『私という病』第45話| なぜか人生が楽しい人間の正体
なぜか人生が楽しい人間がいる。
成功しているわけでも、何かを手に入れたわけでもない。
それでも彼らは、理由もなく満たされている。
その正体は、才能でも運でもない。
ただ一つ、決定的に違う“ある認識”を持っているだけだ。
「楽しかったことは?」
そう問われたとき、私は思いのほか返答に窮してしまった。
困ったのは、楽しくなかったからではない。
むしろ逆で、人生の主題を「今を楽しく生きる」と勝手に決めてしまって以来、どこからどこまでが“楽しい”のか、その境目が曖昧になってしまったのだ。
楽しいことが多すぎる、などと言えば、いかにも軽薄で鼻持ちならぬ。
だが実際のところ、私はその軽薄さを、少し気に入ってもいる。
正直に言えば、こうして誰かと話しているこの瞬間も、私にとっては十分すぎるほど楽しい。
だが、それをそのまま差し出すのは、どこか相手の期待とはずれている気がした。
そこで私は、今朝の話をした。
川辺で出会った鳥たちのことだ。
毎朝のように顔を合わせる、名も知らぬ小さな連中である。
ただ見かけ、軽く会釈を交わすだけ。
言葉も交わさぬのに、なぜか心がほどけ、
自分が少しだけ人間であることを思い出す。
けれど本当のところを言えば、
その奥には、もっと大きく、説明のしようのない感情が横たわっている。
いま、私は人生そのものが、どうしようもなく楽しい。
事件があるわけでも、成功しているわけでもない。
ただ、朝が来て、夜が来て、
そのあいだに起こる取るに足らぬ出来事のすべてが、
ひとつの「流れ」となって、私を運んでいる。
その流れに身を任せていること自体が、
何よりの歓びなのだ。
静かに腰を下ろし、
理由もなく胸の奥から感謝が湧き上がってくることがある。
それは徳を積んだからでも、悟ったからでもない。
ただ、生きているという事実が、
少しだけ可笑しく、少しだけ有難いのだ。
先祖の名を一人ひとり思い浮かべることはできないが、
それでも確かに、私は彼らの続きとして、ここにいる。
その連なりの中で、
私は今日も、不格好に息をしている。
それで十分ではないかと、
最近の私は、そう思うようになった。
世界は相変わらず騒がしく、
誰かが正しさを競い、
誰かが勝ち負けを決めている。
だが、その外側で、
理由のない静けさに満たされている人間が、確かに存在する。
彼らは何かを得たわけではない。
ただ、何かを手放したのだ。
比べることをやめ、
証明することをやめ、
自分が何者であるかという問いに、
無理に答えを出すことをやめた。
そのとき、
人生は「解くもの」ではなく、
ただ「流れているもの」へと変わる。
だから彼らは、楽しいのだ。
理由もなく。
根拠もなく。
ただ、そう在るというだけで。
そして私は今日も、理由のないこの充足を、
誰にも説明できないまま、静かに引き受けて生きていく。
