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『私という病』第36話|天使と悪魔 ― 覚醒前夜 ―

便利さというものは、いつも危険の仮面をかぶっている。

人はそれを文明と呼び、進歩と信じる。
そして疑うという作業を、静かに手放す。

私は冬の山寺で、ひとりの老僧に出会った。
いや、出会ったのではない。
こちらが見つかったのだ。

「世界は、ひとつじゃよ」

白い息とともに吐かれたその言葉は、あまりにも単純で、私は笑ってしまった。
礼を欠いた笑いだった。

老僧は気にしない。

「個というのは幻想じゃ。
 人も、木も、石も、金も、同じ海の波にすぎぬ」

私は、そのとき判断できなかった。
この老人が天使なのか、悪魔なのか。


分離という仕事

「悪魔の仕事はな、人を分けることじゃ」

老僧はそう言い、私の懐を指さした。

「金は、よくできた道具じゃ。
 人を孤独にする。しかも、それを救いに見せる」

確かに、と思った。

金を持つ者は他人を値札で見る。
金を失った者は自分を値段で測る。

私はどちらもやってきた。

出会いを損得で測った瞬間、
世界は数字になる。

そのとき、悪魔はもう仕事を終えている。


天使との対話

その夜、夢を見た。

白い場所に天使が立っていた。
慈悲というより、事務的だった。

「愛とは、与えることでも奪うことでもありません」

天使は言った。

「それは、見てしまうことです」

私は問うた。

「どうすれば愛せるのですか」

沈黙。

その沈黙は、優しさではなかった。

「あなたが愛そうとした瞬間、
 あなたは自分を中心に置いています」

私は言葉を失った。

愛は簡単に支配になる。
善意は所有に変わる。

「本当の愛とは、あなたが不要になることです」

それは救いではなかった。
処刑宣告に近かった。


所有という幻想

人は所有できると信じている。

金も、地位も、愛も、関係も。

だが、そもそも自己は固定された実体ではない。
流れの中で形をとっている現象にすぎない。

流動的な存在が、何を恒久的に持てるというのだろう。

所有とは、錯覚である。

自己すら所有できないのに、
世界を所有できるはずがない。

ここで壁が崩れる。

自分と世界のあいだにあったはずの境界は、
思い込みだったと気づく。

残るのは経験だけだ。

出来事。
行動。
言葉。
その都度生まれ、その都度消える。


自由の誤解

人は「完全に決められること」が自由だと思い込む。

それは誤解だ。

世界には他者がいる。
偶然がある。
物理法則がある。

完全決定は幻想である。

では自由とは何か。

姿勢を選ぶことか。
それも一部だ。

だが本質はさらに深い。

自由とは、意識の向きを変えられることだ。

何を見るか。
どう解釈するか。
どこに注意を置くか。

世界は、認識構造を通してしか現れない。

ならば、あなたの認識こそが、あなたの世界である。


覚醒前とは何か

覚醒前とは、
時代や他人の期待に合わせて
「人間であろう」としている状態だ。

まだ生まれていない。

ただ生きているだけの存在。

自分が何者かを知らないまま、
与えられた役割を演じ続けている。


覚醒とは

覚醒とは状態である。

死と生を理解した状態。

死が実体ではなく、
物語の終わりにすぎないと知る状態。

所有が幻想だと知る状態。

世界がゲームのような構造を持つと理解したうえで、
それでも参加を選ぶ状態。

世界を支配しようとしない。
それでも、逃げない。

矛盾を抱えたまま、立っている。


私という病

「私」は実体ではない。

分離を信じ、
所有を求め、
比較に苦しむ構造そのものだ。

その構造を真実だと思い込むこと。

それが病だ。

だが病は、敵ではない。

気づきの入口でもある。

崩れるものは崩れる。

だが、その瓦礫の上でしか、
人は空を見上げられない。

今日も私は、金色の街を歩く。

天使と悪魔が同時にこちらを見ているのを、
もう誤魔化せなくなったまま。

そして静かに思う。

世界は私のものではない。
だが、この認識は、いまここで選べる。

その瞬間だけは、
確かに生まれている。


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