『私という病』 第44話|見えざる内的な変化と成長
人はなぜ、生きているのか。
その問いを一度でも本気で考えた人間は、もう元の世界には戻れない。
気づかないまま生きるか。
気づいてしまうか。
その違いだけで、人生は静かに分岐していく。
男は、まるで運命の罠に嵌ったかのように女へ惹かれ、
女もまた、抗いがたい悪戯に巻き込まれたように男へ惹かれ、
やがて子を授かる。
それが世界の台本であり、
多くの人が疑いもなく受け取ってきた物語である。
だが私は、ときおり立ち止まって考えてしまう。
可能である、という事実と、
それが本当に「正解」であるかどうかは、
果たして同じなのだろうか、と。
出家者が、まだ息をしているこの世を離れ、
俗世のすべてを背にしてまで仏を志すのは、なぜなのか。
私は長いあいだ、半ば呪文のように、
そして半ば冗談めかして、こう語ってきた。
「人間なんぞ、いない方が地球には優しいのかもしれない」と。
今思えば、それは世界への断罪ではなく、
自分自身への問いかけだったのだろう。
主体を人類とすれば、客体は世界そのものになる。
つまり、自分以外のすべて。
私は教えられるままに、
分離された世界の常識を受け入れ、
人間社会という不思議な見世物を、
少し距離を置いて眺めていた。
うんざりしていた、というより、
どこか噛み合っていなかったのだ。
だから、問いを小さくしてみる。
世界は、なぜ存在しているのか。
――この問いはあまりにも大きすぎる。
では、会社はなぜ存在するのか。
家族は、何を大切にしているのか。
個人は、なぜ生きているのか。
そして最後に、
あなたは――なぜ、ここにいるのだろう。
この問いに答えられないこと自体は、
決して罪ではない。
ただ、問いそのものを持たぬまま、
忙しさや常識に流されて生きるとき、
人は知らず知らずのうちに、
自分の行き先を見失ってしまう。
私はそうした状態を、
非難ではなく比喩として、
「彷徨っている」と呼びたい。
彷徨う人々は、やがてこんな言葉を受け取る。
「上には上がいる」
「自分には無理だ」
「誰か偉い人が、きっと何とかしてくれる」
それらは必ずしも嘘ではない。
だが、真実のすべてでもない。
現実を見ればわかる。
大統領も、政治家も、
迷いを抱えた一人の人間に過ぎない。
誰もが不完全で、
誘惑に揺れ、弱さを隠しながら生きている。
問題は、誰かを崇めすぎることによって、
自分自身の問いを手放してしまうことだ。
正解とは、何なのだろう。
私たちはなぜ生まれ、
なぜ今日も息をしているのだろう。
世界には、実に多様で、
孤独で、美しい個性が咲いている。
その事実だけは、どうやら疑いようがない。
結局のところ、
人生の意味や目的は、
誰かから与えられるものではない。
迷えば、立ち止まればいい。
間違えたと思えば、静かに修正すればいい。
転び、恥をかき、
それでも歩き続ける中で、
意味は後から、静かに輪郭を持ちはじめる。
そして一度でも、
「自分で選んで生きている」という感触を知ると、
人はもう、完全には元へ戻れない。
恐怖や不安は、
必ずしも避けるべき敵ではない。
それらは時に、
自分が本当に向かいたい方向を示す、
微かな羅針盤になる。
私自身、かつてはこの命を
軽々しく手放そうと考えたことがある。
それでも今、こうして考え、書き、
息をしている。
その事実が、
私の見ている世界を少しだけ変えた。
世界は、変えられるかもしれない。
社会も、常識も、時代も。
少なくとも、
自分の見方だけは変えられる。
目的が定まれば、
方法は後からついてくる。
結果もまた、
いつのまにか現実として姿を現す。
それが、今の私がたどり着いた、
ひとつの実感である。
そしておそらく――
この文章をここまで読んだあなたも、
もう気づきはじめているのだと思う。
問いを持った瞬間、
人はもう、元の場所には戻れないということに。
人は蒔いたものを刈り取る。
種を蒔けば、やがて芽は出る。
だが、蒔かなければ、何も生まれない。
良き種は、静かに実り、あなたを豊かにする。
悪しき種もまた、確かに芽を出し、やがてあなたを悩ませる。
どちらも、やがてその業を大きくする。
だから問われているのは、
何が起きるかではない。
あなたが、何を蒔いているのかである。
― ガラテヤ人への手紙 6章7節より
