『光の感染者』第21話|歪んだ教室
善悪は、どこで決まるのだろうか。
盗みは悪で、正直は善なのか。
前向きな言葉は善で、沈黙は悪なのか。
そう問われるたび、私はどこか落ち着かない。
なぜなら私たちは、善悪を自分で選んでいるつもりで、
実のところ「選ばされている構造」の中にいることが多いからだ。
善悪は、行為そのものよりも、
その行為が生まれてしまう環境に、
先に宿っているのではないか。
ある教室で、いじめが起きていたとする。
あなたはそれを見ていた。
しかし、声を上げなかった。
理由は単純だ。
空気を壊したくなかった。
自分が次の標的になるのが怖かった。
ただ、平和でいたかった。
あなたは誰かを殴ったわけでも、
言葉を投げつけたわけでもない。
何もしなかっただけだ。
では、これは善だろうか。
それとも悪だろうか。
簡単には決められない。
だが一つだけ、確かなことがある。
いじめられていた側に残ったのは、
善悪の議論ではなく、
逃げ場のない絶望だった、ということだ。
問題は、個人の性格ではない。
問題は、「沈黙を選ぶほうが安全だ」と感じさせる構造そのものだ。
テレビは成功者の家を映し、
SNSは他人の人生を並べる。
私たちは比べ始める。
自分は上か、下か。
勝っているか、負けているか。
この比較から、簡単には降りられない世界で、
人は自分の価値を測り続ける。
便利さも、技術も、
もう後戻りはできない。
だからこそ、問いは個人に返ってくる。
人間が考えることをやめたとき、
人間は誰かの奴隷になる。
それは、特定の権力者に
直接支配される未来ではない。
自分で考えることを手放した結果として、
いつの間にか
何かに従わされている状態だ。
善悪は、今日もはっきりとは決まらない。
だが構造は、静かに人を形づくっていく。
何に怒り、
何に沈黙し、
何を「仕方がない」と受け入れるか。
その積み重ねが、
自分がどこに立つ人間なのかを、
後から決めていく。
もし、私があの教室にいたなら。
私はおそらく、
いじめられている側に立とうとするだろう。
それが正しいからではない。
勇気があるからでもない。
そうしなければ、
自分自身を裏切ることになると感じてしまうからだ。
それは正義というより、
私の弱さであり、
選び癖のようなものだ。
人間は皆、
完全に合理的でも、
完全に善良でもいられない。
それぞれが、
引き受けきれない恐怖と、
どうしても譲れない一線を抱えて生きている。
善悪とは、
個人の中だけで完結するものではない。
役割が与えられ、
空気が流れ、
沈黙が安全だと教えられる。
その中で、人は振る舞わされる。
私はそれを、
「構造悪」と呼んでいる。
誰かを断罪するための言葉ではない。
自分がどの構造の中で
呼吸しているのかを、
忘れないための言葉だ。
問い続けること。
疑い続けること。
それだけが、
まだ人間でいようとする
ささやかな抵抗なのかもしれない。
「善を行うことを知りながら、それを行わない者には、罪がある。」
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