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ニューオーリンズの雑踏が生んだ最初期のジャズ

(見出し画像は、1900年代初頭のニューオーリンズ、 キャロンデレット通りとカナル通りの交差点の様子)

港町の混沌が、音楽のるつぼになった

20世紀に入ったばかりのニューオーリンズは、アメリカで最も音の密度が高い街だった、と言ってよいほどだった。

港にはカリブからの船が着き、フランス系・スペイン系の移民が暮らし、
アフリカ系の黒人と混血のクレオールが生活し、軍楽隊が行進し、教会の鐘が鳴り、夜になれば売春宿や酒場の窓からピアノの音がこぼれる。

世界の端々で生まれた音楽が、この街では同じ湿った空気を吸い込みながら鳴り響いていた。

ニューオーリンズの位置(OpenStreetMapより作成)


ジャズは最初、音楽スタイルではなく街そのものだった

ニューオーリンズでは、音楽は単なる娯楽ではなく、生活の延長だった。

葬儀にはブラスバンドが歩き、市場にはカリブのリズムが響き、祭りではクレオールのダンス音楽が鳴り、黒人教会ではシャウトとハンドクラップが渦巻き、酒場ではピアノと歌が夜通し鳴っていた。

この街では、場面ごとに音楽がきれいに切り替わるのではなく、さまざまな音が同時に存在し、しばしば同じ場で混ざり合ってしまう。

1901年頃のニューオーリンズ商業地区の風景。
出典:Wikimedia Commons(CC BY-SA 2.0、トリミング・レタッチあり)

「ジャズ」と呼ばれることになるものは、最初から整ったジャンルとして登場したのではなかった。

それは、港町の雑踏そのものから滲み出た音であり、人種も階級も宗教も混ざり合った、街の体温そのもののような音だった。


ストーリーヴィル: 「夜の学校」として語り継がれる歓楽街

1897年、ニューオーリンズ市はある一帯を公認の歓楽街として指定した。
のちに「ストーリーヴィル」と呼ばれるこの地区である。

1906年頃のストーリーヴィル地区(ニューオーリンズ)

売春宿や酒場、ダンスホールが軒を連ねるこの一角には、毎夜、多くのミュージシャンが出入りしたと伝えられる。

ここは、黒人やクレオールを中心に、多くのミュージシャンが集まり、演奏する、自然発生的な音楽学校のような場になった。

  • ピアノ伴奏

  • コルネットの歌うような旋律

  • クラリネットの装飾音

  • バンジョーの掻き鳴らし

  • ドラムの跳ねるリズム

すべてが即興で動き、誰かが始めたフレーズに、別の誰かがすぐにかぶせていく。

ここでは、楽譜どおりに弾く音楽よりも、その場で生まれるホットな瞬間を共有する音楽が当たり前になっていった。
言い換えれば、ここで鳴っていたのはまさに楽譜にとらわれない音楽だった。

ストーリーヴィルは、ニューオーリンズの初期ジャズ・ミュージシャンたちにとって、のちに「夜の学校」と回想されるような重要な研鑽の場のひとつだった。

1900年代初頭のニューオーリンズで活動していたと伝えられる、
初期ジャズ期のバンドの集合写真。

もっとも、ジャズがそこでだけ生まれたわけではない。
彼らはストーリーヴィルの外でも、ダンスホールやヴォードヴィル劇場、路上のパレード、さらにはミシシッピ川を行き交うリバーボートなど、あらゆる場所で演奏しながら、スタイルを磨いていった。

ストーリーヴィルは、その多様な現場の中で、象徴的な一角として後世に語り継がれているのである。


セカンドライン: 葬列の揺れる行進がスウィング感を育てた

ニューオーリンズ独特の文化に、ジャズ葬儀(ジャズ・フューネラル)がある。

ゆっくりした賛美歌や行進曲で故人を墓地へ送り出し、埋葬を終えるとリズムを切り替え、アップテンポの演奏で踊りながら街へ戻ってくる。

この後半、踊りながらついて行く人々の一団をセカンドライン と呼ぶ。

セカンドラインの文化は、黒人コミュニティの「ソーシャル・エイド&プレジャー・クラブ」と呼ばれる相互扶助団体によって支えられてきた。
彼らは葬儀やパレードを主催し、演奏家を雇い、地域の人々を巻き込みながら歩きながら踊る祝祭の文化を育てていった。

J. P. Pemberton《Sons of Hope》(1902年)
ニューオーリンズのソーシャル・エイド&プレジャー・クラブによる街路パレードを描いた絵画

このセカンドラインは、黒人の身体的なリズム感と、ヨーロッパ系由来のブラスバンドの行進曲がごく自然に混ざり合う、もっとも典型的な現場のひとつだった。

そこで鳴り続けていた跳ねるような行進曲は、のちにジャズのスウィング(揺れるリズム)と呼ばれるフィールを形作る、重要な土壌のひとつになっていく。

スウィングは、抽象的な理論や練習室の中だけで発明されたものではなかった。
街角の葬列やパレードの中で、人が歩き、踊るリズムとして、すでに身体で感じ取られていたのである。


多文化の密度が、 即興を必然にした

ニューオーリンズに集まっていた人々は、もともと同じ楽曲や同じ楽譜を共有していたわけではなかった。

つまり、みんなが知っている決まった曲を最初から共有していたわけではない。

確かに、行進曲やラグタイムの楽譜は存在した。
しかし、その場その場で必要とされる曲目や、客のリクエスト、踊り手のノリのすべてを紙の上だけで管理することはできない。

だからこそ、誰かが吹き始めたその場限りのフレーズを耳で捉え、その場で合わせていくしかなかった。

この、耳で聴いてその場で反応する文化が、ジャズを即興音楽へと押し出していった根本的な理由のひとつだった。

ジャズの即興は、高度なテクニックを競うための技巧として生まれたのではない。

違う文化背景をもつ人間同士が、同じ場で一緒に音を出すために必要だった、いわば「共通語」として育っていったのである。


ジャズという名前が付く前の、 熱だけが先にあった

1900年代から1910年代初頭にかけて、現場の演奏家たちは自分たちの音楽をまだ「ジャズ(jazz)」とは呼んでいなかった。

「ラグタイム・バンド」
「ホット・ミュージック」
「ダンス・ミュージック」

呼び方はまちまちで、ジャズという語は当初、野球記事などで「勢い」「活気」を意味するスラングとして使われていたとも言われる。

それが1910年代半ばになると、新聞記事などで、新しいダンス音楽の名前として徐々に定着していく。

しかし、名前が定まるよりも前から、ニューオーリンズの街のどこへ行っても、ある共通の熱のような感覚を持つ音楽が鳴っていた。

複数の文化が同時に鳴ることで生まれる、混ざり方の妙、テンションのせめぎ合い、即興の呼吸。

のちに「ジャズ」と名付けられるその音楽は、まず名前より先に、人々の耳と身体の中に、確かな温度として存在していた。


「ジャズ」という名前が、先に街を出ていった

その熱が名前より先に存在していた一方で、「ジャズ」という言葉が商品として広い地域へ届く最初期の入口も、ほぼ同じ時期に生まれていた。

1917年、ニューヨークで Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)が録音した代表的な数曲が、レコードとして世に出る。
彼らはニューオーリンズ由来の演奏様式を、当時の録音技術と産業の回路を通じて「ジャズ」として商品化した最初期の例として知られる。

この録音は、現場の混沌の中で鳴っていた音楽そのものではないかもしれない。
だがそれは、ニューオーリンズの雑踏やパレードやダンスのリズムのように人々の耳と身体に馴染んだ熱を、レコードという別の「場」に再現し、広い地域へと運ぶ仕組みの始まりでもあった。  

この段階は、いまだ「ジャズ」という言葉やジャンルの意味が完全に固定していない時期である。
しかし、都市・産業・録音という装置が整い始めることで、やがて現場の熱が形式化され、共有され、別の場所でも反復されるようになっていく。


参考音源

現場のスタイルを伝える参考音源

1900年代初頭のニューオーリンズの当時の演奏の現場を直接伝える録音はほとんど残っていないため、ここでは当時形成されたスタイルを最も色濃く残す、1920年代の録音を参考音源として挙げる。

  • Ory’s Creole Trombone — Kid Ory’s Sunshine Orchestra(1921年録音)
    https://archive.org/details/78_orys-creole-trombone_kid-orys-sunshine-orchestra-papa-mutt-carey-kid-ory-dink-joh_gbia0215087a
    ニューオーリンズで育ったトロンボーン奏者キッド・オリーによる代表的録音。行進曲由来のリズム感と、複数の管楽器が同時に絡み合う集団即興のスタイルは、セカンドライン文化や歩きながら踊るリズム感を、音として最も直接的に感じ取ることができる。

  • Bogalusa Strut — Sam Morgan’s Jazz Band(1927年録音)
    https://archive.org/details/78_bogalusa-strut_sam-morgans-jazz-band_gbia0383890a
    ニューオーリンズで長く活動したトランペット奏者サム・モーガン率いる街のバンドによる録音。セカンドラインとダンスホールの中間にあるようなリズム感と、複数の管楽器が同時に絡み合う集団即興の感触が雑踏の中で混ざり合う音楽の一側面を伝えている。

  • High Society — Celestin’s Tuxedo Jazz Band(1926年頃の録音)
    https://archive.org/details/78_high-society_celestins-tuxedo-jazz-band-alphonse-picou-oscar-celestin-bill-matth_gbia0453690b
    ニューオーリンズのブラスバンド文化を代表するタキシード・バンドによる演奏。もともと行進曲として知られた曲が、クラリネットを中心とした装飾的な演奏と集団即興によってジャズ的に変容していく様子がよく分かる。街路・パレード・ダンス音楽が地続きだったニューオーリンズの音楽環境を示す例。

「ジャズ」という名前が商品化される最初期の録音

1917年に録音され、同年発売された Original Dixieland Jass Band による録音は、「ジャズ」という名前がレコードとして流通し始めた最初期の例として広く知られている。

  • Livery Stable Blues — Original Dixieland Jass Band(1917年録音)
    https://archive.org/details/original-dixieland-jass-band-livery-stable-blues-victor-18255-b
    1917年にニューヨークで録音され、同年発売された、ジャズとして最初期に商品化された録音のひとつ。ニューオーリンズ由来の演奏様式が、当時の録音技術と音楽産業の回路を通じて、「ジャズ」という名前で広い地域へ届けられていく過程を示している。

  • Dixieland Jass Band One-Step — Original Dixieland Jass Band(1917年録音)
    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:OriginalDixielandJassBand_DixieJassBandOneStep1917.ogg
    同じ1917年のセッションで録音され、Livery Stable Blues と同じレコードのもう片面として世に出た録音。ダンス向けの構成と明確な拍感を備えた演奏は、ニューオーリンズ由来のスタイルが、レコードという媒体を通じて共有される形へと整理されていく初期段階をよく伝えている。


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