『光の感染者』 第33話|不幸を黄金に変える技術
ー正義を捨てないという選択
人を苦しめるのは出来事ではない。
それに対する人間の判断である。
世界には二種類の人間がいる。
災いを「不幸」で終わらせる人間と、
災いを「価値」に変える人間だ。
古代の人々は、その技術をこう呼んだ。
錬金術。
実は、この出来事が起こった瞬間、私はある未来を見ていた。
それは予言でも、特別な直感でもない。
ただ、人間社会というものを、ほんの少しでも観察してきた者なら、誰でも感じ取れる類いの未来である。
人間の集団には、どうやら一定の力学のようなものがある。
一度歯車が噛み合うと、出来事はおおよそ決まった軌道を進んでいく。
だから私は、その瞬間に理解していた。
これから、しばらくつらい時間が続く。
――そういう未来を。
当初、私は三か月ほどでこの問題は解決しているだろうと考えていた。
時間が経てば、人は少しずつ冷静になる。
組織というものも、時間の中で自然と整理されていく。
多くの問題は、そうやって静かに収束していくものだ。
だが、現在もこの問題はまだ終わっていない。
それでも私は、さほど驚いてはいない。
むしろ、どこかでこう思っている。
人間の問題というものは、たいてい予定よりも長く続くものだ。
人は問題が起きると、まず「正しさ」を探し始める。
誰が悪いのか。
何が間違っていたのか。
誰を断罪するべきなのか。
それは分かりやすい。
そして、ときに傷ついた人の怒りをほんの少しだけ癒す。
だが私は最近、別のことを考えるようになった。
災いとは、いったい何だろうか。
それは、ただの不幸なのだろうか。
衣服が濡れて汚れるから、雨を嫌う人がいる。
だが、その雨を喜ぶ双葉もある。
同じ出来事でも、それを受け取る存在によって、
プラスにもマイナスにもなり得る。
あるいは――
まったく別の意味を持つのかもしれない。
古代の人々は「錬金術」という言葉を使った。
鉛を黄金に変える技術である。
だが、本当の錬金術は金属の中にあるのではない。
人間の思考の中にある。
出来事そのものは変えられない。
起きてしまったことは、もう取り消すことはできない。
だが人間には、一つだけ特別な力がある。
出来事の意味を変える力である。
怒りを対話に変えること。
対立を理解に変えること。
災いを学びに変えること。
もしそれができるなら、人は初めて
災いを価値へと変える錬金術
を手に入れる。
私はいま、小さな町で働いている。
人口の少ない町である。
こういう場所では、誰かを断罪することはそれほど簡単ではない。
断罪というものは、一瞬で終わる。
だが、その後に残るものは、
長い関係の断絶である。
小さな社会では、人は人を完全に切り離して生きることができない。
だからこの町には、別の知恵が必要になる。
それは
関係を壊す知恵ではなく、関係を修復する知恵
なのだと思う。
今回の出来事について、私は母にも少し話した。
そして、自分の中で一つの答えが、ゆっくりとはっきりしてきた。
やはり私は、正義感を捨てて仕事をすることはできない。
苦しんでいる人がいることを知ってしまった。
そうしてしまった以上、
もう「何もなかったこと」にすることはできない。
許してしまうことも、どうやらできそうにない。
それが子供っぽいと言われても。
人間として未熟だと言われても。
現実には、
そこで苦しんでいる人がいる。
苦しむ心を見ないふりをして、
ただ上手く立ち回るような
そんな立派な大人には、
私はどうしてもなりたくない。
現代の社会は、分離の思想の上に作られている。
人は互いに切り離された存在だと信じながら、
同時に平等であるという幻想を抱き続けている。
だが本当にそうなのだろうか。
人は自分の右手の小指を奪おうとする者はいない。
それなのに、人は他人からは奪おうとする。
平穏を。
個性を。
魂を。
その行為に気づく者もいれば、
気づかない者もいる。
目の前のその人との経験そのものが、
自分の一部なのだということを、
知らないのである。
だがその災いを、ただの不幸として終わらせるのか。
それとも、何か別の価値へと変えていくのか。
それを決めるのは、出来事ではない。
人間の思考である。
もし、この出来事が
誰かの理解をほんの少しでも深めるなら。
もしこの出来事が
少しでも良い環境を生むなら。
それはきっと
小さな錬金術の成功
なのだと思う。
だから私は、もう一つの未来を信じている。
それは、誰かが勝つ未来ではない。
誰かが完全に敗北する未来でもない。
人がほんの少しだけ賢くなり、
ほんの少しだけ優しくなり、
この災いを
静かに黄金へと変えていく未来である。
もしそれが実現するなら、
そのとき人は理解するだろう。
錬金術とは、世界の技術ではない。
古代の魔法でもない。
人間の精神の技術なのだ。
