『私という病』 第30話|ありがとう、という癖
2025.10.01
私は、基本的に誰にでも挨拶をする。
それが礼儀だから、というより、
そうしていないと、どうも世界が歪む気がするのだ。
「ありがとう」という言葉を、
私は深く考えずに使っている。
使いすぎて、軽くなっているのかもしれない。
だが、不思議なことに、
この言葉を省くと、
世界の輪郭が、ほんの少しだけ濁る。
この世界は、どうやら
自分が思っている以上に、
自分の態度に影響されるらしい。
若いころの私は、
世界はすでに完成されていて、
自分はそこに放り込まれた
出来の悪い部品のひとつだと信じていた。
だが今は、
そうは思えなくなってしまった。
世界は、どうも
こちらの視線を気にしている。
こちらの言葉づかい、
こちらの姿勢、
こちらが何を美しいと思うか――
それらに、驚くほど素直に反応する。
だから私は、
できるだけ美しいものを見ようとする。
美しい人、ではなく、
美しくあろうとする人を。
尖った個性というものは、
扱いを誤ると厄介だが、
正しく置かれると、
それは彫刻のように静かに立つ。
私は、そういう人を見るのが好きだ。
羨ましいのかもしれないし、
怖いのかもしれない。
たぶん、その両方だ。
世の中では、
金が必要だ、金がすべてだ、
と、皆が口を揃える。
私も、かつては
その声を疑わなかった。
だが今は、
金そのものよりも、
「金がなければ生きられない」
と信じて疑わない思考のほうが、
よほど強固な檻に見える。
金は便利だ。
だが、神ではない。
少なくとも、
私の人生を決める権限までは
与えていないはずだ。
私は、
何も持たない人間として
生きることを選んだわけではない。
気がついたら、
持たない状態のほうが
息がしやすかっただけだ。
比べることをやめ、
競うことをやめ、
証明することをやめると、
世界は急に静かになる。
その静けさの中で、
ようやく自分の声が聞こえた。
それは、
立派な声でも、
正しい声でもなかった。
ただ、
「ここにいる」という、
それだけの声だった。
私は今日も、
世界をよく観察している。
人を見て、
風を見て、
自分の思考の癖を眺めている。
瞑想などという
立派なことはできないが、
頭に浮かぶ余計な考えが
泡のように浮いては消えるのを、
黙って見ている。
そうしていると、
自分が何者かよりも、
自分が何を恐れているかのほうが、
よほどはっきりしてくる。
私はまだ、
覚醒したなどとは言えない。
そんな立派なものではない。
ただ、
以前より少しだけ、
誤魔化しが効かなくなっただけだ。
それでも、
この世界は美しい。
だから私は、
今日も挨拶をする。
ありがとう、と。
それが、
今の私にできる
いちばん人間らしい仕事だから。
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