AIを使ったかどうかではなく、何を引き受けたか
これまで、AIを使いながら探究の主体性をどう保つか、ということを考えてきました。
最後に、その核心にある問いに向き合ってみたいと思います。
1.倫理の話は、「使ったか否か」になりやすい
生成AIと研究倫理をめぐる議論は、どうしても一つの問いに集約されがちです。
「AIに書かせたのか、自分で書いたのか」
もちろん、それが問われる場面はあります。
でも、この問い方だけでは足りないと私は思っています。
なぜなら、「自分で書いた」文章の中にも、本人が本当に考え抜いたものと、そうでないものが混在しうるからです。
逆に、「AIを使った」文章の中にも、深く考えた末に適切に活用したものと、思考ごと丸投げしたものが混在しています。
つまり、「使ったかどうか」だけでは、学びの中身は見えてこないのです。
2.本当に問われるべきは、プロセスへの自覚ではないか
では、何が本当に問われるべきなのでしょうか。
私はそれを、
どこまでを外部の知に委ね、どこからを自分の判断として引き受けたのか
というプロセスへの自覚だと思っています。
問いを広げる段階でAIと対話した。
社会の文脈を把握するためにAIを使った。
文献の整理にAIの力を借りた。
でも最後に、
「この問いで行く」と決めたのは自分だった。
この流れが自覚的であること。
そして必要があれば、それを説明できること。
これこそが、AI時代の研究倫理の核心ではないかと思います。
3.「考えたような感じ」と「考えたこと」は違う
生成AIの便利さの中で、ひとつ気をつけたいことがあります。
それは、まだ十分に考えていない段階でも、「考えたような感じ」のする文章が簡単にできてしまうことです。
整っている。
論理も通っている。
一見すると、よく考えられているように見える。
でも、その整い方と、本人が本当に考え抜いたこととは、必ずしも一致しません。
学生側も、もっともらしい文章が返ってくると、「自分は考えた」と感じやすい。
でも実際には、考える前に、考えたように見える形だけが先に立ち上がってしまっていることもある。
ここが、生成AI時代のいちばん難しいところだと思います。
だからこそ、自分自身に問いかけることが大切です。
この問いは、自分の言葉で説明できるか
AIの提案を、「なぜそう言えるのか」と自分で検討したか
最後の判断は、自分が引き受けたか
4.記録しておくことには意味がある
ここで一つ、実践的な提案があります。
レポートや卒論の本文にどこまで書くかは、所属する機関のルールに従うとして、自分用のメモとして、
「どの段階で、どのツールから、どんな示唆を得たか」
を簡単に書き留めておくことを勧めます。
たしかに、透明性の確保のため、大学や大学院等では
AIを利用した場合、どのように利用したのかプロンプト等を合わせて
提出を求めることがあります。
しかし、それだけが理由ではありません。
あとで読み返したとき、
「ここで自分は方向を変えた」
「この問いはAIの提案ではなく、自分の中から来た」
ということが見えてくるからです。
それは、自分がどう考えたかの軌跡であり、学びの証でもあります。
5.AIと学ぶ、ということ
一連の記事を通じて言いたかったことを、最後に一言でまとめるとすれば、こうなります。
AIと学ぶとは、AIに任せることではなく、AIを伴走者にしながら、最後に引き受けるべきものを手放さないことです。
問いを広げる力はAIが持っている。
整理する力もある。
でも、
「この問いを、私が問う」
という決断は、どこまでも人間のものです。
どれほど便利な道具が登場しても、何を問うべきかという根源的な判断は、その人の経験と価値観に根ざしています。
AI時代になっても、学ぶとはそういうことなのではないか。
私は、そう考えています。
詳細については下記論文をご覧ください。
田澤実 2026「学習者主導のAI伴走型探究学習:4 象限モデルによる理論的整理」『法政大学キャリアデザイン学部紀要』23, p49-80.
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