【夫婦関係 人間関係】 なぜ人の話には「十分」がないのか
祖母は、長年通っていた病院に行くのをやめたことがある。理由は、体の不調ではない。医師が、話を聞いてくれなくなったからだ。
祖母は、自分の体の状態をできるだけ詳しく伝えたかった。今朝は右の膝がどう痛んだか。夜中に何度目が覚めたか。食欲がどう変わったか。そういう細部の一つ一つに、祖母なりの意味があった。
でも医師は、その途中で話を切り上げるようになった。「それで、今日はどうされました」と、要点だけを聞こうとする。祖母はそれを、「もう私の話をちゃんと聞く気がない」と受け取った。何度か通ううちに、腹立たしさは強くなっていき、ある日、別の病院に変えた。
医者としては、そろそろ診察に必要な話に戻したかっただけかもしれない。でも、患者はまだ話したそうにしている。ここで話を切れば、
「この先生は、全然話を聞いてくれない」
と思われる。かといって、全部聞いていたら診療は終わらない。次の患者も待っている。
どこまで聞けば、「十分に話を聞いた」ことになるのだろう。
人が誰かに話すとき、求めているものは一つではない。問題を解決してほしいこともあれば、意見がほしいこともある。「それは大変だったね」と言ってほしいときもあるし、自分が嫌だったことを誰かにも分かってほしいときもある。頭の中のもやもやを話しながら整理したいときもあれば、ただ誰かと話して一人ではない感じになりたいだけのときもある。一つの会話の中に、そういうものが混ざっている。
だから、「で、結局どうすれば解決するの?」と聞いても、「そういうことじゃない」となることがある。問題を解決することと、話すことによって得たいものが、そもそも違うからだ。
夫婦の会話でも、同じことが起きる。
妻が仕事から帰ってきて、一日の出来事を話す。一緒に働いている誰かが思うように動いてくれなかった話。窓口で対応した客が理不尽なことを言ってきた話。自分の判断が間違っていなかったかを確かめたいだけのときもあれば、判断の是非より先に腹の立った気持ちを分け合いたいだけのときもある。まだ答えの出ていない仕事の課題を、そのまま夫にぶつけながら、話しているうちに自分の中で方向を決めていくこともある。
夫はしばらく聞いて、
「それなら、こうすればいいんじゃない?」
と言う。妻は、
「別に解決策を聞いているんじゃない」
と言う。よくある話だ。
「女は共感を求め、男は解決したがる」と説明されることが多いが、もう少し一般的な問題として考えたほうが分かりやすい。二人が、同じ会話に別の仕事をさせているのである。夫は問題を処理しようとしていて、妻は感情を誰かと一緒に処理しようとしている。問題処理なら、「こうすればいい」で終われる。でも、感情の処理には、その線がない。
話している側は、自分の中に残っているものを見ている。まだ腹が立っている。まだ不安だ。まだ何となく引っかかっている。
聞いている側は、自分がどれだけ使ったかを見ている。もう30分聞いた。何度もうなずいた。同じ話も二回聞いた。
話し手は残量を見ていて、聞き手は消費量を見ている。同じ会話をしているのに、二人が見ているメーターが違う。
冒頭の診察室も、同じことが起きている。
患者が求めているものは、診断や治療だけとは限らない。不安を減らしたい。話を聞いてほしい。孤独を少し和らげたい。実際、高齢者医療では、患者とのコミュニケーションや生活背景を理解すること自体が重要だとされている。単純に「医学に関係のない話だから無駄」とも言えない。
ただ、医者には時間という、はっきりした制約がある。だから、どこかで線を引かなければならない。これは優しさがあるかないかの問題ではなく、有限の時間の中でしか応じられない、というだけのことなのかもしれない。
夫婦の場合は、もっとややこしい。診察なら、一応予約時間がある。夫婦にはそれすらない。だから境界線は目に見えず、目に見えないものは人格の問題に変換されやすい。
話を切られた側は、「私に関心がない」「冷たい」と思う。聞き続けている側は、「こちらの都合を考えてくれない」「重い」と思う。でも、その二つは目に見えないから、「足りない」と「もう十分だ」が衝突する。
ただし、話せば話すほどいいわけでもない。嫌な出来事を誰かに話すこと自体は、人間が感情を扱うためのごく普通のやり方だ。ただ、同じ話を何度も蒸し返し、二人でいつまでも考え込み続けることは、親密さを深める一方で、かえって不安や気分の落ち込みを強めることも分かっている。聞けばいいというものでもない。
祖母が病院を変えたのも、妻が「そうじゃない」と言ったのも、根っこには似たものがあるのかもしれない。
聞く側は、もう十分聞いたと思っている。時間も使った。話の内容も分かった。必要なら解決策まで考えた。でも話す側は、まだ自分の中に何かが残っている。
話し手は残量を見ていて、聞き手は消費量を見ている。同じ会話をしているのに、二人が見ているメーターが違う。
問題解決なら、解決したところで終われる。でも、共感には、ここまでやれば十分という明確な線がない。人の話を聞くことが案外難しいのは、たぶんそのためなのだと思う。
ちなみに、あの祖母は、今もあの医師に通っている。
怒って病院を変えたはずが、ほかのところはどこも長くは続かなかった。結局、「あの先生が一番ちゃんと診てくれる」ということになり、何ごともなかったような顔で、また通い始めている。
それでも祖母は、今でもときどきその医師の話をしながら、
「あの先生、人の話を聞かないんだよね」
と、こぼしている。
関連記事
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。記事作成の励みになります!