『私という病』第35話|学力抄(がくりょくしょう)
2025.10.17
ある日、私は旧友のSと、
銀座裏の小さな喫茶店で再会した。
なぜあの場所だったのか。
今ならわかる気がするが、
当時の私はまだ、それを言葉にできなかった。
学生時代、
彼は学年一、二を争う秀才だった。
答案用紙の上では常に静かで、
余計なことは言わず、
教師の期待に、寸分の狂いもなく応える男。
その精度は、美しかった。
いま彼は、
一介の予備校講師として働いているという。
久しぶりに向かい合った彼の目には、
かつての鋭さとは別種の、
陰を帯びた澄みがあった。
沈殿した水のような、静かな透明。
「学力って、知ってるか?」
コーヒーに口をつけたまま、
彼は唐突にそう言った。
私は曖昧に笑い、うなずく。
彼は続けた。
「世間の言う学力ってのはな、
“疑わずに従える力”のことだよ。
教師に。
教科書に。
マークシートに。
もっと言えば、
社会の規範そのものに」
その声は淡々としていたが、
どこか遠い場所から届いているようだった。
「黙って身を預けられる能力。
それが評価される。
疑わない者ほど、点が取れる。
だがな――」
彼はカップを置いた。
「その力を身につけるほど、
思考は静かに縛られていく。
自分で考える必要がなくなるからだ。
世界を既製品の知識で塗り固めていくと、
目の前の現実さえ、
誰かが織った布に見えてくる」
私は反射的に何かを言おうとした。
だが、言葉は喉の奥でほどけた。
銀座の雑踏が遠のく。
食器の触れ合う音も、
膜の向こうへ退いていく。
彼の声だけが、
静かに残った。
「学力は、宗教に似ている。
信じる者は救われる。
少なくとも、
疑わずに生きてはいける。
だが、その救いの正体が
“従順な歯車”であることに
気づく者は少ない」
歯車。
その言葉が、妙に重かった。
「じゃあ……」
気づけば、私は問い返していた。
「本当の学力って、何なんだ?」
Sは少し黙り、
それから、ふっと笑った。
それは、
教室の隅で窓の外を眺めていた、
あの頃の少年の笑みだった。
「自分の心にさ、
この世界はおもしろいって、
そう思わせられる力だよ。
知ることに、
考えることに、
創ることに、
もう一度、目を輝かせられる力。
それを俺は、
学力って呼びたい」
その瞬間、
私は昔の彼を見た。
教科書の正解よりも、
空の雲のかたちに興奮していた少年。
点数では測れない何かに、
確かに触れていた少年。
喫茶店を出たあと、
私はしばらく銀座の雑踏の中に立ち尽くした。
ネオンが滲み、
人波が流れていく。
思えば私も、
長いあいだ、
誰かが紡いだ糸の上を歩いてきたのかもしれない。
それを疑いもせず、
安全だと思い込みながら。
だが。
その糸が、
絶対ではないと知ったとき。
世界は、
わずかに揺らいだ。
そして私は、
はじめて足の裏の感触を確かめた。
学力とは何か。
それは従う力か。
それとも、
疑う勇気か。
あるいは――
自分の目で、
世界をもう一度見直すための、
静かな反逆か。
銀座の夜は、
何も答えないまま、
ただ光っていた。
