【連載小説】 何を知る #104 甘い顔で笑うから ⑥
化学準備室はまだ電気がついていた。ドアを雑に3回叩いて、開けた。こちらに背中を向けている小野田の匂いが勢いよく鼻に入ってくる。今日は、わたしの鼻は正常らしい。
「あら美衣羽、どうしたの?」
実花先生の声で、黄色のシャツの小野田がこちらを振り向いた。
「あの、先生……」
と言いながら立ち止まって、鞄の中から目的のものを探す。
「昨日は、ありがとうございました」
と言いながら、教科書に潰されてしまったお菓子セットを小野田に差し出した。
「……俺に?」
「はい」
わたしとしっかり目を合わせた小野田が「ありがとう」と、口を尖らせたいつもの笑顔で言う。
「……いっぱい、セレクトしてもらって……」
小野田はお菓子セットを大事そうに持ちながら言ってくれたけど、外側の透明の袋には余計な折り目が入り、結んだリボンは縦になっていて、逆に気まずい気持ちを覚える。
「……紅茶だけでは少ないって思ったから……。先生の紅茶を飲んじゃったから、補充しないといけないと思って……」
と言うと、口を閉じた小野田が肩を震わせながら笑った。
「いいよ、そんなに気を遣わなくて。……ありがとう」
「いえ、その紅茶は、近所の中学校の吹奏楽部のお手伝いに行ったときにお礼として貰った、焼き菓子の詰め合わせに入ってただけで……」
「そう」
「でも、なんか、ちょっと酸っぱくて飲めなくて……」
「……あ、不用品ってこと?」
「いや、違います。違います、本当に」
とわたしは必死に主張したが、小野田は肘で顔を隠して、わたしに背を向けて笑っている。
「ほんとに違います……」
よほど面白かったようで、小野田はまだ笑っている。実花先生も静かに笑っていたけど、何か思い出したみたいで、実験室に繋がったドアから出て行ってしまった。
「……だって、プレゼントできる紅茶がこれしかなかったから……。いつも、おっきな袋にいっぱい入ったやつを買うから、これしかなくて……」
「……ありがとね。気を遣ってくれて」
「本当に、不用品じゃないです……」
と念を押したが、全然信じてくれない。
「お誕生日だから、グミとキャンディを一緒に入れておきました……。お誕生日おめでとうございました」
「どうも」
口を尖らせたいつもの笑顔を見せた小野田が、にわかに授業中みたいな真面目な顔になって、
「……眠いの?」
と訊いてきた。
……なんでわかったんだろう。
と思いながら正直に「はい」と答えた。
「昨日は眠れなかったから、流星群を見てたんです。思ったより見えました。儚くて切なくて綺麗でした」
わたしがそう言うと小野田は「ふうん、そう」と興味がなさそうな反応だったので、思わず、
「え、先生もそう思いませんでしたか」
と訊ねた。
「あ、いや、俺、見てないんだよね。……夜は眠いタイプだから」
「え……」
……『夜は眠いタイプ』って、なに……?
人間、みんなそうなんじゃないの……?
……っていうか、人には勧めるけど、自分は見ないんだ。
変な人……。
「……この時間までよく頑張ったね。お疲れ様」
と小野田に労われ、「あ、はい」と返事した。
「……じゃあ、お疲れ様でした。失礼します」
なんか色々想定外だったな……と思いながら廊下に出た。
「中村」
ドアに手をかけた瞬間、小野田の声が聞こえた。
「はい」
「おやすみ」
「…………」
……わたしは数秒言葉を失って、言葉を失ったまま頭を下げて、静かにドアを閉めた。
……びっくりした……。
『おやすみ』と言った瞬間の小野田は、伏し目がちで、ちらっと歯が見えていた。
初めて見る顔だった。
小野田の顔は4つしかないと思っていた。授業中の真剣な顔、廊下を歩いているときの感情のない真顔、誰かと話しているときに見せる他人を知ろうとするときの顔、口を尖らせて笑う顔。
5つ目のその顔は……。
……とっても、甘い笑顔で……。
ちょっとだけ小野田のことを、可愛い、と思ってしまった。
「……あんなおかしな人、可愛くないしかっこよくもないしっ」
と独り言を言いながら、一人で寮に帰った。
●・○・●・○・●・○・●・○・●
23時の点呼を終え、ベッドに上がって電気を消し、布団を被った。
『自習時間中にちょっと寝ちゃったから、寝れなくなっちゃったかも笑』
『2日連続で夜眠れなかったらヤバいんじゃない?』
『さすがに今日は寝れると思う』
そこで、彼氏のタカちゃんからの返信は途絶えた。
……わたしも寝ようっと。
――「おやすみ」――。
小野田の声で再生されて、あの甘い笑顔が浮かぶ。
……なんで……?
すぐ近くにあったはずの眠気が吹っ飛んでしまい、わたしは体を起こした。歌穂ちゃんが使っていたベッドが目に入る。
……歌穂ちゃんも、見たことあったかな。
……あったよね、たぶん……。
――「だって、小野田先生がかっこよかったから、つい気を引きたくなっちゃって……」――。
小野田の最初の授業のとき、歌穂ちゃんは授業の進行を止めてまで、歓迎会の司会を代わってほしいと頼架に訴えた。そんな歌穂ちゃんをそれまでに見たことがなかったのでわけを訊ねると、歌穂ちゃんはそう言った。
……あの人、小野田っていうんだ。
……かっこよかったかな?
……ってか、あの人結構恐ろしいよ。今日が初対面だったのに、歌穂ちゃんの様子が『いつもと違う』ことに、なぜか気がつくんだから……。
……と頭をぐるぐるさせているわたしに歌穂ちゃんは、
「みんなには内緒ね」
と口に人差し指を当てながら言った。
『内緒ね』と言ったものの、歌穂ちゃんは次の日から教室で「小野田先生ってめっちゃかっこいいよね」と言って回り、4月のうちに谷町先生も含めてクラスのみんなが、歌穂ちゃんが小野田のことが好きだと知っていた。
わたしと二人で夜遅くまで防音室で練習しているときの休憩時間、
「小野田先生を『摂取』してくる」
と、にっこり笑顔で走って化学準備室に行っていた歌穂ちゃんは……。
……たぶん、見たことあったよね。
再びベッドに横になって、布団を頭まで被る。
……でも、歌穂ちゃんが小野田について『可愛い』って言ってるのを、聞いたことがないんだよな……。
あの顔は絶対、かっこいいより可愛いだと思うんだけど……。
頭の中に浮かんだ?マークがどんどん分裂していき、増えすぎた?マークがパチンと弾けてから、思う。
……それに誰も、小野田の匂いが強いことを、わかってくれないんだよなあ……。
……やっぱり、わたしが変なのかな……?
眠ろうとして目を閉じると、小野田のあの甘すぎる笑顔が思い起こされた。
……わたしの睡眠の邪魔をしないで……。
『夜は眠いタイプ』らしいから、あの人は今ごろもう寝てるんだろう。昨日一睡もできていないわたしより先に。
……なにそれ、めっちゃ腹立つんだけど。
怒ったわたしは脳内で甘い顔で笑う小野田に、無数の豆を投げつけた。
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