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『私という病』第37話|不安と恐怖、あるいは愛という名の逃避について

最近、理由のはっきりしない不安を感じたことはないだろうか。

仕事は続いている。
家庭も壊れていない。
それでも、胸の奥で何かが低く唸っている。

もし、目の前にトラがいたら。

あなたは逃げるだろうか。
それとも、撫でようとするだろうか。

ほとんどの人は逃げる。
それは正しい反応だ。

だが後になって、こう言うかもしれない。
「本当は怖くなかった」
「冷静に判断しただけだ」と。

同じ現象を前にして、
ある者はそれを恐怖と呼び、
ある者はそれを愛だと呼ぶ。

だが実のところ、

そのどちらも、
自分が揺れている事実を
少しでも整えて見せるための
言い換えに過ぎないのかもしれない。

世界が人を怖がらせるのではない。

人が、自分の弱さに
名前をつけているだけだ。

この意味が分かるだろうか。

世界はひとつだろうか。
水はひとつだろうか。
風はひとつだろうか。

雨が降って、楽しむ者がいる。
同じ雨を、恨む者もいる。

空は同じだ。
雲も、水滴も、
誰かを特別扱いなどしていない。

違うのは、
受け取る側の構造だけだ。

私とあなたは、本当に同じ世界に生きているのだろうか。

世界とは、
いま目の前に現れている現象の集まりだとするなら、

私とあなたは、
最初から同じ世界など生きていないのかもしれない。

それでも社会は言う。

「私たちは同じ世界に生きている」と。

なぜ、そう言い続けるのだろう。

そう信じていなければ、
他人の正義に寄りかかり、
他人の不幸に安心することが
難しくなるからだ。

不安と恐怖は、よく出来ている。

正しさの仮面をかぶり、
人格のように振る舞う。

責任を背負う年代になればなるほど、
人は「正しさ」に依存しやすくなる。

守るものが増えるほど、
揺れを認めにくくなるからだ。

言葉を聞けばわかる。

その人が、どんな檻に
自ら鍵をかけているのかは、
ほとんど隠せていない。

人は思考に操られながら、
それを「自分の意思」だと信じている。

檻の中で自由を語るトラほど、
滑稽な存在はない。

不安には成り立ちがある。
恐怖にも理由がある。

そして、それらを手放す道も、
本当は示されている。

だが――

多くの人は、
それを手放さない。

不安がなければ、
肩書きも役割も外れたときの
「何者でもない自分」に
向き合うことになるからだ。

不安や恐怖は、
社会で生きるための装備でもある。

否定する必要はない。

ただ、それが
「自分そのもの」ではないと
気づくだけでいい。

私は、少し疲れている。

トラのいない檻の中で、
誰もいないはずなのに、
自分の心だけが
今日も低く唸っている。

それでも最近、
その唸り声を
ようやく「自分のもの」として
聞けるようになった。

ある日、彼女がこう言った。

「ねえ、愛って、なんだと思う?」

何気ない口調だった。

カフェの窓の外では、
冬が街を覆い、
人々は忙しく、
それぞれの正しさを抱えて歩いていた。

私は少し考えて、
「わからない」と答えた。

彼女は笑った。

その笑顔は、
理解しているというより、
安心したい人の笑顔だった。

愛とは何だろう。

もしかするとそれは、
孤独に耐えるための
静かな支えなのかもしれない。

帰り道、
街灯の下で立ち止まり、
ポケットの中の小石を握る。

ただの石だ。
意味などない。

それでも人は、
そこに温度を感じ、
物語を与え、
救われた気になる。

翌朝、その石は冷たくなっていた。

当然だ。

愛は保存できない。
再現も、所有もできない。

それでも人は探す。

不安や恐怖を越えた先に、
なお残る何かを。

私はまだ、それを探している。

いや――
探しているふりをして、
探さない理由を磨いているだけかもしれない。

それでも、

この檻の中で唸る声だけは、
嘘をつかない。

今のところ、
それだけが、
私にとっての救いだ。

──唸り声は、
消えない。


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