カーブドッチ物語 #13|三男の史人がフランスへ
理念に共感し、未来をともに描いてくださった全国の酒販店の皆様は、本当にかけがえのない存在でした。60本単位という多大な発注ロットも、快く受け入れてくださったのです。
ですが、創業当初、思い描いていた理想のワインづくりとは裏腹に、すぐに根本的な見直しを迫られることになりました。
酒屋さんからの厳しい声
肝心のワインづくりは思うようにいかず、酒質はいつまで経っても満足のいくレベルには届きませんでした。
やがて、情熱を持って販売してくださっていた酒屋さんからも、率直な声が寄せられるようになります。
「ワインの味が良くならない」「能書きだけでは売れない」「いつまで待てばいいのか。言い訳はもう聞きたくない」という苦言を残して、次々と離れていく酒屋さん。けれど、その表情にはむしろ悔しさが滲んでいたのを覚えています。
あの頃、私たちのワインを手売りするのは大変なご苦労だったと思います。名もない初めて見るワインが、簡単にお客様の心に届くはずがありませんから。
胸に突き刺さる言葉を、ただ受けとめることしかできなかった当時。それでも、苦しい時期を支えていただいた感謝は今も変わることはありません。
なぜ酒質が良くならなかったのか。その要因は、初歩的な判断ミスにありました。
植える品種を間違えていた
カーブドッチのワインづくりは、つくり手の落さんが学んだドイツの製法から始まりました。新潟を選んだのも、比較的冷涼な気候がドイツやオーストリアの北方品種に適しているはずだと考えたからです。
ところが実際には、新潟の夏は予想以上に暑く、リースリングやケルナーといったドイツ系品種の栽培には不向きだと分かってきました。
夏の厳しい暑さで樹が疲弊し、果実の酸が保てず糖度も上がらない。結果として、期待した収量の確保もできませんでした。つまり、植えた品種が土地に合っていなかったのです。
未来を見据えた時、私たちは早急な判断を迫られました。
答えは「植え替え」です。
より南のフランスやスペイン、イタリアの品種に植え替えることを決断。ところが、ワインの製法そのものにも大きな問題がありました。
正反対のアプローチへと転向
創業当時、機材もドイツ製法に添ったものを選んでいたのです。

ドイツのワインづくりは、白は酸を活かしたフルーティで香り高い仕上げが特徴。赤も樽を使わない早飲みタイプが主流でした。大きなタンクで大量に発酵させ、すぐ瓶詰めをして出荷する。製造工程は比較的シンプルで、現金化の早い製法です。
一方のフランスは、南北に長い地形ゆえに気候も多様で、育つ品種もさまざま。重視されるのは、個性を活かした複雑なつくり方です。
発酵段階から品種ごとに細かく処理を分け、樽で時間をかけて熟成させて経年変化を楽しむ。
樽庫や貯蔵セラーといった設備も欠かせません。そこで、海外研修で訪れたフランスのワイナリーを真似て、格好いい樽庫も新築しました。

ところが、なんとこの段階で落さんにフランス品種を扱った経験がないことが判明。私は、「フランスのつくりが分からないなんて、今さらそんな…」と途方に暮れました。
苗の植え替えは時間をかければ何とかなるけれど、肝心のワインは誰がつくるのか。
振り返れば、この時こそが最大の危機だったのかもしれません。

ただ、冷静に考えれば希望もありました。
白ワインのシャルドネ、セミヨン、ソーヴィニヨン・ブラン。赤ワインのピノ・ノワール、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー。世界の最高峰ワインを生むのはフランス品種ばかり。
その栽培は、つくり手にとっては憧れそのものです。もし実現すれば、カーブドッチも銘醸ワイナリーの仲間入りができる。その可能性が見えてきたのです。
とはいえ、憧れている余裕などなく、目の前の危機をどう乗り越えるかに必死でした。
三男の史人がフランスへ
この時、鎌倉に残してきた3人の息子たちの顔がふと浮かびました。子育ては実母に任せきりで、私はほとんど単身赴任のような状態。
でも、息子たちは小学校の夏休みに新潟に遊びに来ていたので、ワイナリーのことは知っています。ダメ元で「フランスでワインの勉強をしてみない?」と声を掛けてみたのです。
3人ともまだ学生。普段は放ったらかしなのに、こんな時だけ頼るなんて、母親失格だなと思いました。
私の問いかけに、長男は「アメリカでホテルの勉強をしたい」と即答。次男も「フレンチのシェフになりたい」と即答。
え? もう決めているわけ? そんなこと聞いてないよと驚く私の横で、三男が小さな声で「何なら、僕行ってもいいよ‥」と呟きました。
思わず耳を疑いましたが、「ぶどうの栽培ならやってみたい。ワインは飲んだことないけど」と言うのです。
そりゃ、まだ高校生だからね。三男の史人(ふみと)は、昔から家の庭でひとり黙々と野菜を育てるのが好きなちょっと内気な子でした。それも実がなるのが楽しかったらしいのです。
母がよく「インゲン豆をくれたのよ」と教えてくれました。もちろん、私はそんなこと知りませんでしたが。つまり、ワインではなくぶどうに惹かれたようでした。
先の保証はないけれど
「フランス、行ってみる?」
「飛行機に乗ってみたいから、行ってもいいよ」
なんとものどかなやりとりの末、大学受験を取りやめて卒業後に留学することになりました。
史人は末っ子だからか、保守的で頑固なところがあります。元気な兄2人に押しつぶされそうで、家では少し影の薄い存在。そんな子に、カーブドッチの未来を託して大丈夫だろうか。いや、それ以前に、この子の将来をこんな形で決めてしまって良いのだろうか。
一瞬の迷いはありましたが、史人の気が変わらないうちにと、着々と留学の準備を始めました。他に道は見当たらなかったのです。私は、この子に、一縷の望みを託しました。
会社を始めたばかりで、社員を海外研修に出す余裕はありません。
史人にしても、やってみなければ分からない。そこで教育ローンを組み、自費での留学に踏み切りました。途中で気が変わって「やーめた!」となっても、自費なら誰にも文句は言われない。せめて別の道を選べる余地を残しておいてあげたかったのです。
聖地で学ぶ、ぶどうとワインのすべて
フランスには全くツテがなかったので、まずは2人で東京のフランス大使館を訪ねました。「研究機関ではなく、実地で学べるワインの学校はないか」と聞いたところ、ありました!
紹介されたのは、CFPPA(Centre de Formation Professionnelle et de Promotion Agricole)でした。
場所はブルゴーニュのボーヌ。ワインの聖地と呼ばれる場所であり、ワインラバー垂涎のグランクリュの畑「コートドール(黄金の丘)」に囲まれた学校です。ここで栽培と醸造がみっちり学べる2年間の長期課程を目指すことになりました。
授業内容は実に幅広く、ぶどうの構造や生理学といった基礎知識から、土壌と畑の維持管理、寄生虫や病気への対応、機械の操作・メンテナンス・調整、生態環境の基礎にまで及びます。
何より現場での実作業が中心で、机上の学問ではなく、「ぶどうと向き合い、ワインをつくるための実学」が徹底されていました。

身ひとつで渡仏した息子
1998年、史人は高校を卒業すると同時に、荷物ひとつでフランスへ旅立ちました。
まずは言葉の壁を越えることから。CFPPAはフランスのワイン農家の子弟が通う学校ですから、受験から授業まですべてフランス語なのです。そこで、パリ南西の町・ランブイエにある全寮制の語学学校「シャトームーラン」に入学しました。
シャトームーランは直訳すると「風車の城」。その名の通り、古城をそのまま使った校舎でした。地下にはピアノがあって、陽気なオランダ人と連弾したり、仲間と歌ったり。言葉が通じなくても、サッカーや音楽でコミニュケーションが取れたと言います。
当時最も厳しいと言われていたカリキュラムを学び、フランス人は一人もおらず全員が外国人。最初は公用語の英語が上達して、いつの間にかフランス語に切り替わっていったとか。
「人生でこんなに勉強したことないよ」と振り返るほど必死に学び、一年半で全過程を修了。無事に、CFPPAへの入学を果たしました。
子どもまで巻き込んで、私はいったい何をしてるのだろう…と。
夜中に急に不安になって眠れないことも度々でした。メールやLINEがある今とは別世界。時差がある上に、やっとつながった国際電話もいつも「お金が足りない」という話ばかり。
いつだったか、こんな珍騒動もありました。通学用に買った中古車を停めていたら、なんと窓ガラスを割られてハンドルだけ盗まれていたのです! 乗ろうとしたらハンドルが消えているって、そりゃ困りますよね。
フランスでは日本と違って車検がゆるく、エンジンがかからなくなるまで乗り潰すのが当たり前。車の管理もすべて自己責任というお国柄なのだそうです。

知識と技術、そしてワインを愛する心を携えて
語学学校に1年半、ワインの専門学校に2年、さらに地元ワイナリーでの研修を経て、史人は4年ぶりに日本へ戻りました。
母親として私ができたのは、せっせとお金を送り続けることだけ。けれど彼は、すべて自分でやり抜き、ワインを心から愛する人間へと成長していたのです。
かつては保守的だった子が、派手な金髪に染め、心なしか鼻も高くなり、どこかフランス人のような雰囲気をまとって、22歳の青年として目の前に現れました。
その後、カーブドッチに入社してワインづくりを始めると、本来の性格が現れてきました。
慎重で理屈っぽく、納得しないと前に進めず、いちいち面倒くさい。けれど同時に、楽天的で、懲りないところもある。そんな二面性も強みに変えて、4年後の2006年には栽培・醸造長に就任。今では立派な醸造家へと成長しました。
ぶどうの植え替えには、多大な経済的負担と、何より心の痛みが伴いました。不思議と当時の記憶はあまり残っていません。スタッフも「こんなこともあるのだ」と受け止め、黙々と作業を進めてくれました。
でもこの苦い経験こそが、カーブドッチの未来を大きく変えた希望の品種「アルバリーニョ」との出会いへとつながっていくのです。
次回もお楽しみに。
