでも経済の同調化の準備が始まった。主に職業禁止に限られていた1940年10月28日のユダヤ人条例を補足する形で、1941年5月31日には「ユダヤ人企業」という名称による表示義務、不動産および「銀行預金」(外貨銀行への移管を伴う)の申告義務、有価証券の預託義務、さらに1941年7月1日から効力を発するラジオ受信機の没収が導入された[37]。12月からはユダヤ人企業の完全排除が進められた。1941年7月22日にはヴィシーでアーリア化法が可決されたが、これはモロッコやチュニジアでは適用されず、1941年11月21日の法律によってアルジェリアに導入された[38]。すでに1941年6月2日、非占領地域では第2の「ユダヤ人法」(ロワ・ヴァラ)が公布され、これは1940年10月3日のものを置き換え、再び主として職業禁止を含んでいた。第1条では「ユダヤ人」の定義が宗教および人種的基準に基づいてより正確に定められ、今回はフランス国民も含まれた。より詳細な職業禁止リスト(銀行業や不動産取引も含む)が付加され、法律違反は処罰の対象となった[39]。このとき初めて、非占領地域の全てのユダヤ人が反ユダヤ的措置の対象となった。法律違反は最長5年の懲役または強制収容所への収容を招いた。人種基準だけでなく宗教基準も加えられたのは、この法律の起草者ザヴェール・ヴァラによるものであった。非ユダヤ人と認められるのは、1905年12月9日の法律(政教分離)以前に改宗していたことを証明でき、かつユダヤ人の祖父母が2人だけである者に限られた。ユダヤ人の祖父母が3人いれば、その人物はユダヤ人とされ、祖父母が2人しかいなくてもユダヤ人と結婚していれば同様にユダヤ人とされた。この厳格な定義により、ヴァラは占領地域におけるドイツ人の実務さえも上回った[40]。


35 . Jäckel, Marokko, S. 91. Bericht von Dannecker, Die Judenverfolgung in Frankreich, vom 1.7.1941 (Républi-que française, Nr. 1207).
36 . In diesen Bereich gehörten die Verordnungen vom 18. Oktober 1940 mit Zusatz vom 20. Oktober 1940 die 3. Verordnung vom 26. April 1941 mit Zusatz vom 5. Mai 1941 sowie die 4. Verordnung vom 28. Ma 1941 mit Zusatz vom 10. Juni 1941.
37 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 12 (Sonderbericht vom 31.1.1942). Das Verbot über den Besita von Rundfunkgeräten führten die Deutschen mit der Verordnung vom 13.8.1941 in ihrem Verwaltungsbe-reich ein.
38 . Hilberg, Vernichtung, S. 429; Marrus/Paxton, Vichy France, S. 152. Für Nordafrika vgl. Abitbol, Juifs d'Afrique, S. 76 ff.
39 . Jäckel, Marokko, S. 61; Marrus/Paxton, Vichy France, S. 167 f.
40 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 92; Abitbol, Juifs d'Afriques, S. 69.


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モロッコ[41]とチュニジア[42]では、当初は最初の「ユダヤ人法」における定義が維持された。すなわち、イスラム教に改宗した者は非ユダヤ人とされ、自らをイスラエル人と認める者はユダヤ人とされ、その者がユダヤ人の祖父を一人しか持たなくともユダヤ人とみなされた。これに対し、アルジェリアでは、保護領政府が1941年8月23日にヴァラ法の文言を採用した[43]。1941年8月以降、ヴァラの反ユダヤ政策はフランス領北アフリカに広がった。そこで第二の「ユダヤ人法」施行後に有効となった法律は、まず第一に各種職業における一種の「入場制限(numerus clausus)」をもたらした。特に影響を受けたのは司法および医療の分野であった[44]。1941年8月19日の「ダヒール」はモロッコのユダヤ人に深刻な影響を与えた。これは、スルタンのユダヤ人臣民をメラ(ゲットー)に戻すものであった。対象者は、1939年9月11日以前からそこに住んでいたことを証明できない限り、1か月以内にヨーロッパ人地区を離れなければならなかった。例外は、特別な軍事的または民間的功績がある場合にのみ認められた[45]。

北アフリカだけでなく、ベルギーでも1941年8月にはユダヤ人社会にとって重大な措置が講じられた。これはベルギーおよび北フランスにおけるドイツ軍司令官によるものであった。1941年8月29日以降、「ブリュッセル、アントワープ、リエージュおよびシャルルロワ以外の地域への移住は禁止」となった。これらの都市はベルギーにおけるユダヤ人の集結地として指定されたのである[46]。さらにこの命令は、ベルギー全域でユダヤ人に対して午後8時から午前7時までの外出禁止令を導入した[47]。これらの措置は、慣例どおりユダヤ人による闇市活動防止を理由として正当化された。フランス占領地域で同様の外出禁止令が発令されたのは、1942年2月7日の第6号布告であり、これは同時に住所変更禁止も規定していた。ただし、住所変更の届出義務はすでに1941年5月30日から課されていた[48]。

この移動の自由の制限は、最終的には国外移住の可能性をも閉ざすこととなった。1941年半ばまで、ドイツは主として「追放」政策を推進しており、それは占領されていないフランス地域や国外への移送であった。ただし後者については、フランスからの大量移住がドイツ国内のユダヤ人移住の道を塞ぐことになるとの懸念から、あまり積極的ではなかった。1941年10月23日、ベルギーおよびフランスの保安警察・保安部長官に対し「ユダヤ人の移住を即時に禁止する」極秘命令が出され、ユダヤ人の合法的な逃走経路は閉ざされた[49]。これは「最終解決」への準備の始まりであった。


41 . Einführung des 2. Judenstatuts mit dem „Dahir" vom 5.8.1941, das bis zu seiner Aufhebung am 31.3.1943 in Kraft blieb und lediglich durch 14 Ausführungsbestimmungen ergänzt wurde, vgl. Jäckel, Marokko, S. 60 ff.
42 . Tunesien führte das 2. Judenstatut mit dem Dekret „beylical", als Modifikation des Gesetzes vom 30.11.1940, am 26.6.1941 ein, vgl. Abitbol, Juifs d'Afriques, S. 70.
43 . Ebenda, S. 69.
44 . Ebenda, S. 71 ff.
45 . Jäckel, Marokko, S. 66.
46 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 12 (Sonderbericht vom 31.1.1942).
47 . Ebenda.
48 . Encyclopaedia Judaica, vol. 7, S. 33.
49 . Eichmannprozeß, Dok. 1209, RSHA gez. Müller z. Hd. SS.-Brif. Thomas vom 31.10.1941.


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まず、ユダヤ人の生活領域の制限をできるだけ効果的にすることが重要であった。そのためにドイツ当局は、多くが優れた協力者であることを示したフランス人だけでなく、ユダヤ人自身も必要とした。この目的のため、ベルギーでは1941年11月25日に「Vereinigung der Juden in Belgien(Association des Juifs en Belgique)」の設立が命じられた[50]。これはドイツにおけるユダヤ人帝国協会を手本としており、ユダヤ人福祉活動、出国準備(もっともこれはすでに禁止されていた)、そしてユダヤ人学校制度[51]を担う組織であった。フランスでも1941年11月29日に同様のユダヤ人評議会「Union Générale des Israélites de France」が設置され、北部と南部の二つの部門に分けられ、総委員ヴァラに直属した。両部門の本部は1943年2月まで非占領地区に置かれ、会長アルベール・レヴィの下で、すべてのユダヤ人組織は解散され、その資産はユニオンに移管された[52]。総督府アルジェリアはフランスの不可分の一部とみなされていたため、そこでも遅れて1942年3月31日に「Union Générale Israélites d’Algérie」設立法が公布された。しかし実際にユニオンが活動を始めたのは数か月後の1942年9月であった。11月に連合国軍が到着したため、フランス領北アフリカで唯一のユダヤ人評議会であったアルジェリアの評議会は、わずか40日間しか存続しなかった[53]。フランスのユダヤ人評議会がドイツの延長組織として最初に動員されたのは1941年末であった。12月14日、フランスにおけるドイツ軍司令官は、フランスのレジスタンス戦闘員、すなわちドイツ側の言う「犯罪的ユダヤ・ボリシェヴィキ分子」がドイツ軍将兵に対して行ったとされる襲撃への報復措置として、パリのユダヤ人に10億フランの「償い金」を科すことを命じた。12月17日には、この徴収をUnion Générale des Israélites de Franceに委託した[54]。さらに報復措置の一環として、1,000人のユダヤ人の強制収容も命じられた。

ドイツ軍は、北フランス占領後まもなくユダヤ人に対する最初の一斉検挙を開始し、1941年3月には最初の大規模行動を実施した。すなわち、カナル海岸沿いに住んでいたすべてのユダヤ人をヨンヌ県およびオーブ県(北中部フランス)へ移送したのである。1941年5月14日には、帰化したポーランド系ユダヤ人約3600人が逮捕され、1940年に設置されたPithiviers強制収容所および1939/40年の冬にカナダ軍の収容のためフランス人によって設けられたBeaune-la-Rolande収容所に収容された。パリにおける最初のより徹底した一斉検挙は、1941年8月に行われた。ドイツ軍は第11区を二度にわたり捜索し、最終的に占領地帯における第三の、そして最も悪名高い強制収容所であるドランシー(不潔なパリ郊外)に4000人のユダヤ人を収容することができた。1941年12月12日の「償い措置」に基づいて逮捕された1000人は、


50 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 4 (Sonderbericht vom 31.1.1942), und vgl. auch Eichmannpro-zeß, Dok. 362 „Les Crimes de Guerre", S. 19f.
51 . Am 1.12.1941 erging die Verordnung, daß die Errichtung, Unterhaltung und Betreuung der jüdischen Schulen Angelegenheit der Juden selbst sei; vgl. Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 13 (Sonderbe-richt vom 31.1.1942).
52 . Hilberg, Vernichtung, S. 429; Marrus/Paxton, Vichy France, S. 109 ff.
53 . Abitbol, Juifs d'Afriques, S. 94 ff.
54 . Hilberg, Vernichtung, S. 429; Marrus/Paxton, Vichy France, S. 226; Dokument CDJC, LXXV-135, vom 15.12.1941, in: Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 34.


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パリのフランス・ユダヤ人社会の指導的人物734人および知識人(全員フランス国籍保持者)と、パリ周辺の外国人ユダヤ人約300人で構成されていた。彼らはまずコンピエーニュの刑務所に拘禁され、そのうちの一部は1942年3月27日に出発した最初のドランシー発アウシュヴィッツ行きの輸送列車に乗せられた[55]。第三の報復措置として、軍司令官オットー・フォン・シュテュルプナーゲルは最終的に100人の人質射殺を命じた。1941年12月15日、モン=ヴァレリアンで95人が射殺され、そのうち49人がユダヤ人であった[56]。

1942年1月20日のベルリンにおけるヴァンゼー会議の議事録は、ユダヤ人を東方へ「疎開」させるための予定人数を次のように定めた。占領下フランスについては165,000人、非占領地域については700,000人、ベルギーについては43,000人であった[57]。「最終的解決の実施過程において」は、西から東へとヨーロッパをくまなく捜索することになっており、まず保護領ボヘミア・モラヴィアを含む帝国領、それからフランス、ベルギー、オランダの順であった。実際には、フランスがこれら諸国の中で最初に追放の開始を経験した。その他のすべての反ユダヤ的法律は、まず占領地域で、その後非占領地域でも制定され、「東方での労働投入」を容易にするものであった。1942年3月24日のドイツ人による第7次政令は「ユダヤ人」の定義を拡大し、1942年5月29日の第8次政令は、ユダヤ人が公共の場や催し物に出席することを禁止し、買い物の可能時間を1日1時間に制限した[58]。しかし、「ユダヤ人の星」の導入にあたっては、ドイツ人はフランス国民やユダヤ人自身から困難に直面した。星を全く付けないユダヤ人、間違った場所に付けるユダヤ人、追加の文句を書き込むユダヤ人がいたほか、ユダヤ人でない者も星を身に付けたり、類似の印を付けたりした。怒ったドイツ人は、それらのユダヤ人や非ユダヤ人の一部を逮捕し、収容所に送った[59]。これらの経験により、ドイツ当局は、1942年11月、それまでヴィシーが統治していた地域を占領した後も、そこでは「ユダヤ人の星」が導入されていなかったため、この標識を義務づけることを見送った。ちなみに、「黄色いバッジ」の着用義務を拒否したことは、ヴィシー政権がユダヤ人政策におけるドイツ側の提案を初めて拒否した事例であった。

ベルギーでは、1942年5月27日以降、ユダヤ人はすでにユダヤ人星を着用しなければならなかった。そこでもまた、外務省ブリュッセル支部の長ヴェルナー・フォン・バーゲンは、「当地では(この)ユダヤ人問題に対する理解はまだあまり広まっておらず、フランスやオランダからの追放開始が知られることによって、


55 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 226; Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 28 ff.; Reitlinger spricht von 753 Juden, die am 12.12.1941 bei der Razzia festgenommen wurden, und gibt an, weitere 355 seien aus Drancy hinzugekommen, um die geforderte Zahl 1000 zu erfüllen. In Compiègne dann seien 97 gestorben und 15 entlassen worden, ebenda, S. 350.
56 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 32f., namentliche Liste der 49 aus Drancy ausgewählten Juden, die er-schossen wurden. Darunter befanden sich 22 Polen, 11 Russen, 6 Franzosen, 1 Libanese und 9 Personen mit unbestimmter Herkunft, Dokument CDJC, LVII-60.
57 . Nbg. Dok. NG-2586.
58 . Encyclopaedia Judaica, vol. 7, S. 33.
59 . Hilberg, Vernichtung, S. 437. Bekanntmachung in „Pariser Zeitung" vom 26.6.1942, S. 4.


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当地のユダヤ人社会にすでに一定の不安が生じている」と報告していた[60]。この不安は、何千人もの人々がオーディンゲムやその他の場所に強制移送されたことに主に起因していた。1942年3月11日および5月8日の二つの政令に基づき、すべての失業者は収容所に滞在することを義務づけられ、そこでトート機関のために強制労働を行わなければならなかった[61]。これは当然、すでにほとんどすべての職業から追放されていたユダヤ人社会にとりわけ影響を及ぼした。翌月、ベルリンの帝国保安本部で開かれた会議において、ダネッカーとブリュッセルおよびデン・ハーグのユダヤ人問題担当官が出席し、ベルギーから1万人、フランス全土から10万人のユダヤ人を追放することが決定された[62]。対象となるのは「星章着用者(または着用義務のある者)」で、年齢は16歳から45歳まで、かつ「拘禁可能」である者であった。「混血婚」にあるユダヤ人は除外された[63]。この時点でフランスではすでに追放が始まっていた。ダネッカーは、自身の管轄地域において、ヒムラーが6月に承認したフランスおよびベルギーからの大量追放命令の実行にあたり、自らの部署が細心の注意を払って作成した「ユダヤ人カードファイル」を利用することができた。このカードファイルは1940年末以来存在しており、パリの警視総監がダネッカーの命令によって作成したもので、「純粋にアルファベット順、通りごと、職業ごと、国籍ごと」で分類されており、「最終解決のためにさらに達成すべきことのため」にあった[64]。

フランスにおける主要な指導機関の分野では、いくつかの人事異動が行われ、それがまもなく大量追放の実行に役立つことが証明された。非占領地域では、ルイ・ダルキエ・ド・ペルポワが1942年5月にユダヤ人問題担当総弁務官としてヴァラを交代した。彼は長い間反ユダヤ主義的な活動を行っており、ヴィシー政権下では親独的な態度のために部外者のままであった。彼はパリにいることを最も好み、最終的に1943年11月にはビュシーからそこに自らの事務所を移した[65]。彼の「最終解決」への協力にドイツ人は依拠することができた。また、ドイツ人自身の内部でも基本的な人事異動が行われた。オットー・フォン・シュトゥルプナーゲル将軍は、1941年末の人質政策と報復措置に強い懸念を示しており、1942年2月にその結果として辞任した。フランスにおける新しい軍司令官には彼のいとこカール・ハインリヒ・フォン・シュトゥルプナーゲルが就任した。しかし、最も重大な変化は、1942年6月1日以降、上級SS・警察指導者カール・アルブレヒト・オーベルクの任命により、警察活動がもはや軍司令官の指揮下に置かれず、ヒムラーに直接従属するようになったことであった。これにより、少なくとも占領地域ではSSが自由裁量を握ることになった。


60 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 32f. Telegramm vom 9. Juli 1942, Dokument CDJC, CXXVIIa-8.
61 . Hilberg, Vernichtung, S. 419. Verordnung über die Beschäftigung der Juden und die dazu ergangenen Aus-führungsbestimmungen, in: Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 26f. Tätigkeitsbericht Nr. 20 der Militärverwaltung vom 15.6.1942, Dokument CDJC, CDXCVI-6.
62 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 65, Dokument CDJC, XXVI-29.
63 . Ebenda, S. 67, Dokument CDJC, XXVI-33, vom 26.6.1942. Das Dokument CDJC, XXVI-29, vom 15.6.1942 hatte bereits die Altersspanne von 16 bis 40 Jahren festgelegt und besagte weiter, daß 10 Prozent nicht arbeitsfähige Juden mitgeschickt werden könnten.
64 . Eichmannprozeß, Dok. 316, Bericht von Dannecker vom 22.2.1942.
65 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 283 ff.


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ダネッカーが交代させられ(彼はアイヒマンの代理としてブルガリアへと送られ、より重要な任務にあたることになった)、その後1942年7月半ばにSS中尉ハインツ・レートケが後任となったが、ユダヤ人課における継続性は保持された[66]。

ダネッカーの時代のうちに、最初の5本の輸送列車がフランスを出発し、アウシュヴィッツへ向かった。合計5149人の追放者の中にはフランス国籍を持つユダヤ人も含まれており、ダネッカーによればそれは「ユダヤ人に対する贖罪措置」であった[67]。最初の輸送は1942年3月27日にコンピエーニュを出発し、1112人の男性だけで構成されていた。当初、この列車は3等客車のみで構成されていたが(後には貨物車しか使用されなくなった)、本来は1941年12月にすでにアウシュヴィッツへ向かう予定であった。ダネッカーは、半数をドランシーから、もう半数をコンピエーニュから動員した囚人たちをより早く「東方での労働行動」に送ろうと努めたが、輸送手段が不足していたために彼らは3月になってようやく出発することができた[68]。アウシュヴィッツでの最初の5か月間に、これらの男性の91パーセント以上が死亡し、生還できたのはわずか22人であり、彼らが1945年に帰還した[69]。最初の輸送の後、1942年5月12日には大パリ地区の司令部が陸軍総司令部の命令を受け、以後の追放命令には「東方へ」という言葉を使用してはならないとされた。これは、占領下の東方地域の名誉を傷つけるのを避けるためであった。同様に、「追放」という語も使用が禁止された。なぜなら、それはツァーリ時代からシベリアへの追放を連想させるものであったからである[70]。その後、1942年6月5日の第2回輸送(1000人)から始まった大規模追放に際しては、代わりに「強制労働への派遣」という表現が用いられた[71]。1942年6月22日の第3回輸送では、初めて女性も対象となり、すべて42歳未満で、大部分はパリ地区からであった[72]。

さらなる追放を円滑に実行するため、クロッヘンはヴィシーに赴いた。非占領地域から5万人のユダヤ人を移送する予定であった。クロッヘンは、フランスに居住するすべてのユダヤ人の男女と子供を、フランス国籍と外国籍を区別することなく追放するという帝国政府の決定を伝えた。1942年4月に内閣に復帰し、政府の指導を引き継いだフランス政府首班ラヴァルは、このような措置を決断できなかった。しかし、その後オーベルクが、フランス警察が協力する場合には、逮捕を当面無国籍ユダヤ人に限定するという妥協案を提示した結果、


66 . Ebenda, S. 218 f.
67 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 86, Dokument CDJC, XXVb-36, vom 9.7.1942, gez. Dannecker. Bei den Transportzügen handelte es sich um folgende: 27.3.1942, 5, 22, 25. und 28. Juni 1942. Zahlen vgl. Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.). Fraglich bleibt hier die Zahl vom 25.6.1942, da das Diensttelegramm an Eichmann den Abgang des Transportes mit 1000 Juden meldet, aus der deutschen Liste entsprechend der Nationalitäten aber 999 zu entnehmen sind, ebenda, S. 61.
68 . Zahlreiche Dokumente nehmen auf diesen ersten Transport Bezug, und zwar solche aus dem Judenreferat der Gestapo (Dannecker), der Leitung der SiPo-SD (Lischka), der Polizei des Militärbefehlshabers (Emst), des Referats IV B 4 in Berlin (Eichmann, Günther, Nowak), der deutschen Botschaft in Paris (Zeitschel, Schleier) und des Auswärtigen Amtes in Berlin (Luther, Rademacher), vgl. Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 31 ff.
69 . Ebenda, S. 46.
70 . Ebenda, S. 48 f.
71 . Ebenda.
72 . Ebenda, S. 50.


120

ラヴァルは1942年7月4日に両ゾーンからの外国籍ユダヤ人の追放に同意した[73]。ラヴァルが同意したのは、フランス国民をそのことによって救えると誤って信じていたからであった。当初はそれが成り立ったが、ドイツが非占領地域でも権力を掌握すると、もはや例外は設けられなくなった。しかし、この妥協はフランス人ユダヤ人に一時的な免疫を約束する一方で、ドイツの追放戦略に深刻な支障をもたらした。例えば、1942年7月15日に予定されていたボルドー発の輸送列車は、市内でわずか150人の無国籍ユダヤ人しか捕らえることができなかったため、中止されざるを得なかった[74]。アイヒマンは、7月14日にロートケとの電話会談で、この中止に対する不満を表明した。彼はこの件を非常に「みっともない」と評し、「フランスを追放地として全面的に見捨てるかどうか考えざるを得ない」と述べた。これに対しロートケは強く反論し、「他の列車は計画通り出発する」と保証した[75]。実際、次の輸送(第6便)は1942年7月17日にピティヴィエ収容所から928人を乗せてアウシュヴィッツへ出発した[76]。

さらなる停滞を避けるため、1942年7月16日と17日にパリで大規模な一斉検挙が組織された。約2万5000人の逮捕が見込まれており、彼らはまず自転車競技場ヴェロドローム・ディヴェールに収容され、そこからさらに移送される予定であった[77]。ところがロートケは、相当数の無国籍ユダヤ人が事前にこの行動を知って隠れてしまったと報告せざるをえなかった[78]。そのため、ドイツ側が逮捕できたのは1万2884人の男女と子供にとどまった。作戦の最中、逮捕された男女6000人(独身者または子供のいない夫婦)は収容所ドランシーに移送され、残りはまずヴェロドローム・ディヴェールに留め置かれた[79]。この一斉検挙の結果にドイツ側は満足せず、その後は女性と子供も体系的に強制移送され、逮捕者の年齢や健康状態による制限はすべて撤廃された。1942年7月19日(第7次輸送)以降、ドランシーの6000人の囚人がアウシュヴィッツ行きの輸送列車を満たした。しかし7月29日までにこの供給源は尽き、新たな手段を早急に見つける必要に迫られた[80]。そこでダルキエの同意を得て、7月16日と17日に逮捕された親たちを強制移送し、その子供たちは当面ピティヴィエとボーヌ=ラ=ロランドに放置し、アイヒマンが子供の強制移送をも承認するまでそのままにしておくことが決定された。親は13歳未満の子供から引き離され、


73 . Hilberg, Vernichtung, S. 439; Marrus/Paxton, Vichy France, S. 256.
74 . Hilberg, Vernichtung, S. 440.
75 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 90, Dokument CDJC, XLIX-67, Vermerk vom 15.7.1942.
76 . 809 Männer und 119 Frauen, von denen 1945 noch 45 am Leben gewesen sein sollen, vgl. Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 67.
77 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 88, Dokument CDJC, XXVB-60, Vermerk vorm 11.7.1942.
78 . Ebenda, S. 91, Dokument CDJC, XLIX-67, Vermerk vom 18.7.1942.
79 . Ebenda. Es wurden 3031 Männer, 5802 Frauen und 4051 Kinder festgenommen, vgl. dazu auch ebenda, Dokument CDJC, XXVb-80, vom 18.7.1942.
80 . Transporte Nr. 7 (19.7.), Nr. 8 (20.7.), Nr. 9 (22.7.), Nr. 10 (24.7.), Nr. 11 (27.7.) und Nr. 12 (29.7.). Insgesamt wurden 5820 Personen mit diesen Transporten deportiert, vgl. Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.).


121

16歳までの少年少女と一緒に、第13次輸送(7月31日)、第14次輸送(8月3日)、第15次輸送(8月5日)、第16次輸送(8月7日)で強制移送された[81]。

中間的な総括として、合計12,884人の逮捕者のうち9,986人がアウシュヴィッツへと移送され、4,000人の子供たちはなおフランスの収容所に留め置かれていた。これらの子供たちを9,986人に加えると、合計13,986人となり、逮捕者数を約1,000人上回る。この差異は、大規模な一斉検挙ではなく小規模な行動で逮捕され、輸送隊7号から16号に追加されたユダヤ人によって説明できる[82]。

8月13日、ベルリンの親衛隊全国指導者は、パリのSipo-SDのBdSに対して、「PithiviersおよびBeaune-la-Rolandeの収容所に収容されているユダヤ人の子供たちは、順次アウシュヴィッツ行きの予定輸送に振り分けることができる」と伝えた[83]。

輸送隊17号(8月10日)と18号(8月12日)によって、非占領地域から最初のユダヤ人がアウシュヴィッツへ送られた[84]。19号輸送(8月14日)では、初めて16歳未満の子供たち(100人以上)が含まれていた[85]。20号(8月17日)、21号(8月19日)、22号(8月21日)、23号(8月24日)の輸送は、それぞれ約半数が子供であり、合計で約1,945人であった[86]。次の輸送(24号)は8月26日にドランシーを出発した。そこにも7月16日・17日の検挙で逮捕された子供400人が含まれていた。さらに、アウシュヴィッツに到着する前にコーゼルで、初めて労働可能な男性の選別が行われた。彼らはブレッハンマー、ヨハニスドルフ、コハノヴィッツ、オーダーベルク、ゴゴリン、オットムートといった収容所に労働のため送られた。この区分に属した生存者は1944年末にドイツ側によってブレッハンマーに集められ、アウシュヴィッツに移送され登録された。その多くは1944年3月から1945年5月の間に命を落とした。1942年末までの輸送で、一部の男性をすでにコーゼルで降ろしていた場合には、全員を直接アウシュヴィッツに送った場合に比べて、生存者の割合が高かった[87]。1945年には、輸送隊1号から23号の合計から約347人の生存者が数えられ、輸送隊24号から39号(1942年9月30日)からは約381人が生き残った[88]。その後の輸送隊40号(1942年11月4日)は、もはや選別を行わなかったため、生存者はわずか4人にすぎなかった[89]。1942年10月には移送は行われず、最後の輸送は9月30日の39号であった。この輸送は予定された1,000人の代わりに


81 . Insgesamt 4166 Personen nach Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), und 4181 laut Klarsfeld, Endlösung Frankreich. Da der ersten Zahl genauere Recherchen zugrunde liegen, kommt sie wohl der tatsächlichen Höhe am nächsten.
82 . Vgl. die einzelnen Listen bei Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.).
83 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 112, Dokument CDJC, XXVB-126, Geheimer Brief an SiPo-SD Paris vom 13.8.1942.
84 . Transport Nr. 17- 1006 Personen, davon 1000 Juden aus dem Lager Gurs, und Transport Nr. 18 – 1007 Personen, darunter 585 Häftlinge aus Gurs und weitere 422 aus anderen Lagern der unbesetzten Zone, die Vichy den deutschen Behörden ausgeliefert hatte, vgl. Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 104 ff.
85 . Insgesamt 1015 Personen wurden deportiert, ebenda, S. 110.
86 . Vgl. ebenda, S. 115. Diese vier Transporte deportierten insgesamt 4007 Juden, darunter neben den Kindern auch viele aus der besetzten Zone, ebenda, S. 129 ff.
87 . Ebenda, S. 158.
88 . Ebenda, S. 154 ff. Insgesamt wurden mit diesen Transporten etwa 15 145 Juden deportiert.
89 . Ebenda, S. 212.


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わずか211人のユダヤ人をアウシュヴィッツに送ったにすぎなかったが、「政治的および威信上の理由」から実施された[90]。予定されていた輸送計画は、ヴィシー政権が予想された規模で協力しなかったために実現できなかった。ヴィシー政権は、8月26日から28日にかけて非占領地域で最大規模の一斉検挙を行い、ブルガリアを除けば唯一、ドイツ軍が直接的に占領していない地域からユダヤ人をナチ当局に引き渡したヨーロッパの国となったが、その後抵抗が生じ始めたのである。

1942年11月初め、連合軍がモロッコとアルジェリアに上陸したことによって情勢は一層緊迫した。その対抗措置として、ドイツ軍はヴィシー・フランスと保護領チュニジアを占領した[91]。同時にイタリアの同盟軍はローヌ川以東の8県、すなわちドローム県、イゼール県、オート=アルプ県、バス=アルプ県、アルプ=マリティーム県、サヴォワ県、オート=サヴォワ県およびヴァール県を占領した。新たに広大な地域がドイツ軍およびそのイタリア人同盟者の支配下に入ったにもかかわらず、それはより多くの移送数にはつながらなかった。すでにフランス北部で明らかとなっていた人員不足が、追加された地域においてはほとんど克服不可能な行き詰まりを引き起こした。さらに深刻な困難をもたらしたのは、イタリア側の姿勢であった。彼らはドイツの絶滅計画に加わるつもりがなかったのである。ムッソリーニは反ユダヤ主義を自らの綱領の中心的要素とみなしたことはなく、「ユダヤ人問題」に対してもむしろ無関心であった。そのような態度の影響は、すでにヴィシー政権がチュニジアで「アーリア化」を実施しようと試みた際に明らかになっていた。約5000人のイタリア人企業家がその影響を受けるはずだったため、当時イタリア政府は激しく抗議したのである。その結果、フランスの反ユダヤ的な計画はチュニジアではモロッコやアルジェリアに比べて影響力が小さくなった[92]。ドイツ人もまたチュニジア占領後、望んだようには迫害を実行できなかった。地理的な理由から彼らの行動範囲はかなり制限されていたのである。さらに、連合軍がモロッコやアルジェリアからすぐに攻撃を開始する恐れもあった。SSと警察は行動部隊を派遣し、まずユダヤ人共同体の指導者を逮捕した。その直後、ローマに駐在しチュニジアの軍事地域を管轄していた南方総司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥は、防御施設の建設にユダヤ人労働力を徴用するよう命じた。こうして共同体指導者は再び釈放され、労働者を選別し、ユダヤ人共同体が労働用具と男子の生活維持を負担するよう取り計らわなければならなくなった[93]。しかし、イタリア政府の抗議により、この行動からイタリア国籍のユダヤ人は除外された。チュニジアにおいてドイツ人は、この強制労働計画以上のことを実現することはできなかった[94]。モロッコとアルジェリアでも強制移送は行われなかったが、多くのユダヤ人が労働収容所に収容され、そこでは部分的に悲惨な状態が支配していた[95]。


90 . Ebenda, Dokument CDJC, XXVc-182.
91 . Hilberg, Vernichtung, S. 445.
92 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 316.
93 . Hilberg, Vernichtung, S. 446.
94 . Ebenda.
95 . Vgl. Jäckel, Marokko, S. 99 und S. 114, und Abitbol, Juifs d'Afriques, S. 137 ff.


123

チュニジアにおいてドイツ人は略奪にとどまり、ジュルバ島ではユダヤ人共同体が50キログラムの金の納付を強いられ、また労働力を搾取されるに過ぎなかった一方で、新たに再占領されたフランスの地域ではより多くを達成できると期待されていた[96]。しかし、最初の措置である1942年12月11日の身分証および食糧配給証の識別マーク義務の導入は、イタリア側の地域では拒否された。ベルリンの関係当局に対してイタリア人の協力姿勢の欠如に関する苦情が寄せられたとしても[97]、1943年2月18日の外国人ユダヤ人全員の逮捕およびdeportationを命じた命令をイタリア政府が再び実行することは阻止できなかった[98]。ロートケの推計によれば、1943年夏にはイタリア占領区に約5万人のユダヤ人が住んでおり、彼らはすべてイタリア政府の全面的保護下にあり、ユダヤ人支援団体によって支援されていた[99]。多くのユダヤ人はニースに避難しており、そこはイタリア人の好意的な目の下でフランスにおける政治的・文化的ユダヤ人の中心地となっていた。ムッソリーニが1943年7月に権力を失った後も、当初は変化はなかった。1943年春からイタリア政府によって任命されていたユダヤ人担当官、総監察官グイド・ロスピノーソは、バドリオ元帥への政権交代の機会さえ利用してドイツ人に対する抵抗を強化した。しかし1943年8月にイタリア軍が占領地域から撤退を開始した。1943年9月8日のイタリアの連合国との休戦は、フランスのイタリア占領地域からユダヤ人をevakuationする試みをすべて挫折させた。数百人のユダヤ人がイタリアに逃れることに成功したものの、他の者は住民にかくまわれ、しかし大多数はドイツ人の手に渡り、東方の絶滅収容所で命を落とした[100]。

1942年、フランス人ユダヤ人のスムーズな追放を妨げる主な障害は、イタリア人の協力姿勢の欠如だけでなく、すでに1942年10月にはヴィシー政権の消極的態度も明らかになっていた。この状況はドイツによる占領後も変わらなかった。追放はフランス警察の協力なしには実行できず、警察は引き続きフランス国籍のユダヤ人を引き渡すことを拒んだ。そのため、1942年最後の3本の輸送列車はすべて占領地区のユダヤ人で構成された。主に1060人のギリシャ系ユダヤ人は、1942年11月5日と7日にセーヌ県および地方で行われたラツィア(強制捜索)で逮捕され、さらに地方で行われたラツィアで1745人のユダヤ人が拘束された[101]。輸送列車第42号(第41号は存在しない)[102]は、1000人のユダヤ人を乗せて1942年11月6日にドランシーを出発しアウシュヴィッツへ追放された。11月9日には、


96 . Hilberg, Vernichtung, S. 446.
97 . So etwa bei Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 170, Dokument XXVa-261 vom 4.2.1943, und ebenda, Dokument 1-38 vom 12.2.1943.
98 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 317. Röthke zählt in einem Bericht vom 6.3.1943 sieben Maßnahmen auf, denen die Italiener ihre Zustimmung verweigerten, IfZ, Dokument RF 1230.
99 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 318; Reitlinger, Endlösung, S. 366.
100 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 319 ff.
101 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 212 und S. 220 ff.
102 . Ebenda, S. 216. Die Liste des Transports Nr. 41 ist identisch mit jener von Transport Nr. 40, also handelte es sich um einen Irrtum.


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第44号輸送列車(第43号は存在しない)[103]に約750~800人のギリシャ系ユダヤ人が乗せられ、輸送総数は約1000人となった。第45号輸送列車では、11月11日に745人の追放者の中に残りのギリシャ人が含まれて送られた[104]。その後、1943年2月9日まで追放は行われなかったが、これも再び追放可能なユダヤ人の不足が原因であった。

これにより、フランスにおける追放史の最初の年についての結論を導くことができる。基礎となるのは、セルジュ・クラルスフェルドが使用したオリジナルの名簿であり、各輸送には2部ずつ渡され、1部はドランシー収容所に、もう1部は「Union Générale des Israélites de France」に提出された[105]。これらのリストのうち69部の写しは、パリの「Centre de Documentation Juive Contemporaine」に保管されている[106]。クラルスフェルドが最初に提出した『フランスにおけるユダヤ人問題の最終解決』[107]で示された個別の追放人数を合計すると、1942年の人数は42,129人となる。彼が1978年に発表した『Le Mémorial de la Déportation des Juifs de France』[108]では、各リストの詳細な確認により以前の数字といくつか異なり、1942年に行われた45本の輸送の人数は42,019人となる。ただし、クラルスフェルド自身も、名簿の名前を合計する際に男性・女性別の集計と異なる結果を出すことがあり、どの結果を最終的に輸送全体の総数として採用したかを正確には明示していない。このため、ここで示した42,019という数字は常に最も低い数を採用したものである。アダム・ルトコフスキは1970年に『Le Monde Juif』[109]で自身の計算結果を示したが、「アウシュヴィッツ・カレンダー」[110]というアウシュヴィッツ博物館が作成した資料を基にしていた。しかしクラルスフェルドは、その多くの記載が誤っていることを立証している[111]。ルトコフスキの1942年の合計は38,900人となる。より正確な人数を把握するために、ここではドイツ側が作成した「コルヘア報告書」も参照する[112]。親衛隊全国指導者直属の「統計監査官」コルヘアによる報告では、フランス(1942年11月10日以前に占領された範囲)における「避難者」の人数は41,911人とされている[113]。これにより、クラルスフェルドの数字、特に1978年の出版物に基づく数字は、ドイツ側の結果とほぼ一致していることが分かる。したがって、1942年における追放者はおよそ42,000人と確定できる。

1942年12月、クノッヘンはアイヒマンに電報を送り、追放(デポルタシオン)が2月中旬に再開される予定であること、


103 . Ebenda, S. 220. Die Liste des Transports Nr. 43 ist ein Duplikat von jener von Transport Nr. 45.
104 . Ebenda, S. 233 ff.
105 . Ebenda, S. 12 ff.
106 . Eine Zusammenstellung der Deportationen befindet sich im Anhang 1.
107 . Deutsche Fassung, Paris 1977.
108 . Vgl. Anm. 1.
109 . Vgl. Anm. 1.
110 . Veröffentlicht in den Heften von Auschwitz (Zeszyty Oswiecimski): Danuta Czech, Kalendarium der Er-eignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau, 1959 ff.; jetzt auch bei Rowohlt (Reinbek 1989) mit
einem Vorwort von Walter Laqueur.
111 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 19 ff.
112 . Wellers, „Endlösung" und Korherr-Bericht, S. 23.
113 . Ebenda, S. 27.


125

しかし、対象となるユダヤ人の正確な人数はまだ示せないことを伝えた[114]。1943年1月25日、アイヒマンの代理ロルフ・ギュンターは、帝国交通省がドランシーからアウシュヴィッツへの1500~2000名のユダヤ人輸送用貨車を用意したことを公表した。また、4日前にクノッヘンから出されたフランス人の追放に関する質問に対して、フランスからのユダヤ人の輸送がユダヤ人の疎開方針に沿っている限り、異議はないと回答した[115]。しかし、ペタンは依然としてフランス国籍のユダヤ人を輸送する試みに抵抗した。そのため、1943年の最初の輸送(第46便、2月9日)は無国籍ユダヤ人のみでドランシーを出発し、2月11日の輸送(第47便)も同様であった[116]。次の2月13日の輸送(第48便)では、刑事事件を起こしたフランス国籍のユダヤ人も対象とされた。ヴィシーからは、ドランシーに収容されているこれらのフランス国籍ユダヤ人の輸送に反対はないが、フランス警察は協力できないという連絡があった[117]。この明確な拒否は、政治状況の変化によるものである。スターリングラードでの敗北によりドイツは脆弱性を示し、ヴィシーはより慎重になったのである。第49便のアウシュヴィッツへの輸送が行われた後、次の4便の輸送の目的地は当初やや不明確であった。3月4日(第50便)および6日(第51便)の輸送は、ドランシーからコルムへ送られ、ドイツ将校に対する襲撃の報復措置であったが、クラルスフェルドは、これら2便の合計2000名のユダヤ人はアウシュヴィッツではなく、マイダネクおよび/またはソビボルに送られたことを指摘している[118]。3月23日の輸送(第52便)は、「タイガー作戦」の一環として1月22日、23日、24日にマルセイユで逮捕された780名のユダヤ人を対象とした[119]。この994名のうち570名がフランス国籍を有していた。目的地としてコルムが指定されたが、3月25日の輸送(第53便)と同様に、実際にはソビボル絶滅収容所に送られた[120]。この後、ほぼ3か月間、追放は中断された。ドイツは予定された人数を達成するために行動を起こす必要があった。1943年6月11日、ドイツ当局は1927年8月10日以降に取得した国籍を取り消す法案を提出した。ラヴァルは署名を拒否したが、帰化者の確認には同意した。1943年9月には、1927年8月から1940年までに23,648名のユダヤ人がフランス国籍を取得したことが報告され(うち10,000件は確認が必要であった)[121]、7月16日にはリシュカが、基準日以降に帰化した全ユダヤ人を逮捕すべきと発表した[122]。これにより、フランス国籍はもはや保護を提供せず、


114 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 233, Dokument CDJC, XXVI-69.
115 . Ebenda, Dokument CDJ, XXVI-70.
116 . Mit Nr. 46 kamen 1000 Juden nach Auschwitz, ebenda, S. 234. Mit Nr. 47 wurden 998 Juden dorthin de-portiert, ebenda, S. 238.
117 . Ebenda, S. 237, Dokument CDJC, XXVc-204. Transport Nr. 48 deportierte insgesamt 1000 Juden.
118 . Ebenda, S. 255 ff.
119 . Ebenda, S. 261 ff.
120 . Ebenda, S. 265; Rutkowski, Déportations des Juifs, S. 46. Transport Nr. 53 deportierte 1000 Juden.
121 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 328 f.
122 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 205, Dokument CDJC, XXVII-126, vom 16.7.1943.


126

その他の制限も無視されることとなった。ヴィシー政府が保護しようとしたすべてのグループ—旧捕虜、フランス軍の外国人志願兵、ユニオン・ジェネラル・デ・イスラエリットのメンバー—が追放対象に含まれることとなった[123]。ただし、混合結婚のユダヤ人とその子どもは引き続き除外された。1943年7月、アロイス・ブルンナーがドランシー収容所の管理を引き継ぎ、これまでフランス管理下にあったすべての収容所と同様に、ヴィシー政府の最後の影響力も失われ、追放リストの構成に関する介入が不可能となった[124]。

以降、追放は定期的に月2~3回中断なく、連合軍の1944年8月の侵攻まで実施されることとなった。しかし、カール・ハインリヒ・フォン・シュトゥルプナゲル将軍は1943年7月、軍の協力を完全に拒否した。これにより、レーシェケは自らの部下と、ジョセフ・ダルナンが指揮するフランスの民兵(退役軍人連隊内に組織され、強い反ユダヤ主義的傾向を持っていた)および反ユダヤ警察に頼るほかなくなった。この体制の下、フランスでは1943年6月23日から(第55便)、合計約9052名を乗せた9便の輸送列車が出発した[125]。1944年、最初の輸送(第66便)では1月20日に1147名のユダヤ人がアウシュヴィッツへ追放された[126]。その後、2月と3月には4便の輸送で合計5240名が追放された[127]。第71便(1944年4月13日)では、輸送された1500名の中に、リヨンのゲシュタポ長官クラウス・バルビーの命令で4月6日にイジュー=エンの子どもホームIzieu-Ainから教師と共に逮捕された41名の子どもも含まれていた[128]。ドイツ側が次第に攻勢を強め、子ども・高齢者施設や刑務所、労働収容所、居住地域での捜索を行う中、フランスの諸組織の助けを得て潜伏したり、国境を越えて逃亡するユダヤ人も増加した[129]。このため、ドイツ側は1944年4月にさらに厳しい措置を講じ、潜伏または偽装しているユダヤ人に関する情報提供に報奨金を設定した。また、1940年7月以降に混合結婚を行ったユダヤ人も対象に含められた[130]。同年4月29日には第72便がアウシュヴィッツへ出発し、1004名のユダヤ人が追放された[131]。次の輸送(第73便、1944年5月15日)では、証言によれば878名の男性がリトアニアのコヴノまたはエストニアのレヴァルに送られた[132]。その後、5月20日・30日、6月30日、7月31日の4便は再びアウシュヴィッツへ送られた[133]。1944年8月11日には、リヨンからアウシュヴィッツ行きの列車が出発した。この列車には、イングランド人用の車両(目的地ヴィテル)、レジスタンス戦闘員用の車両(シュトゥットホーフ)、女性レジスタンス用の車両(ラーフェンスブリュック)、


123 . Marrus/Paxton, Vichy France, S. 330.
124 . Ebenda.
125 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 267 ff. Transport Nr. 54 entfiel, vgl. ebenda.
126 . Ebenda, S. 284 f.
127 . Ebenda, S. 285 f.
128 . Ebenda, S. 294 ff., und Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 223, Dokument CDJC, VII-10 vom 6.4.1944.
129 . Hilberg, Vernichtung, S. 453.
130 . Klarsfeld, Endlösung Frankreich, S. 225 f., Dokument CDJC, CDXXXIV-10, Merkblatt vom 14.4.1944.
131 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt.), S. 297 f.
132 . Ebenda, S. 298 ff.
133 . Ebenda, S. 303 ff. Insgesamt ca. 4654 Deportierte.


127

およそ12両の車両に約312名のユダヤ人が含まれていた[134]。第79便(1944年8月17日)は最終的に51名の追放者をブーヘンヴァルトに送る予定であったが、そのうち約3分の1はサン=カンタン付近で逃亡した[135]。さらに1944年7月30日には約166名のユダヤ人が再びブーヘンヴァルトに送られた[136]。ここに加えるべきは、フランスからベルギー経由で追放された少なくとも1000名のユダヤ人、および個別に追放された数えられないユダヤ人、さらに個別に絶滅収容所へ送られた推定不能なユダヤ人レジスタンス戦闘員である。

1978年の出版物におけるクラスフェルドの集計によれば、フランスから追放されたユダヤ人の総数は合計73,853名で、そのうち約69,000名がアウシュヴィッツ、2,000名がマイダネクまたはソビボル、2,000名がソビボル、1,000名がコヴノに送られた。個別の追放過程の記述との違いや1983年の英語翻訳を考慮すると、付録で算出される数は73,743名となる。なお、クラスフェルドの「フランスにおける最終解決」文書集からの数値はやや多く、73,795名であった。これに加えて、これまで含まれていなかった約815名のベルギー経由で追放されたユダヤ人、少なくとも400名の戦争捕虜のユダヤ人妻(5月2日および7月21日にベルゲン=ベルゼンへ追放)、さらに約423名が1944年7月30日および8月22日にアウシュヴィッツまたはブーヘンヴァルトに送られ、少なくとも130名が2便の「アーリア人輸送」によりアウシュヴィッツへ送られた。さらに約100名の個別追放者を加えると、ユダヤ人の最小総数は75,611名に達する。

死亡者数には、抑留収容所で死亡した推定2,000~3,000名のユダヤ人、およびフランスで裁判なしに射殺または殴殺された約1,100名も含まれる[137]。総数78,711名または79,711名から2,577名の生存者を差し引くと、76,134名が殺害されたことになる。そのうち3分の1がフランス人で、3分の2が無国籍のユダヤ人であり、ポーランド人約14,459名、ドイツ人6,222名、オーストリア人2,217名、ルーマニア人約3,000名を含む[138]。追放者のほぼ4分の3は18歳から59歳で、13歳から18歳の青年が4,000名、13歳未満の子どもが6,000名以上であった[139]。ほとんどのユダヤ人はドランシーから送られた。ここでは国籍がかなり正確に把握されており、総計67,488名の記録からフランス系ユダヤ人の数を算出できる。出自によるフランス系ユダヤ人は14,469名、帰化フランス人7,724名、保護対象が156名、フランス国籍者が342名で、合計少なくとも22,691名となる[140]。

総追放者数をより正確に算出するため、ここでは他の出版物からの比較数値も挙げる。最も少ないのはライトリンガーで、最大数を65,000名と推定している[141]。一方、


134 . Ebenda, S. 320.
135 . Ebenda, S. 321.
136 . Ebenda, S. 324.
137 . Ebenda, S. 328 ff.
138 . Vgl. die Nationalitätenliste im Anhang.
139 . Klarsfeld, Le Mémorial France (dt), S. 8, Statistik; Hilberg, Vernichtung, S. 454.
140 . Vgl. im Anhang II.
141 . Reitlinger, Endlösung, S. 563 f.


128

ルトコフスキは73,340名、シュタインベルクは74,749名と計算している[142]。ルトコフスキの数字はアウシュヴィッツへの追放に限定されているが、しかし彼はクラスフェルドによって明確にソビボルおよび/またはマイダネク行きと特定されている1943年3月4日と6日の出発をアウシュヴィッツ行きに含めている。クラスフェルドが自身の二つの出版物で約73,790名の追放者[143]に達しているのに対し、ルトコフスキやシュタインベルクには欠けている輸送があるか、あるいは異なるものが挙げられている。しかしそれぞれの追放者数を比較すると、これらの差異は最終的には相殺されることが分かる。付録に「クラスフェルドII」として示された結果については、1942年の総括においてすでに示唆された、各追放リストの合計、ドイツ側の出発数(多くは1000名)、およびクラスフェルドによる男女別の数値区分の間にある不一致について再度指摘しておかなければならない。この場合、付録のリストでは常に最小数を基準としている。

最後に「コルヘア報告」にも触れておくべきである。これは1943年3月31日までに「疎開されたユダヤ人49,906名」を報告している。これに1943年4月以降に追放されたユダヤ人の数を加えると、総数は73,730名となる。ここでおよそ73,800名と見積もると、クラスフェルドが特定した約1,870名の追放ユダヤ人、すなわちベルギーから、または他の輸送の一員としてアウシュヴィッツ、ベルゲン=ベルゼン、ブーヘンヴァルトに送られた者を加える必要がある。これにより絶対最小人数は75,670人となる。約2,570名の生存者を差し引くと、フランスからのユダヤ人犠牲者は総計73,100名となる。他国とは異なり、フランスではおよそ1940年に算出されたユダヤ人人口比率と解放後の比率を比較する方法は役に立たない。なぜなら、国勢調査の結果は宗教別に分類されなかったからである。さらに、1933年以降のフランスへのユダヤ人大量移民の数字も推計に基づくものである。したがって、1946年4月に「英米委員会」が発表したユダヤ人損失14万人という数字は極めて不正確である。また、1947年1月に「アメリカ合同配給委員会」が発表した、フランスに住む30万人のユダヤ人のうち19万5千人が戦争を生き延びた、すなわち犠牲は10万5千人であるという数字も同様である[144]。これらの数字は推測に過ぎず、とくにドイツのSipo-SDでさえ、フランス国内の30万人のユダヤ人を特定したことは一度もなかったのである。

ベルギーにおいても同様の問題がある。そこでも宗教別の統計的記録は存在しなかった。ベルギーのユダヤ人は社会に完全に統合されており、移民も歓迎されていた。そのため、戦前と解放後の数字を比較することは不可能である。フランスの場合と同様に、ベルギーにおける追放の記録もほぼ整備されている。ベルギー保健省は1954年に、さらに1971年に改訂版として、ベルギーのマレン収容所から追放されたユダヤ人およびジプシー(シンティとロマ、


142 . Vgl. im Anhang I.
143 . Vgl. im Anhang I.
144 . Reitlinger, Endlösung, S. 563.


128

1942年8月3日~1944年7月31日)のアルファベット順リストを発表した。それにはユダヤ人25,124名とジプシー351名の氏名が含まれている[145]。この3,000ページ以上の資料を、セルジュ・クラルスフェルトとマキシム・シュタインベルグが1982年により小規模な書籍にまとめ、「Mémorial de la Déportation des Juifs de Belgique」として出版した。この出版物はここでは、各追放列車の経路を追跡し、ベルギーからのユダヤ人犠牲者数を概算する基礎として用いられる。

ベルギーの民政当局長であるエッガート・レーダーは、1942年3月には「ユダヤ人星」の導入を拒否していた[146]が、1942年5月27日にはそれが実施され、ユダヤ人外国人や難民を引き渡すことについても異議を唱えなかった。そのため、ベルギーは占領された西ヨーロッパ諸国の中で、難民が最初に追放された国となった。すでに1941年12月5日には、帰国を口実としてアントワープからポーランド系ユダヤ人83家族がポーランドへ送られている。フランスの場合と同様に、ここでもまずポーランド出身の人々が対象となった。さらに多くの人数が1942年2月と3月に追放された。囚人たちは当初ウッチ(当時「リッツマンシュタット」)の繊維産業で強制労働に従事させられたが、その後は1942年8月4日以降にベルギーから直接アウシュヴィッツへ送られたユダヤ人と同じ運命をたどった[147]。これらの追放を主導したのはアドルフ・アイヒマンである。彼は1942年6月22日付の迅速電報で、外務省に対し、7月中旬または8月初旬に「1列車あたり1,000名の特別列車」によるアウシュヴィッツへの労働投入を通知した。ベルギーからは当初、1万人のユダヤ人を送る予定であった[148]。1942年7月9日付、ブリュッセルのファルケンハウゼン将軍付の外務省代表ヴェルナー・フォン・バルゲンの電報によると、ベルギーでもまずポーランド系、チェコ系、ロシア系、無国籍ユダヤ人が選ばれ、ベルギー国籍の者は当面保護された[149]。フランス同様、追放の収容拠点として強制収容所が設置された。これはブリュッセルとアントワープの中間にある小さな村マレンに、1942年7月27日に開設された。ベルギーのユダヤ人の約90%がこの二都市に住んでいた。1942年7月、ドイツの命令により、失業中のユダヤ人は全員マレンに報告し、「東方への労働投入」のために輸送されることとなった。しかし、この命令はユダヤ人評議会の支援にもかかわらず、従わない者が多く、最初のラツィオ(摘発)が始まった。最大の摘発は1942年8月15日・16日と9月に行われた。

輸送列車第1号は1942年8月4日にマレンを出発し、アウシュヴィッツへ向かった。合計998名の追放対象者のうち、140名の子どもを含む163名は「労働投入命令」に基づき同行させられた。次の4つの輸送(1942年8月11日:999名、8月15日:1000名、8月18日:998名、8月25日:995名)についても、乗用車が使用された。しかし、次の輸送である8月29日の1,000名はすでに家畜車に積み込まれた[150]。以下の追放列車は


145 . Klarsfeld/Steinberg, Le Mémorial Belgique, S. 1.
146 . Reitlinger, Endlösung, S. 389. Besprechung Reeder mit Knochen am 14.3.1942.
147 . Ebenda.
148 . Klarsfeld/Steinberg, Endlösung Belgien, S. 28f, Nbg. Dok. NG-183 vom 22.6.1942, gez. Eichmann.
149 . Ebenda, S. 32 f., Dokument CDJC, CXXVIIa-8.
150 . Klarsfeld/Steinberg, Le Mémorial Belgique, S. 4; Reitlinger, Endlösung, S. 390.


130

9月1日、8日、12日、15日にそれぞれ約1,000名(合計4,048名、うち1,134名は子ども)を乗せてマレンを出発した。1942年9月26日の輸送第11号から1943年7月31日の輸送第21号にかけて、追放者の数は増加し、それぞれ1,500~2,000名がアウシュヴィッツに送られた。この期間にマレンから出発したユダヤ人は合計11,656名で、そのうち子どもは2,225名であった[151]。1942年10月以降、ドイツ人はそれまで強制労働収容所で働いていた体力のある若いユダヤ人も追放対象に加えた。しかし、多くは身体的条件のおかげで逃亡に成功した。中には持参した鋸を使って脱出した者もおり、ベルギーの鉄道労働者が貨車の扉を完全に閉めないなどの妨害工作を行ったことで助けられた者もいた[152]。1942年8月末以降、フランスからの一部の輸送と同様に、最終目的地アウシュヴィッツに向かう途中、コーゼルに停車して就労可能な男性を選別する輸送もあった。これにより、一部の者には生存の可能性が生じた[153]。

1943年9月20日、ベルギーから2つの追放列車が出発した。輸送第22A号は639名の外国人ユダヤ人をアウシュヴィッツに送り、輸送第22B号はベルギー人ユダヤ人のみで構成され、794名は1943年9月3日から4日にかけてブリュッセルとアントワープで逮捕された。この作戦以降、ベルギー国籍を持つユダヤ人も保護されなくなった[154]。次の輸送は、ドイツの文書では「Z」と記され、ジプシー用であったが、132名のトルコ人ユダヤ人も含まれていた。男性はブーヘンヴァルト、女性はラヴェンスブリュックに送られた。同様に、1944年4月19日の「Z」輸送には14名のハンガリー人ユダヤ人がベルゲン=ベルゼンに送られた[155]。最後の4回の輸送は1944年1月15日、4月4日、5月19日、7月31日にアウシュヴィッツに向けてベルギーを出発した。合計2,357名が解放直前に命を落とした。しかし、ドイツ人は1回の輸送で500~700名以上を追放することはできず、自ら設定した「1輸送あたり1,000名」という目標は達成できなかった[156]。

ベルギーからアウシュヴィッツに送られた24,906名のユダヤ人を算定する際には、マレンからヴィッテルに送られた72名、および「Z」輸送でブーヘンヴァルト、ラヴェンスブリュック、ベルゲン=ベルゼンに送られた146名を加える必要がある。これにより、追放されたユダヤ人の最低数は25,124名となる[157]。さらに、ベルギーから逃亡した後フランスで逮捕され、後にドランシー経由でアウシュヴィッツに送られた約5,034名も考慮する。これを既に算定された25,124名に加えると30,158名となり、生存者1,640名を差し引くと合計28,518名のユダヤ人犠牲者となる。その大部分はベルギーから追放された5,430名の子どもである[158]。ベルギーについてはフランスのように国籍別の一覧は作成できないが、


151 . Ebenda, S. 6 ff.
152 . Reitlinger, Endlösung, S. 390.
153 . Vgl. Klarsfeld/Steinberg, Le Mémorial Belgique, S. 5 ff.
154 . Ebenda, S. 8.
155 . Ebenda, S. 9.
156 . Ebenda, S. 9f.
157 . Vgl. im Anhang III.
158 . Klarsfeld/Steinberg, Le Mémorial Belgique, S. 15 ff.


130

出生地は記載されていないものの、出生年は記されている[159]。おおよそ3分の1がベルギー国籍であったと考えられ、つまりベルギーは約9,500名のユダヤ人を失ったことになる。

ここでも、クラスフェルドの結果と比較して他の出版物の数値を参照する。ベルギーについては「英米委員会」が57,000名のユダヤ人の損失を挙げている。これは1939年のユダヤ人人口推計90,000名から、生存者と見なされた33,000名を差し引いたものである[160]。しかし、この計算は納得できない。なぜなら、ドイツ人は1941年の調査で統計上42,000名しかユダヤ人を把握できず、さらに1万名の未把握者を見込んでいたからである。確実といえるのは、マレン収容所から追放された25,124名の人数だけである。1956年のベルギー政府の記録では、マレンからアウシュヴィッツへ追放されたユダヤ人は25,208名とされている[161]。ライトリンガーはマレンからの追放を24,161名と確定し、犠牲者総数を25,000~28,000名と見積もっている[162]。コーレル報告書によれば、1943年3月31日までに合計18,502名が「避難」されたと記され、1943年4月以降の輸送を加えると、ベルギーから追放された合計は25,450名となる[163]。フランスから追放されたベルギーの難民を除けば、ベルギーにおける追放者の下限は25,000名と見なせる。

したがって、フランスとベルギーを合わせると、少なくとも100,000名のユダヤ人犠牲者が確認される。ただし、そのうちフランス人およびベルギー人は約32,200名にすぎない。


131

別紙I

フランスからの強制送還に関する各種数値の比較表


132

(*) Serge Klarsfeld, Die Endlösung der Judenfrage in Frankreich. Deutsche Dokumente 1941-1944, Paris 1977.
(**)Beate und Serge Klarsfeld, Le Mémorial de la Déportation des Juifs de France, Paris 1978, bzw. dies., Memorial to the Jews deported from France 1942-1944, New York 1983.
Zahlen in Klammern aus: Serge Klarsfeld, Vichy Auschwitz. Die Zusammenarbeit der deut-schen und französischen Behörden bei der „Endlösung der Judenfrage" in Frankreich, Ham-burg 1989.


133

別紙Ⅱ

ドランシーから移送された人々の国籍別内訳


別紙Ⅲ

ベルギーからのユダヤ人移送リスト


Aus: Tableaux récapitulatifs des Israélites déportés du camp de rassemblement de Malines vers les camps d'extermination de Haute Silésie, hrsg. Ministère de la Santé Publique et de la Famille am 1.9.1979, in: Klarsfeld/Steinberg, Le Mémorial de la Déportation des Juifs de Belgique, Bru-xelles 1982, S. 14 ff.
1 . Die Zahlen in Klammern sind die Ergebnisse, die Klarsfeld/Steinberg nach eigenen Recher-chen erzielten.
(*) Deportation nach Buchenwald/Ravensbrück
(**) Deportation nach Bergen-Belsen
(***) Deportation nach Vittel

▲翻訳終了▲

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