なぜ「真面目な人」ほど職場で潰れるのか?20年PMが解明した高田純次の「深刻にならない技術」
※ 以下の記事は、単なる人物論や抽象的なエッセイではありません。時代や環境が変わっても折れず、息長く成果を出し続ける理由を「再現性のある構造」として本気で解明・言語化した実践記事です。
プロローグ
正直に言う。
私は先日、健康診断の結果を見て、医師の前で、あろうことか「まあ、いいか」と口走ってしまった。数値のいくつかが、五十二歳の身体が発している警告としては、なかなかに芳しくなかった。医師は少し驚いた顔をして、「いや、よくないですよ」と真顔で返した。私は、白衣の前で背中を丸め、なんとも間の抜けた愛想笑いを浮かべるしかなかった。あとで妻にこの話をすると、「あなた、昔は数値一つで一週間眠れなくなる人だったのに」と、あきれ半分、感心半分の顔で言われた。
その妻の言葉が、妙に胸に残った。確かに、若い頃の私は、真面目な人が成功すると信じていた。責任感が強く、空気を読み、人に迷惑をかけず、頑張り続ける。そんな人が強いと信じていた。健康診断の数値一つ、上司の一言一つ、顧客のため息一つを、全部真正面から受け止めて、深刻に抱え込んでいた。実際、新人時代の私は、できるだけそうあろうとして生きていた。そして、何度か、糸が切れそうになった。
しかし二十年以上、PMとコンサルタントとして現場に立ち続けていると、別のことが見えてくる。結論から言う。人生後半で大切なのは、真面目であることそのものではない。深刻になりすぎないこと、ではないかと、最近の私は考えている。健康診断の前で「まあ、いいか」と漏らした私は、もしかすると、二十年かけて、ようやく少しだけ、あの技術を身につけ始めたのかもしれない。
そしてその深刻にならない技術を、誰よりも長く、誰よりも自然に体現し続けてきた人物がいる。高田純次、その人である。本稿は、彼を適当な人としてではなく、深刻にならない技術を構造として運用してきた人として読み解く試みである。人を責めるより、構造を見る。それは、他人だけでなく、自分自身の深刻さに対しても、同じように効くのだ。
一 高田純次は、本当に適当なのか
テレビ画面の中の高田純次は、適当である。いい加減である。ふざけている。インタビューを受ければ脱線し、街歩き番組では通行人に意味不明な話を振り、共演者をからかい、自分の年齢ネタで笑いを取る。八〇年代のノリから、近年の街歩き番組に至るまで、その姿勢は驚くほど変わっていない。
しかし、よく観察すると、別の風景が見えてくる。彼は五十年以上、テレビの第一線にいる。大きなトラブルを起こしていない。スキャンダルもほとんどない。誰かを深く傷つけたという話も聞かない。共演者やスタッフからの評判が悪いという話も、ほぼ聞かない。これは、本当に適当な人では、決して到達できない地点である。適当なだけの人間は、五十年も第一線に残れない。とうの昔に、その適当さで誰かを傷つけ、信頼を失い、消えていく。
ここに、彼を読み解く最初の鍵がある。高田純次の適当さは、無責任さではない。むしろ、極めて高度に設計された、社会との距離の取り方である。彼は無責任に見えることを引き受けることで、周囲の人間が抱える深刻さを、その場から取り除いている。緊張した収録現場に、彼が一言、脱線した冗談を放り込むだけで、空気がゆるむ。張り詰めていた誰かが、ふっと息をつく。これは、芸ではなく、技術である。そして、この技術こそ、私が健康診断の白衣の前で、無意識に真似ようとしたものだったのかもしれない。
二 真面目と深刻は、まったく別物である
二十年PMをやってきて、私が痛感していることがある。真面目な人ほど、深刻になりやすい、ということだ。
客ガチャ、上司ガチャ、炎上案件、突発的な人災、理不尽な要求。そういったプロジェクトの不確実性を、真面目な人は全部、自分の責任の範囲内として引き受けてしまう。全部を背負う。だから、ある日突然、糸が切れる。かつての私が、健康診断の数値一つで一週間眠れなくなっていたのも、同じ構造だった。制御できないものまで、自分の責任として抱え込んでいたのだ。
しかし、真面目であることと、深刻であることは、本来まったく別の概念である。真面目とは、目の前のタスクに対して誠実に向き合う姿勢のことを指す。深刻とは、その結果に対して必要以上に重い感情的負荷を背負う状態を指す。前者は職業人としての必須要件であり、後者は健康を蝕む副作用にすぎない。多くの人が、この二つを一つの塊だと思い込んでいる。真面目であるためには深刻でなければならない、と。だが、それは違う。両者は、切り離せる。
高田純次という人物を観察していると、この二つを綺麗に分離する技術が、極めて高純度で抽出されていることに気づく。彼は、収録には来る。台本は読む。共演者への配慮もする。そういう意味では、彼は十分に真面目である。しかし彼は、番組の視聴率に深刻にならない。共演者の好き嫌いに深刻にならない。自分の芸能界での序列にも深刻にならない。真面目に考える、しかし、深刻にはならない。この姿勢が、五十年という長期残存の核心にある。今日の視聴率という拍手にではなく、五十年立ち続けるという信頼に賭ける。それは、まさに長期残存価値を選ぶ生き方そのものだ。
三 世の中には、どうにもならないことがある
若い頃は、努力すれば何とかなると思っていた。しかし、二十年も現場にいると分かってくる。どうにもならないことは、ある。それも、想像以上に多く、ある。
変なお客様がいる。変な上司がいる。会社の方針が突然変わる。景気が冷え込む。自分や家族が病気になる。親が老いる。人間関係がこじれる。プロジェクトの前提条件が、契約後にひっくり返る。そして、健康診断の数値が、静かに悪くなっていく。これらの大半は、自分の努力では制御できない。コントロール可能領域の外側にある。にもかかわらず、真面目な人ほど、これらを自分の努力不足として引き受けようとしてしまう。そして、コントロールできないものをコントロールしようとする結果、徐々に消耗していく。
高田純次の適当さの本質は、ここにある。彼はおそらく、無意識のうちに、コントロール可能領域とコントロール不能領域を、極めて精密に切り分けている。前者にはきちんと対応する。後者には深入りしない。まあいいか、と言って、流す。これは、ストア哲学が二千年前から繰り返し説いてきた構造と、まったく同じである。エピクテトスが説いた「我々の力の及ぶものと、及ばないもの」を分離せよという教えを、高田純次は理論ではなく、生き方として体現している。二千年前の哲人が言葉で残した知恵を、彼は言葉にせず、笑いながら実践している。ここにも、人を責めるより構造を見るという発想が通底している。制御できない他人や環境を責め続けるのではなく、制御できるものとできないものの構造を見て、線を引く。それだけで、消耗は劇的に減るのだ。
四 「まあいいか」は、逃げではなく、技術である
高田純次の代名詞のひとつに、まあいいか、がある。これを単なる怠惰や無責任と読むのは、決定的な誤解である。
まあいいかとは、自分の処理能力の限界を冷静に認識し、それを超える領域については意識的に手放す、という高度な認知技術のことを指す。これは諦めではない。逃げでもない。むしろ、自分のリソースを長期にわたって温存するための、戦略的撤退である。全部を握り続ける人は、短期的には強く見える。だが、握り続けた手は、いつか必ず疲弊する。ときどき手を開いて、握らなくていいものを手放す。その引き算ができる人だけが、長く握り続けられる。足し算より引き算。まあいいかは、人生における引き算の技術なのだ。
PMの世界に翻訳すれば、これはリスク受容という概念に近い。すべてのリスクを潰そうとすれば、プロジェクトは前に進まなくなる。許容可能なリスクは許容し、本当に致命的なリスクだけに集中する。これが、優秀なPMの基本姿勢である。高田純次は、人生というプロジェクトにおいて、このリスク受容を半世紀にわたって運用し続けてきた人物である。できることをやり、できないことは流し、夜は笑って寝る。その積み重ねが、五十年の長期残存という、芸能界では稀有な実績を生んでいる。
まあいいかと言える人は、強い。なぜなら、その言葉が言えるということは、自分の限界を受け入れているということであり、自分の限界を受け入れているということは、それ以上自分を壊さないということだからである。これは、優しいまま壊れない、という姿勢そのものだ。周囲にも自分にも優しく、しかし折れない。強さとは、すべてを握りしめて力むことではなく、握らなくていいものを笑って手放しながら、それでも立ち続けることなのだ。
五 組織の中で「深刻にならない技術」をどう運用するか
ここまで読んで、こう感じる読者もいるかもしれない。高田純次は芸能人だから、適当でいられる。会社員には無理だ、と。しかし、私が二十年間、コンサルタントとして数百名のPMやマネージャーを観察してきた経験から言えば、組織の中にも深刻にならない技術を運用している人は、確実に存在する。そして、彼らこそが、長くキャリアを継続している。
彼らに共通するのは、次のような姿勢である。まず、自分の責任範囲を冷静に定義している。プロジェクト全体の成否を、自分一人の責任として抱え込まない。チーム、顧客、経営、外部環境という複数の要因のひとつとして、自分の役割を相対化している。次に、失敗を自己否定に直結させない。失敗は事象であり、人格ではない。これを切り分けられる人は、回復が早い。そして、深刻な顔をしない。顔つきが軽い。会話に冗談が混ざる。これによって、チーム全体の空気が深刻化することを防いでいる。
この最後の点は、特にマネージャーやPM層にとって重要である。リーダーの表情は、チーム全体の心理的安全性に直結する。リーダーが深刻な顔をすれば、チームは萎縮する。リーダーがまあいいか、何とかしよう、と言えれば、チームは動き続けることができる。高田純次の姿勢を、組織のリーダーシップ論として読み替えることは、十分に可能である。深刻にならない技術は、自分自身のためだけではなく、自分の周囲にいる人々を救うための技術でもある。そしてそれは、半径五メートルの人々を守る技術でもある。遠くの大きな成果ではなく、目の前のチームメンバーが、今日も萎縮せずに息をできること。その小さな余白を守れる人が、結果として長く残る。
六 AI時代に残る「余白」という資産
ここからの話は、二〇二六年現在のAI時代を生きる、すべてのビジネスパーソンに関わる構造である。
AIは正解を出す。効率化する。最適化する。資料を整え、議事録を要約し、提案書を磨き上げる。私自身、コンサルタントとして毎日、生成AIを使い倒している。その威力は、年々加速している。しかし、AIにはできないことがある。それは、余白を作ること、である。
無駄話、冗談、遊び、適当さ、脱線、雑談。こうしたものは、効率の観点からはノイズとして削除される対象である。AIは構造上、これらを最適化の名のもとに削ぎ落としていく。しかし人間は、ノイズのない世界では生きられない。会議の冒頭の天気の話、エレベーターでの軽い挨拶、廊下ですれ違うときのお疲れさま。これらは情報量ゼロに見えて、組織を組織として成立させている、不可視のインフラである。そしてそれは、心理的安全性の土台であり、長期的な信頼関係の素地である。
高田純次という人物は、この余白を、芸として可視化してきた人物である。彼の存在そのものが、効率化されすぎた現代社会への、静かな対抗装置として機能している。AI時代に残る価値とは、正しさではなく、安心感である。最適解ではなく、余白である。そして、人は最終的に、正しさよりも安心感を覚えている。正しいことを言う人より、一緒にいてほっとする人のところに、人はまた戻ってくる。これこそが、AI時代に最も残る、愛される才能だ。能力だけでは人は戻ってこない。また会いたい、また話したいと思わせる余白を持つ人のところに、人は戻る。これは、二十年間、数多くのプロジェクトと顧客関係を見てきた私の、確信に近い実感である。
七 統合——深刻にならない人の三条件
ここで一度、構造的にまとめておきたい。私が二十年間、現場で観察してきた限り、五十代以降も壊れずに第一線に残る人には、共通する三つの条件がある。
第一に、コントロール可能領域とコントロール不能領域を、冷静に切り分けている。前者に集中し、後者は手放す。この線引きが明確な人は、消耗が少ない。第二に、失敗を人格と切り離している。失敗は事象であり、自分の価値そのものではない。この分離ができる人は、立ち直りが早い。第三に、表情と言葉に余白がある。常に深刻な顔をしていない。冗談が言える。まあいいか、が言える。この余白が、周囲を救い、結果として自分も救う。
高田純次という人物は、この三条件を、芸能界という極めて過酷な競争環境の中で、半世紀にわたって運用し続けてきた、稀有な事例である。彼を単なる適当な人として消費するのは、あまりにもったいない。彼は、人生後半の運用設計における、生きた教科書である。
そしてこの三条件を、私自身の思想の言葉で束ねるなら、こうなる。深刻にならないとは、巡航速度で人生を走ることだ。全力疾走で握りしめて走る人は、いつか息が切れて止まる。少し力を抜いて、まあいいかと流しながら、同じ速度で長く走り続ける人が、結局は遠くまで行く。速さは才能かもしれないが、続けることは設計である。そして、人生は何を知っているかではなく、何を大切にしているかで決まる。高田純次が大切にしてきたのは、視聴率でも序列でもなく、おそらく、夜に笑って眠れること、そして周囲の人がほっとできることだった。その優先順位こそが、五十年の余白を生んだのだ。
なお、本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。文化を、社会を、人生を、構造で読み解くという一本の思想の、これはその中核の一枚である。
エピローグ
正直に言う。
あの健康診断の日、医師の前で「まあ、いいか」と漏らして愛想笑いをした私は、家に帰ってから、少しだけ考え方を変えることにした。数値のうち、自分の努力で変えられるもの——食事や運動や睡眠——には、真面目に取り組む。だが、変えられないもの——加齢そのものや、遺伝や、これまで過ぎ去った時間——には、深刻にならない。まあいいか、と流す。かつての私は、その全部を握りしめて、一週間眠れなくなっていた。今の私は、握るものと手放すものを、少しだけ分けられるようになった。
妻に「昔は数値一つで眠れなくなる人だったのに」と言われたあの言葉は、私の中で意味が変わった。あれは、私が変わってしまったことへのあきれではなかった。私が二十年かけて、深刻にならない技術を、ほんの少しだけ身につけたことへの、静かな祝福だったのだ。出来事は変えられないが、意味は編集できる。あの白衣の前の間の抜けた愛想笑いは、危機感のなさの証ではなく、私がようやく人生後半の運用を始めた、その出発点の記録へと、編集され直した。
本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。全部を背負って眠れなくなっている、かつての私のようなすべての人に、この構造が届けばいいと思う。人生は、全部を背負うには長すぎる。真面目に考えることは大切だ。しかし、深刻に考える必要はない。嫌なら別の道もある。休んでもいい。失敗してもいい。また戻ってくればいい。
今日からやること、一つだけ。今あなたが抱えている悩みを一つ思い浮かべて、それが自分の努力で変えられるものか、変えられないものか、たった一度だけ問うてほしい。もし変えられないものなら、高田純次のように、少しだけ笑って、こう言ってみてほしい。まあいいか、と。その一言が、あなたが人生後半を長く立ち続けるための、最初の余白になる。
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©shiraco|PMPおじさんの実践ノート @NoteCcm42090
構造学。──人を責めず、構造を見る。
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