モンハンは、モンスターのいる待ち合わせ場所だった。
最近、モンハンを遊んでいて思った。
これ、コミュニケーションツールなんだな。
いや、友達と遊べることは知っている。『ワールド/アイスボーン』には、協力してクエストに出る仕組みも、チャットでやり取りする仕組みもある。[1]
でも、いまさら引っかかったのは、機能の話ではない。
「モンスターを倒すために、友達と集まる」。
それはそうなんだけど、反対から見ると、
「友達と集まって遊ぶために、モンスターがいる」
とも言えるんじゃないか。
倒すべき敵であると同時に、集まる理由でもある。
そう考えたら、以前書いたポケモンやゼルダの面白さまで、少し違って見えてきた。
話題を用意しなくても、同じ出来事が起きてくれる
ただ「話そう」と言われると、何を話そうか考えることがある。
でも、一緒に何かをしているなら、その「何か」が話題になる。
例えば、狩りの最中なら。
「そっち行った!」
「助かった!」
「次、これ行かない?」
気の利いた話を持ち寄らなくても、目の前の出来事に反応するだけで、やり取りが生まれる。
もちろん、ずっと喋っている必要もない。黙って同じ敵を追っている時間だって、一緒に遊んでいる時間だ。
会話が途切れても、遊びは途切れていない。
ここが、単なる通話とは違うところだと思う。
ゲームは会話を流すための回線だけではなく、会話のきっかけを作る。同じものを見て、違う反応をして、その違いでまた笑える。
「今日は何を話そう」ではなく、「今日は何を一緒にやろう」から始められる。
モンハンをコミュニケーションツールだと感じたのは、このことだったのかもしれない。
自分と遊ぶ。世界と遊ぶ。人と遊ぶ。
ここから、ゲームの楽しさを、いったん三つの方向に分けてみたくなった。
一つ目は、自分を楽しむこと。
できなかったことができる。敵の動きがわかる。操作がうまくなる。試した作戦が通る。知らない場所を、自分の足で見つける。
キャラクターの能力が伸びることもあるけれど、プレイヤー自身の判断や技能が伸びる楽しさもある。
前の自分と、今の自分の違いがうれしい。
二つ目は、世界を楽しむこと。
キャラクターが好き。装備のデザインが好き。音楽が好き。あの景色を見たい。この世界に、もう少しいたい。
ここには、作り手の世界観や自己表現、デザイン、アートワークに触れる楽しさがある。
別に、攻略の役に立たなくてもいい。好きな街で好きな音楽を聴いているだけで、十分に遊んでいる。
すべての魅力が、強さや効率のために働く必要はない。
三つ目は、人と楽しむこと。
競う。協力する。見せる。交換する。同じ目的に向かう。友達と箱庭に集まって、たいした目的もなく遊ぶ。
自分一人では生まれなかった展開が、他の誰かがいることで生まれる。
これは、プレイヤーの人数による分類ではない。楽しさがどこへ向かっているか、という分類だ。
探索だって、自分で見つけた喜びと、作られた世界に触れる喜びが重なっている。きっちり仕切れる三つの箱というより、行き来できる三つの方向なんだと思う。
ゼルダは「自分がわかる」と「世界が広がる」が重なる
初代ゼルダの記事で驚いたのは、自分の知識や道具が増えると、同じ世界の見え方が変わることだった。敵の動きが読めるようになる。道具を手に入れて、気になっていた場所に戻りたくなる。世界を理解することが、そのまま自分の成長になっていた。[2]
今回の三つの方向で考えると、自分を楽しむことと、世界を楽しむことが、強く重なっている。
「あそこには何があるんだろう」が、自分で考えて試す理由になる。
わかったことが増えると、その世界をもっと歩きたくなる。
世界が好きだから、自分が動く。
自分が動いたから、世界がもっと面白くなる。
以前のポケモンの記事でも、一つの要素に複数の役割が重なっている設計に感心した。今回はそこに、役割だけでなく、複数の種類の喜びも重なっていたんだな、と感じる。[3]
ただ、ポケモンには、そこからさらにもう一本、外へ伸びる道があった。
ポケモンは、初代から「一人の外」を作っていた
ポケモンの通信機能は、考え直すほどすごい。
1996年の『赤・緑』の段階で、通信ケーブルを使った交換と対戦があった。ソロの冒険をシリーズとして煮詰めてから、後になって交流を足したわけではない。[4]
しかも、「通信できます」で終わっていない。
赤と緑では出現するポケモンが違う。人からもらったポケモンは育ちやすい。任天堂の公式講演でも、こうした特徴はプレイヤー同士の交流を促すために設計したものだと説明されている。[5]
つなげる機能だけでなく、つなぎたくなる理由がある。
見た目が好きで捕まえる。
育てているうちに、自分の一匹になる。
その一匹を、誰かに見せたくなる。
交換したり、戦わせたりしたくなる。
世界の魅力が、自分の冒険になって、その冒険が、他人と遊ぶ材料になる。
対戦なら、強さを試せる。
でも交換なら、強さだけが価値ではない。
自分が相手より弱くても、相手の持っていない一匹を持っていれば、「交換しよう」が生まれる。違っていることそのものが、関わる理由になる。
任天堂の当時の紹介ページは、図鑑完成のためにゲームの外で仲間と情報を集めることまで、遊びの一部として説明していた。画面の中だけで冒険を完結させる発想ではなかったわけだ。[4]
ここが、いま読むとじわじわすごい。
一人で遊んでいた時間が、そのまま友達と遊ぶ材料になる。
同時に同じ場所を冒険していなくてもいい。それぞれが別々に積み重ねたものを、あとで持ち寄れる。
ポケモンがつないだのは、二台のゲームボーイだけじゃない。
二人が別々に過ごしてきた、冒険の時間だった。
三つを全部入れれば、面白くなるわけではない
だからといって、すべてのゲームに対戦や交換を付ければいい、という話ではない。
一人で静かに世界に浸りたいときもある。自分の腕前だけを試したいときもある。誰かに合わせなくていいことが、その作品の魅力になる場合もある。
三つは、全部満点にするための採点表ではない。
そもそも、一人用のゲームであっても、「あそこ、どうやった?」「そんな方法があったのか」と、遊んだあとに話せる。僕がゼルダを遊んで記事を書き、それを誰かが読んでくれることも、自分と世界の楽しみが、人との楽しみへ出ていく形だと思う。
逆に、通信機能があっても、交流が義務や負担になるなら、楽しいとは限らない。
大事なのは、機能が何個あるかではなく、一つの楽しさが、次の楽しさを生んでいるかなんだと思う。
好きだから、挑みたい。
できたから、見せたい。
一緒に遊んだから、また自分でも試したい。
そうやって遊ぶ理由がつながっていると、「次もやろう」が自然に出てくる。
モンスターは、友達が集まる焚き火でもある
そう考えて、モンハンに戻ってくる。
同じモンスターが、自分の腕前を試す相手になる。
その姿や動きから、作り手の世界を感じる。
そして、友達と一緒に追いかける相手にもなる。
敵が一体いる。その一体をめぐって、自分と、世界と、他人との関係が動く。
だから、「友達と遊べば何でも面白い」で片づけるのも、ちょっと違う。
その友達と、何を一緒にできるのか。どんな出来事が起きるのか。成功を喜べるのか。失敗したあとに、「もう一回」と言えるのか。
人と遊ぶ楽しさを、ゲームの側がどう受け止めてくれるか。その設計にも面白さがある。
もちろん、うまくなりたい。強い敵を倒したい。
でも、その夜に持ち帰るものは、討伐の成果だけとは限らない。
「あのとき危なかったね」とか、「あれは笑った」とか。
ゲームとしての進捗とは別に、一緒に過ごした時間が残ることもある。
巨大なモンスターは、倒すべき敵であると同時に、友達が集まる焚き火でもある。
ずいぶん暴れる焚き火ではあるけれど。
自分と遊ぶ。世界と遊ぶ。人と遊ぶ。
モンハンをコミュニケーションツールだと感じたところから、ゲームを続けたくなる理由が、少し見えた気がした。
「何か話そう」ではなく、「一狩り行こう」。
そう誘える場所があることも、ゲームの面白さなんだと思う。
関連記事・参照資料
カプコン『MONSTER HUNTER: WORLD / ICEBORNE』公式Webマニュアル:クエストをマルチプレイで遊ぶ/コミュニケーション
osakenpiro「初代ゼルダの伝説をプレイすると老害になってしまった件」
osakenpiro「ポケモン初代をプレイしてみたら、理想のオープンワールドだった件」。プレイ対象は初代のリメイク『ファイアレッド・リーフグリーン』。
任天堂「ポケットモンスター赤・緑」公式紹介。
任天堂「岩田聡 GDC講演内容」2011年3月2日(現地時間)、3ページ。
