カーブドッチ物語 #12|100人の手による慣らし弾き
ありがたいご縁から迎えた一台のピアノは、育てる芸術品でした。理想の音を奏でるために、ここから長期間に及ぶ慣らし弾きが始まります。
後半は音楽から離れて、本業であるワイン事業のお話。酒屋さんに販路を切り拓いていった当時のことを思い起こします。
想像以上に美しいピアノ
ベーゼンドルファーは楽器でありながら、ウィーンの工芸家具を思わせる佇まいのピアノです。マホガニーをあしらった黒塗装の鏡面仕上げは高級感に溢れ、その意匠はクラシカルで気品に満ちています。

細部まで職人の手作業で仕上げられるその姿は、一台ごとに異なる個性が宿ると言います。ウィーンの家具工芸の技を継ぐ存在感は圧倒的。眺めるほどに優雅で、芸術品のような美しいピアノです。

みんなで育てたベーゼンドルファー
新品のピアノは、部品同士がまだ馴染んでおらず、音が金属的で固い印象を与えます。また、調律しても狂いやすい状態なのだそうです。
そこで欠かせないのが、少しずつでも毎日弾き込む「慣らし弾き」です。
さまざまな強さで、幅広い音域を奏でることで、ピアノは少しずつ育ちます。やがて、音はまろやかに深みを増し、音程が安定して長持ちするようになるのだそうです。
大切なのは、毎日ただひたすら弾くこと。しかも、できる限り多くの人の手で。さて、この作業、誰にお願いすれば良いのでしょうか。

ちょうどこの頃、結婚式が増えて週末のレストラン営業が難しくなり、別の場所に新しいレストランを建てたばかりでした。カーブドッチホールは、貸し切り専用として再スタートしていたので、気兼ねなく慣らし弾きをお願いできる環境が整っていたのです。
今回も頼みの綱は、ヴィノクラブ会員向けの会報誌「ワインのひとりごと」でした。方法はそれしかありませんでしたが、結果は驚くほどの反響でした。
会員さん同士が声をかけてくださったのか、次々とお問い合わせが舞い込んだのです。
これからコンクールに挑む音大生は、「弾くピアノがベーゼンドルファーだから、本番前に慣れておきたい」と訪問。飛行機に乗り、わざわざ泊まりがけで訪れた母娘もいらっしゃいました。
毎日のように通ってくれる近所の高校生もいれば、大人になってからピアノを習い始めた中高年の方も多く参加してくださいました。
音楽ホールでベーゼンドルファーを奏でるなんて、自宅のピアノよりも気持ちいいに決まっていますから、一年間で延べ100人以上が慣らし弾きに携わってくれました。そのおかげで、ピアノは無事にデビューの日を迎えることができたのです。

ついに、念願のコンサート開催
慣らし弾きを終えたベーゼンドルファーは、木のホールとの相乗効果もあり、豊かで心地よい音の広がりを生み出すようになりました。
やがてクラシックに限らず、ジャズやシャンソン、ときには古楽器の演奏会まで、多彩な舞台として大活躍。とりわけ、2000年にピアノが備わってからの5年間は、一流のクラシック奏者を招いたソロや室内楽の演奏会が続きました。
演奏家との出会いも素晴らしい体験でした。時が経った今も、印象に残っている方々を少しご紹介します。
☆N響首席フルート奏者|小出信也氏
☆N響首席チェロ奏者|藤森亮一氏
☆新日本フィル首席トランペット奏者|大倉滋夫氏
☆新日本フィル首席オーボエ奏者|古部賢一氏
☆ロン=ティボー国際ピアノコンクール優勝|藤原由紀乃氏
☆ドレスデンフィルハーモニーオーケストラ首席チェリスト|ライナー•ギンツェル氏
☆ジュネーブ国際コンクール チェロ部門グランプリ|ユルンヤーコブ・ティム氏
☆ジュネーブ国際コンクール ピアノ部門グランプリ|デジレ・ンカウア氏
☆N響、東フィル、読響などのオーケストラのオルガン担当|小林英之氏

いつも「ワインのひとりごと」で
アルバニア生まれのヴァイオリニスト・パパヴラミさんが訪れたのは、彼がまだ20代の頃。
サラサーテ国際コンクール優勝という輝かしい経歴をお持ちの方ですが、ワイナリーを気に入ってくださり演奏会のあともしばらく滞在していかれました。

私が早朝に出勤すると、決まってぶどう畑の畦道を黙々とジョギングする姿に出会ったものです。ぶどう畑を若きヴァイオリニストが駆け抜ける爽やかな朝の光景は、一枚の絵のように美しく、今も心に残っています。
その後、パパヴラミさんはフランス政府から「芸術文化勲章シュヴァリエ」を授与され、今では音楽家としてのみならず、俳優・作家としても才能を発揮する鬼才です。
その一方で、故国の政変に巻き込まれて両親とともにフランスに亡命。ヴァイオリンひとつで世界への道を切り拓いた方でもあります。お会いした若い頃から、静かな佇まいの奥に、人生に立ち向かっていく毅然とした覚悟のようなものを感じたことを思い出しました。
クライマックスはベルリンフィル
2002年、カーブドッチ創立10周年を記念して迎えたのは、ベルリンフィルの若手リーダー、トマス・ティム率いるベルリンフィル弦楽四重奏団と、パリ在住のピアニスト、ルリィ・サカグチさん。
カーブドッチホールでのアフターパーティー付き演奏会は200席がぎっしりと埋まり、演奏者を交えた和やかな前夜祭となりました。
翌日の舞台は、新潟市音楽文化会館。650席の自由席でしたが、チケットを売り過ぎたようです。開場と同時にお客様が雪崩れ込み、みるみる満席に。
急遽、車椅子スペースにまで椅子を並べ、それでも足りなくなりそうで、最後はステージ上の演奏者のまわりに席を設ける準備をしました。何とか席が足りてホッとしましたが、もし本当に舞台にまで座席を作っていたら前代未聞。会場側から大目玉をくらい、出入り禁止は免れなかったでしょう。冷や汗をかいた一幕でした。

ちょうどこの年は、日韓共催のサッカーワールドカップの真っ最中。ベルリンフィルのメンバーは試合観戦を優先し、リハーサルをサボってまでテレビの前をガンとして動きませんでした。仕方ないですよね、ドイツは代表的なサッカー王国ですもの。
演目のメインは、シューマンのピアノ五重奏曲変ホ長調 作品44。さすがの一体感と高揚感に満ちた響きは、これまで聴いた中で最も感動的な演奏でした。
でも、この演奏会をピークにしばらく本格的なクラシックコンサートから遠のくことになるのです。
ピアニストを待ち続けて
ありがたいことに、本業のワイナリー事業が大きく躍進し、新たな業態へのチャレンジや新潟市内・首都圏への店舗展開に追われる日々が続きました。
しかし、音楽から少しずつ遠ざかっていった理由は、業務に忙殺されたことだけではありません。
ベーゼンドルファーを迎えてから7〜8年。ピアノは確かに素晴らしい可能性を秘めていました。けれども、その可能性を託したいと思えるピアニストに、どうしても出会えなかったのです。
「何か違う」
「この弾き方ではない」
「私が聴きたいのは、この音ではない…」
そう感じるたびに、無理なのかもしれないと諦め、少しずつ気持ちが冷めていく自分がいました。
そして、心からこのピアノを託したいと思えるひとりのピアニストに出会うまでに、実に20年という歳月を要することになります。
音楽ホールとピアノについては、これでひとまず区切り。続きはまた改めて。ここからは、再びワインの物語をお楽しみください。
酒屋さんへの販路開拓
ワインを売るのは、本当に大変でした。初年度は、地元の卸問屋さんがご祝儀取引として力を貸してくださり、取引先の酒屋さんの棚に一斉にワインを並べてくれました。
おかげでまとまった売上を立てることができ、「業界ってありがたいな」とつくづく身に染みて感じたものです。
さらに驚いたのは、その問屋の社長さんが、出資の呼びかけにも応じてくださったことでした。直売を掲げるワイナリーなんて、卸屋さんにとっては目の上のたんこぶのような存在。それでも社長さんは、「新しい風が吹くのはいいことだ。必ず日本の酒類業界の発展につながるから」と力強く背中を押してくれました。
もっとも、直売なんてかっこよく言ったものの、現実はそう甘くはありません。
ワイナリーは公道から500メートルも奥まった場所にあり、しかも車のすれ違いも難しいデコボコ道。怖くなって途中で引き返す人も少なくありませんでした。「いやぁ、3回目でやっとたどり着いたよ」と笑うお客様もいたほど。
ただ漫然とお客様が来るのを待っているわけにはいきませんでした。
地道な全国行脚を救ったのは…
そこで私は、新潟で畑作業をしていた弟と二人で、ワインを売るために全国の酒屋さん巡りを始めました。
ワインの営業はまったくの素人。業界の常識も分からず、手当たり次第に飛び込んでは、空振りばかりが続きました。でも、ここでも救いの神が現れます。新潟の日本酒です。

ちょうど、地酒ブームの真っ只中。越乃寒梅を筆頭に八海山や〆張鶴などの名だたる蔵元が、淡麗辛口の日本酒王国を築いていました。
全国の酒屋さんがこぞって「新潟詣で」をするほど、新潟の酒づくりへの信用は絶大。その信頼が、ワインにまで光を当ててくれたのです。
新潟のお酒を扱う酒屋さんを訪ねると、真剣に耳を傾け、「いいねぇ、ぶどうの香りがするよ」「いつも新潟には儲けさせてもらってるからね」とワインを試飲して取引に応じてくれました。
誠実で品質本位の新潟の酒づくりが、私たちを助けてくれた瞬間です。他の県で始めなくて良かった! と心から新潟の地に感謝しました。
こうして初年度は、卸問屋さんと全国50軒の酒屋さんでの売上が大半を占め、ワイン事業は順調にスタート。会員制度も成功し、レストランや結婚式事業も軌道に乗り、初年度から売上が順調に伸びていったのです。
次回も、本業であるワインづくりのお話です。創業当時はただがむしゃらに走るだけですが、5年も経つといろいろな課題が見えてきます。カーブドッチも例外ではなく、大きな方向転換を迫られることになります。
次回もお楽しみに。
