ピアノとはなんぞや|音が決まるのは、鍵盤の底じゃなかった
鍵盤に、腕の重みを預けてみる。力で押すんじゃない。腕の重さと呼吸を、重力にまかせて、鍵盤に落としていく。
音楽が、もともと体のなかにあるものなら——なぜ、わざわざこの重たい黒い箱の前に座るのか。ピアノとわたしのからだは、どこでつながっているのか。その話を、書いてみます。

音が決まるのは、鍵盤の底じゃなかった
どうやったら鳴るのか。撫でても鳴りません。かといって、底まで力いっぱい押し込んだから鳴る、というのも正確じゃありませんでした。
本当は、その手前にあります。鍵盤を下ろしていく途中、底に着くほんの少し手前で、ハンマーが指の制御を離れて、勝手に弦へ飛んでいく。音が決まるのは、押しきった底じゃなくて、その「指を離れた一瞬」。手を離れたあとは、どれだけ底を押しても、音はもう変わりません。
輪ゴムを引き絞って、放した瞬間にゴムが飛ぶのと同じ。いちばん親密に触れているつもりのその瞬間に、こちらはもう手放している。ピアノは、最初からそういうふうにできています。
だから、いつ放したかを、指先の手応えが教えてくれる。骨と筋肉、耳、皮膚。ばらばらの感覚が束になって返ってきた瞬間、頭で考えるより先に、からだが気づきます。「ああ、ここにいる、」と。
知らない自分が、出てくる

ピアノは、自分の外にある、重たい塊です。わたしじゃない。それなのに、鍵盤に腕の重みを預けた瞬間、おかしなことが起こります。自分でも届かない奥のほうにあった、言葉にならないものが、その塊を震わせて「わたしの声」になって、部屋に放たれる。
杖をつく人は、杖の先で、地面のかたさが分かる。箸を持てば、箸の先で、豆のやわらかさが分かる。神経は、そこまで通っていないのに。ピアノも同じでした。弾き込むほど、鍵盤の奥のハンマーの重み、弦の張りまでが、指先の続きになってくる。外にある塊だったはずなのに、どこまでが自分か、分からなくなる。
自分の中から出てきたのに、自分でも知らなかった音。ピアノは、奥のほうにあった音を呼び起こして、外へ連れ出す、共鳴箱です。
心臓も、息も、お腹も、鳴っている
そして、その音は、きれいに整ったものばかりじゃありません。
考えてみると、おかしな話です。心臓は勝手にドクドク打っている。息は勝手にスーハーしている。お腹は空気を読まずにグルグル鳴る。しかもこの三つは、打ち合わせもしていません。心臓は心臓のテンポ、呼吸は呼吸の勝手、お腹はお腹の都合で、ばらばらのまま、生まれた日から一度も止まらずに鳴り続けている。わたしたちは、その音の上で生きています。
その、打ち合わせもしていない体の中の音。不安も、よろこびも、もとをたどれば、この心臓や息やお腹のざわめきでした。気持ちが体を揺らすんじゃない。体の揺れに、あとから名前をつけたのが、気持ちなのかもしれません。音楽が体の中にあって、それが生きることだとしたら、音楽はずいぶん泥臭いものだと思うんです。希望も、不安も、怒りも、どんな感情も、音楽と同じところから来ている。
面白いのは、音楽に没入すると、それは隠そうとしても出てくること。今日のいらだちも、ごまかしたい弱さも、勝手に音に滲む。焦れば心拍が乱れて、息が浅くなって、その揺れがそのまま、指先のタイミングに出てしまう。「隠そう」としている、その必死さまで、音に出る。取り繕えない。
だから生の音は、こわいくらい正直です。機械なら、誤差として消してしまう、ほんの何十分の一秒のズレ。人が泣くのは、正しく揃った音より、そのズレのほうでした。その日の呼吸、その日の指の調子、迷いや怒りが刻まれた、その揺れのなかにこそ、その人がいる。人の奥を揺らすのは、上手さじゃなくて、隠しきれずに滲んでいる、生のほうです。
ピアノは、その生々しさを隠さずに鳴らせる楽器です。右手で明るいメロディを歌いながら、左手で重たいものを刻める。左右の脳が、互いにブレーキをかけ合いながら、十本の指にまったく違うことをさせる。矛盾したまま、全部、鳴らしていい。
ピアノを弾くとは、自分の中のばらばらなものを、整理しないままひとつの響きにすること。きれいに片付けるんじゃなくて、まるごと音にすることです。
ピアノとは、なんぞや。
——自分でも知らなかった自分を、泥ごと外へ連れ出してくれる、「もうひとり」。
今日の、あなたの音
現役の頃みたいに難しい曲をばりばり弾くことは、今のわたしにはもうできないかもしれません。指は、あの頃ほど動かない。それでも、今のほうが音楽が深いと感じます。前は聴こえなかった音が、楽譜の中から見えてくる。上手さで人を黙らせる音じゃなくて、その人が、その人のまま出している音。技術は、そのための道具として、いくつになっても磨けます。ただ、人の奥に届くのは、その先にある、その人にしか出せないもののほうです。
同じ人でも、昨日と今日ではちがう音が出ます。その日の指、その日の呼吸、その日の気持ちが、そのまま音になる。初日だけじゃありません。次の日も、その次の日も、ピアノとは毎日、出会い直すことになります。
いまいるルワンダの村では、みんなで歌って、踊ります。数える人も、指揮する人もいません。誰も合わせようとしていないのに、ひとりでに、揃っていく。となりの拍に、からだが勝手に引き込まれる。上手いも下手もない。ただ、音楽している。
何歳から始めても、遅すぎるということはありません。ピアノは、いつだって今のあなたを迎えてくれます。
今日のあなたの音が、もう、そこに鳴っている。
福田ゆみ|musicand
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ここまでは、ピアノに一人で向かう話でした。その手前に、もうひとつ。上手い下手も、「こうあるべき」も、いったん下ろして、まっさらなところへ戻る。それが「Day0」です。気持ちの持ちようというより、日々のなかで実際にできる、具体的なこと。これまで学んで、経験してきたことを、スパイスみたいに暮らしやレッスン、仕事に効かせていく。その調合ノートの、いちばん最初の一冊です。
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