一曲を弾き終わって、指を離したあとの、あの数秒。音はもう消えているのに、体のどこかが、まだ鳴っている。あの、しんとした余韻を——知っていますか。
音楽なら、聴くだけでも味わえます。世界には、いい音楽が、あふれている。それなのに、なぜ、わざわざ自分の手で鳴らすんだろう。下手でも、時間がかかっても、それでも弾きたくなるのは、なんでだろう。最後に、その話を書きます。
聴くのと、鳴らすのは、ちがう
不思議なんです。おなじ曲でも、聴いているときと、自分で鳴らしたときとで、動く場所がちがう。聴いていると、胸のあたりが、じんとする。でも、自分の指で一音を鳴らすと、もっと下——お腹の底の、言葉にならないところが、ことりと動く。
心は、耳から入れるより、手から出すほうが、深く動くのかもしれません。だから人は、聴くだけじゃなく、太鼓を打ち、声を出し、踊ってきた。浴びるだけじゃ、半分。自分から鳴らしたとき、はじめて、体の奥のほうがひらきます。
鳴らす側に、まわる
毎日、わたしたちは、点をつけられています。うまいか、遅いか、役に立つか。誰かのものさしの上に、のせられ続けている。
鍵盤の前は、そこから、くるっと裏返る場所です。測られる側じゃなくて、鳴らす側。あなたが指を下ろすと、そこに、いままで世界になかった音が生まれる。まだ誰も、聞いたことのない音が。
それを、いいとも悪いとも裁かずに、ただ、鳴らす。——たぶん、これが、いちばん贅沢なことです。
弾くたび、ちがう自分に会う
同じ曲を、何度弾いても、二度と同じ音にはなりません。同じ体が、二度と同じ状態にならないから。今日の指、今日の呼吸、今日の心。——今日の音は、今日のあなたにしか、出せないんです。昨日うまくいったところで、今日つまずく。ゆうべ泣いたことが、なぜか、今日のいちばん静かな音に出る。
レッスンでは、どんどん新しい曲へ進みます。でも、ずっと前に弾いた曲を、棚から引っぱり出して、もう一度、鳴らしてみる。同じ楽譜なのに、聴こえてくる世界が、ちがう。あの頃は素通りした音に、今日は、立ち止まる。曲は、変わっていません。変わったのは、「わたし」。
弾くのは、上手くなって、どこかに「着く」ためじゃないんです。着くための道じゃなくて、毎回、自分のなかの音楽に、出会いなおすため。
着かないから、また、明日も弾く。終わらない練習、というより——毎日の、帰り道みたいなもの。
わたしが、いまも弾くわけ

上手く弾けた日より、下手でも、その日の自分がまるごと音になった日のほうが、あとに残ります。われながら、下手やなあ、と思う日も、ちゃんとあります。それでも。
いま、わたしはこれを、ルワンダで書いています。娘も、となりで弾いている。目の前のこの一台と、どう一つになるか。今日の自分を、どこまで出せるか。そこに集中すると、ちゃんと、音楽が、できる。
弾いているあいだ、わたしは、誰にも測られていません。ただ、自分の音と、いっしょにいる。そこで、ようやく、ほどけるんです。
鳴らしてみて、はじめて
いちばん最初に、音楽は、鳴る前から始まっている、と書きました。
あなたのなかにも、もう、音楽があります。生まれた日から、心臓と息とで、鳴り続けてきた音楽が。弾くというのは、その、ずっと内側にあった音を、いちど、外に出してあげること。上手いも下手も、まだ、ない。生まれたてのまま。
外に出た音は、どこかへ届きます。おなじ部屋の、となりの人へ。いつか、まだ知らない誰かへ。——一人で鳴らしていた音が、誰かに受け取られたとき、はじめて、まるくなる。弾くのは、自分に還るため。そして、その自分を、誰かに、手渡すため。
今日のあなたの手が、今日の音を、待っています。
鳴らしてみて、はじめて分かることが、あります。
福田ゆみ|musicand
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上手い下手も、「こうあるべき」も、いったん下ろして、まっさらなところへ戻る。それが「Day0」です。まず一人で、今日の自分の音を、確かめてみたい人へ。
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