カーブドッチ物語 #07|出資者求めて全国行脚
資産家仲間の離脱でチームが空中分解。
正直、このまま止めてもいいと思いました。あの時、失業した弟がいなかったら、私もワイナリー事業から手を引いていたでしょう。今となっては弟に感謝ですね。
ここから、免許取得と資金調達に奔走。建物の工事も始まります。3つを同時に進めながら、いよいよカーブドッチの開業です。
崖っぷちの免許申請
ワイン造りには「果実酒製造免許」が必要です。でもこの免許、建物や醸造設備、原料のぶどうまで用意してはじめて免許が出る。つまり、免許が出るかどうか分からないのに、先に大きな投資をしなければならないのです。
しかも、ぶどうを収穫する秋に免許が間に合わないと、一年を棒に振ることになります。
もし、免許が間に合わなくてぶどうが腐ったら? そもそも免許って簡単に取れるの? 次から次へと疑問が湧き、頭の中はパニック状態です。
思い出したのは「どぶろく裁判」。最高裁までいって敗訴したという記事を新聞で読みました。無免許でお酒を造るのは犯罪。いくら自分用であってもダメです。
個人企業は免許の取得が難しいとも聞きました。酒造免許は国税局が与え、所轄の税務署長名義で交付されます。お酒には酒税がかかるため税務署管轄なのです。幸い、落さんが前職で免許取得に関わったから「大丈夫」とのこと。…本当でしょうか?
大きな志を秘めた社名
免許申請と同時に、資金調達も進めなくては。私は鎌倉の事務所で事業計画書の作成に専念し、落さんは新潟で銀行まわりを担当。ぶどう畑の作業や留守番は、弟たちに任せました。
そういえば、会社名をまだお伝えしていませんでしたね。欧米をまわって痛感したのは、「良いワインには、良いぶどうが欠かせない」という当たり前の事実です。
ワインの9割はぶどうで決まる。世界のワイン造りでは常識でも、日本ではなぜかおろそかにされていた言葉でした。
そこで、社名は「株式会社 欧州ぶどう栽培研究所」に決定。欧州系のワイン専用品種を日本で育てる。その志をそのまま社名に込めました。30年後に「株式会社カーブドッチ」に改名するまで、私たちの精神的な支えとなった社名です。

初めての銀行交渉と、出された宿題
不安は山ほどありましたが、初めての事業立ち上げは新鮮で面白いものでした。
私は、海外で見てきたこと、ワイン業界の現状、そしてミズ・ファクトリーで培った企画力を総動員。立地環境・市場分析・コンセプト・採算計画まで盛り込んだ、立派な企画書を仕上げました。
時には新潟に赴き、銀行まわりも手伝います。
必要な資金は約一億円。というのも、免許には「年間の最低製造量6,000リットル(瓶で約8,000本)」という条件があり、それなりの建物や機器が必要だったのです。そこで、長期借入での融資をお願いすることになりました。
最初に相談したのは国の公庫。対応は丁寧でしたが、「実績がないので難しい」とやんわりと断られました。次に訪れた新潟一の銀行では、「自己資金も、保証人も、担保もないのによく来たね」と門前払い。ですが、三番目に伺った銀行の支店長さんは違いました。
新潟の日本酒メーカーを支援した実績があり、ワインも日本酒と同じ醸造酒ととらえて話を聴いてくれたのです。やっとここで企画書の説明をすることができ、その結果、こんな宿題をいただきました。
「それだけ情熱があるなら、共感してくれる人がきっといるはず。まずは出資者を集めて増資しなさい。資本金が集まったら、その同額を融資しましょう」
その言葉に一縷の望みを賭けて、私はあてのない全国行脚を始めたのです。

全国行脚、やっと開業
ターゲットは、まず首都圏にある大企業のワイン好きの経営者たち。200通以上の手紙を出し、興味を持ってくれた方にプレゼンを繰り返しました。謳い文句はこの2つです。
① ワイン用ぶどうを植えて育てる
当時の国産ワインは、農協に出荷された食用ぶどうを併用するのが一般的でした。ワイン用ぶどうを苗から育てるのは時間がかかって経済のスピードに合わないからです。
② 自家醸造でワインを造る
当時は、輸入したぶどう果汁を発酵させたり、輸入ワインそのものを瓶詰めしただけでも「国産ワイン」と名乗れてしまう時代。それでも法的には問題なかったのです。
※国税庁が新たに「国産ワイン」「日本ワイン」の基準を定めるワイン法を制定したのは2018年。私たちが事業を立ち上げた年から25年後のことでした。
日本では難しかった「欧米のワイン造り」を100%実現する。それが私たちの約束でした。
お願いした出資額はおひとり100万円以上、1,000万円以内。たくさん出資されて、口出しされるのを避けたかったからです。
もちろん打率は低かったです。ご本人に会えたのは10人に1人。大体が秘書さん止まりで、あとは返事もなし。心が折れることもあったけれど、諦めるわけにはいきません。きっとなんとかなるだろうと自分を奮い立たせる日々。
それでも、普段はお会いできないような上場企業の社長さんが、忙しい時間を割いて耳を傾けてくれることもありました。「フランスと同じつくり方をするなら応援するよ」などと、言葉をかけてれる方が少しずつ現れます。中には、仲間の経営者を紹介してくださる方もいました。
新潟でも、応援の輪を広げて
一方、新潟にいた落さんは日本酒の酒造メーカーから声をかけていきました。
新潟では、「成功したら、必ず新潟のためになる事業にする」が謳い文句です。ここでも紹介を受けて、次第に地元の中小企業へと応援の輪が広がっていきました。
ワインってすごいなと思いました。他の産物では、こうはいかなかったかもしれません。最終的に約30名の出資者が集まり、目標の一億円が見えてきました。
銀行からの融資も決まり、製造場は予定通り完成。生まれて初めて自分の名前で何千万もの保証をした時には手が震えました。
どうしてうまくいったのか、私たちの情熱のおかげ? いいえ、時代だったような気がします。
昭和のバブルが崩壊して、ここから平成の低空飛行が始まりました。みんな何かを探していたのです。先が見えぬままに、大きく価値観だけが変わろうとする時代でした。
かつての繫栄や興奮が消えてしまって、これから日本はどこへ向かうのか。そんな時代だからこそ、夢を目指して真っ直ぐに挑む姿が、相手に伝わったのかもしれません。
資金繰りは楽ではありませんが、その後の銀行への返済は信用となり、次の融資へとつながります。
あの支店長さんは、最初から最後まで私たちの側に立って本店融資部と掛けあってくださったと後になって知りました。一人ひとりとの出会いがあって、私たちはようやく開業まであと一歩のところにたどり着くことができたのです。

仕込み目前、絶体絶命の10月
1992年にまずは試験醸造免許が下り、1,000本だけ製造が許可されました。品質鑑定のための試作品です。
そして一年後の1993年、夏。国税局の品質鑑定を経て、本免許を申請。
初めての仕込みには、北海道から取り寄せたぶどうを使います。やっと夢が叶う。そう思ったのに、免許通知がないまま、ぶどうの届く9月が迫ってきてしまったのです。
免許がないので、仕込むことはできません。もし免許が間に合わなければ、ぶどうが腐る。ぶどうの廃棄=倒産です。
余裕を見て8月中には欲しかった。9月の半ばを過ぎてもなしのつぶて。「もうダメかも」と諦めかけた私たちを救ったのは、異例の冷夏でした。


救いの神は、記録的な冷夏
覚えていますか? 日本に初めてタイ米が輸入された年を。
1993年は40年ぶりの記録的な冷夏で戦後最悪の凶作。「平成の米騒動」とも呼ばれ、あらゆる作物の収穫が遅れたのです。これが、私たちにとっては救いの神となりました。
8月、9月が過ぎ、「免許を下ろす」と連絡がきたのは10月7日。翌日が免許授与式。ぶどうが届いたのはなんとその翌日。冷夏のおかげで収穫が一か月も遅れ、ギリギリ仕込みが間に合ったのです!

手渡された免許は、たった紙一枚。その重みは、今でも忘れられません。鎌倉で受けた一本の電話から約2年半。1993年10月に、カーブドッチが誕生しました。
*こぼれ話|カーブドッチの夏の朝
ここまで一気に読んでいただき疲れましたね。ここでちょっとひと休み。カーブドッチの夏は、朝がとても気持ちがいいのです。一番の早起きはパン屋さん。朝5時までには粉をこねて、薪の石窯へ。



日帰り温泉は朝7時から営業


珈琲とモーニングセットをどうぞ

見かけたら、声を掛けてみてくださいね
カーブドッチ物語は、すべて私の実体験です。昔の記憶を手繰りながら筆を進めました。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
さて、当時は家一軒ないような辺鄙な土地に、どうやってお客様を集めたのでしょうか。次はその秘策をお教えしましょう。
次回もお楽しみに。
