8月11日【本要約】マイケル・H・バーンスタイン他『病は言葉から』【解釈】
注射の直前、医療者がこう言ったとする。
「ちょっとチクッとしますよ。痛いですよ」
親切のつもりだ。
ところが、この一言があると、同じ針、同じ角度、同じ薬液でも、患者が感じる痛みは強くなる。
「気のせいだろう」と思うだろうか。
そのとおり、気のせいである。
ただしその「気」は、気道を狭め、吐き気を起こし、薬の効きを鈍らせ、最終的には患者に服薬をやめさせる。やめた先には、心筋梗塞が待っていることもある。
われわれは長らく、「思い込みで具合が悪くなる人」を、少し弱い人・暗示にかかりやすい人の話だと考えてきた。本書が扱うのは、その前提が成り立たないという事実だ。情報を受け取り、次に起きることを予測する脳を積んでいる限り、全員が当事者になる。
そして情報は、いまや医師の口からだけ来るわけではない。
要点
ポジティブな期待が症状を軽くする「プラセボ効果」の裏返しとして、否定的な予期が実際に害を生む現象が「ノセボ効果」だ。
本書は、この現象を四〇年以上追ってきた研究者たちが分担執筆した解説書である。診察室での説明の仕方、新型コロナワクチンをめぐる副反応報道、心理療法、電磁波や風力発電機への不安、ジェネリック切り替え、集団的な症状の流行まで、実証研究をもとに射程を広げる。中心にあるのは「予期」という一語。そして本書の関心は告発ではなく、正直さを損なわずに害を減らす具体策のほうに向かっている。
こんな人にオススメ
薬の説明書の副作用欄を読んで、いつも少し具合が悪くなる人
医療者・薬剤師・臨床心理士など、患者に「これから起きること」を説明する仕事の人
健康・医療・科学の記事を書く人、見出しを考える人
リスクを住民や利用者に伝える立場の人(自治体、インフラ、環境アセスメント)
一見無縁だが——広告のコピーや商品の注意書き、部活の指導、あるいはライブのMCを考えている人。「本題の前に何を言うか」で本題の効き目が変わる、という話がここにある
書籍情報
書名 病は言葉から――脳はなぜ情報を「毒」に変えてしまうのか?
著者 マイケル・H・バーンスタイン/シャーロット・ブリーズ/コシマ・ロッハー/ウォルター・A・ブラウン
訳者 寺町朋子
出版社 白揚社
日本語版刊行 2026年8月4日
価格 2,970円
ジャンル ポピュラーサイエンス/心理学・医療
著者について
マイケル・H・バーンスタインは、ブラウン大学ウォーレン・アルパート医学部診断画像科の助教。実験心理学者で、同大学のMedical Expectations Labを率いる。疼痛(とうつう)患者のオピオイド使用をプラセボ効果によって減らす研究に取り組んでいる。
シャーロット・ブリーズは、ハーヴァード大学医学部ベス・イスラエル・ディーコネス医療センターのデジタル精神医学研究員、およびウプサラ大学女性と子どもの健康科の研究員。哲学を背景とする学際的健康研究者で、プラセボ効果・ノセボ効果の倫理に関する研究・執筆で知られる。
コシマ・ロッハーは、チューリッヒ大学小児病院コンサルテーション・リエゾン精神医学・心身医学科の主任研究員。心理学者。慢性一次疼痛とプラセボ効果を扱う国際研究ネットワーク「The Pain Net」の共同創設者。
ウォルター・A・ブラウンは、ブラウン大学ウォーレン・アルパート医学部精神医学・人間行動学科の臨床名誉教授。プラセボ効果を四〇年以上にわたり研究してきた。
はじめに──ノセボ効果とは何か?
ノセボ効果とは、否定的な予期そのものが、実際の害を生み出す現象である。
語源はラテン語の nocere、すなわち「害をなす」。
対になるプラセボが placere(喜ばせる)から来ているのと、ちょうど鏡像の関係になる。
ただし歴史的には、この語は長らく脇役だった。プラセボ研究が数十年にわたって蓄積されるあいだ、その裏面はほとんど体系的に扱われてこなかった。
流れを変えたのは、パンデミックだったと本書は位置づける。
新型コロナワクチンの臨床試験は、比較のためにプラセボ(生理食塩水など)を注射された群を大量に抱えていた。
ハーヴァード大学のプラセボ研究プログラムを中心とするチームが、そのデータを横断的に集めた。
対象は一二本の論文、四万五三八〇人分の有害事象報告。プラセボを打たれた人のうち、初回接種後に頭痛や倦怠感といった全身性の有害事象を報告した人は三五パーセント、二回目でも三二パーセントにのぼった。
ワクチン群のほうが報告は有意に多かったが、全身性有害事象のうち初回で七六パーセント、二回目で約五二パーセントは、プラセボ群にも同じ割合で見られる分——つまりノセボ反応で説明されうる部分だった。
注意しておきたいのは、この数字が「副反応は嘘だ」と言っているのではない、という点だ。
症状は実在する。
頭痛は実際に痛い。
ただ、その症状を生んでいるのが薬理作用だけではない、というだけである。
本書はここから、集団心因性疾患(かつて集団ヒステリーと呼ばれた現象)、服薬中断がもたらす医療費と健康被害、そして「なぜいまこの本をまとめるのか」へと話を進めていく。
〔注〕「ノセボ」という語自体は一九六一年、医師ウォルター・ケネディが提唱したとされる。命名から本格的な研究蓄積までに半世紀以上かかった計算になる。名前が先にあっても、測る手段がなければ研究対象にはならない。
第1章 診察室における言葉の影響力
医師は、故意でなくとも患者を害することができる。
冒頭に置かれるのは「まず何よりも、害をなすなかれ」という古代からの誓いだ。
故意の不当な診療は免許取り消しにつながる。
しかし、善意で発された一言が副作用を増やし、治療効果を弱め、追加の治療を必要にさせたとき、それを罰する仕組みは存在しない。
医師も患者も、そして製薬会社も、この種の害にほとんど気づいていない。
具体例が二つ、丁寧に置かれる。
一つめはスタチン系薬だ。
インペリアル・カレッジ・ロンドンのアジェイ・グプタらは、アトルバスタチンの大規模臨床研究の参加者を追跡した。
第一段階では、患者も医師も、飲んでいるのが実薬かプラセボか知らない。
第二段階では、患者は自分がスタチンを飲んでいると知っている。
すると第二段階で、筋肉の症状を訴える人が三〇パーセント増えた。錠剤は同じ。
変わったのは「知っているかどうか」だけである。
これは些細な差ではない。
ピーター・ペンソンらのまとめによれば、スタチンの服用をやめた人のうち、最大で七八パーセントが副作用を理由に挙げていた。
コレステロール値が高いまま放置されれば、心臓発作のリスクは残る。
ノセボ効果の帰結は、不快な症状ではなく、治療そのものの放棄というかたちで現れる。
二つめはフィナステリドだ。
イタリアのニコラ・モンデイーニらは、前立腺肥大症の男性を二群に分けた。
一方には「性機能に影響が出る可能性がある」と伝え、もう一方には薬名だけ伝えて副作用に触れなかった。
一年以上の追跡の結果、事前に聞かされていた群のほうが、性機能障害や性欲減退を起こしやすかった。
薬に違いはない。
事前に何を聞いたかだけが違う。
なぜこんなことが起きるのか。
本書はまず「学習」を挙げる。
パブロフの犬が餌の前のベル音でよだれを垂らしたように、身体の生理反応システムは、来るべき出来事に先回りして準備する。
冷蔵庫の開く音や焼きたてのパンの香りで唾液が出るのは、消化の準備が始まっているからだ。
食糧が乏しい時代には、この先回りが生存確率を上げた。
同じ理屈で、有害物質が入ってくる前に排除の準備をするのも合理的である。
二〇〇〇年、ズィビレ・クロスターハルフェンらはハインリッヒ・ハイネ大学で実験を行った。
参加者を、縞模様の筒が回転する装置に入れて乗り物酔いを起こさせる。
半数は直前にジュースを飲み、半数は一時間前に飲んだ。
直前に飲んだ群は、そのジュースに明らかな嫌悪を示すようになり、再度飲むよう求められたときの摂取量が減った。味と酔いが結びついたのだ。
臨床の現場では、これが子どもに起きる。
ユトレヒト大学病院のアレックス・ファン・デル・メールらが小児リウマチの治療薬メトトレキサートを調べたところ、三人に一人に近い割合で予期性の吐き気が見られた。
タイミングは子どもによって違ったが、共通していたのは「薬を思い出させるものを見たとき」だった。
診察室に入った瞬間に催す子、注射器や錠剤を見て催す子。
そして、黄色いものを見ると吐き気を感じる子がいた。
メトトレキサートの錠剤は、黄色い。
言葉が薬理作用そのものを打ち消す例もある。
二〇〇三年、トリノ大学のファブリツィオ・ベネデッティらは、術後にモルヒネの点滴を受けている患者を二群に分けた。
一方には医師が「これからモルヒネの投与を中止します」と告げ、もう一方には何も告げずに止めた。
告知された群のほうが、痛みが強く出た。
こうした事例が積み上がったところで、章は医療現場への要請へ向かう。
説明を省けばいいという話ではない。
それは別の問題を生む。
だが、説明の中身と順序と語彙は選べる。
第一章の役割は、その選択に責任があると示すところにある。
この章のポイント
錠剤が同じでも、知っているかどうかで筋肉の症状は三割増えた
事前に聞かされた副作用は、その人に起こりやすくなった
黄色を見ただけで吐く子どもがいた
〔注〕「見ただけでアレルギー」という節も置かれている。造花を見て喘息(ぜんそく)発作が出る、といった報告がこの系列にあたる。身体は、目に映ったものが本物かどうかを検算(けんさん)してから反応するわけではない。
第2章 新型コロナと史上最大のノセボ効果
パンデミックは、ノセボ効果の史上最大規模の観測装置になった。
臨床試験のプラセボ群は、本来は「効果を比較するための対照」でしかない。ところが新型コロナワクチンの場合、その対照群が数万人単位で存在し、しかも全員が「これから副反応が出るかもしれない」と知っていた。
生理食塩水を打たれ、腕をさすり、翌日の体調を気にした人が、大量に記録として残ったわけだ。
ここから見えてきたのは、症状の種類によってノセボ寄与が大きく違う、という点である。
初回接種後、ワクチンを打った人の四六パーセントが何らかの全身症状を、三分の二が注射部位の症状を報告した。
これに対しプラセボ群では、局所症状の報告はずっと少ない。
全身症状のうち約四分の三がノセボ反応で説明されうるのに対し、局所症状ではその割合は四分の一程度にとどまった。
針が刺さった場所の痛みは薬理と物理が担い、頭痛や倦怠感(けんたいかん)といった行き先の定まらない症状は予期が担う。
この非対称は、以降の議論の下敷きになる。
もう一つの論点が、報道の役割だ。
副反応の具体名を並べた記事が流れると、その具体名が訴えとして増える。特定の症状が名指しされることで、身体のどこに注意を向ければよいかが指定される、という順序である。
章の後半では「かかったかもしれない」という状態が扱われる。
感染したという確証がないまま、感染したと信じている人。
その信念自体が、その後の持続的な不調とどう関係するのか。
本書はここで、症状が偽物だという方向へは踏み込まない。信念が症状の分布に寄与しうる、という限定的な言い方にとどめる。
最後に置かれるのは対策だ。
副反応情報を隠すのではなく、伝え方を変える。
「大半の人はうまく乗り切っている」といった相対的な枠づけを併記する。ノセボ効果は、情報を減らさずに減らせる。この章はその可能性を提示して閉じる。
この章のポイント
生理食塩水を打たれた人の三分の一に全身症状が出ていた
ノセボ寄与は局所症状で小さく、全身症状で大きかった
報道が名指しした症状が、そのまま訴えとして増えた
第3章 心理療法が害を及ぼすとき
心理療法は、副作用のない治療ではない。
薬には添付文書があり、副作用が列挙される。
心理療法にはそれがない。にもかかわらず、心理療法を受けた人の一定割合が、開始前より悪化するという推定は繰り返し報告されてきた。
害があること自体が長く議論の外に置かれてきた領域である。
この章が問うのは、心理療法における「言葉」が、薬における「有効成分」と同じ危うさを持つのではないか、という点だ。
第一の論点は予期だ。
治療がうまくいくと思って始めた人と、どうせ効かないと思って始めた人では、転帰が違う。
これはプラセボ研究の知見と地続きになる。ただし心理療法の場合、予期を作るのは錠剤ではなく、初回面接で治療者が発した言葉になる。
第二の論点は、治療者の発言そのものだ。
「これはつらい作業になります」「あなたのケースは難しい」
臨床的には正確でも、こうした一言が予期を下方修正する。逆に、根拠のない楽観は別の害を生む。本書はこの二重拘束を、解けない問題としてではなく、設計可能な問題として扱う。
第三の論点は名称である。同じ介入でも、何と呼ばれるかで受け取られ方が変わる。
診断名も同様で、名前がつくことで安心する人と、名前がつくことで自己像が固定される人がいる。
事故や災害の直後に一律の介入を行う手法が、かえって回復を妨げうると指摘されてきた事例も、この系列で語られる。
害の可能性を認めることは、心理療法を否定することではない。効くものは、効くがゆえに害もなしうる。章はその原則に戻って終わる。
この章のポイント
心理療法にも、開始前より悪化する人がいた
初回面接の一言が、その後の転帰を左右する
何と名づけるかが、そのまま効き目の一部だった
第4章 脳が薬の効果を変える
ノセボ効果には、測定できる生物学的な実体がある。
「気のせい」という言い方は、原因を説明しているようでいて、実際には説明を打ち切っている。この章は、その打ち切りを解除する。
中心にあるのはコレシストキニン(CCK)という物質だ。
もともと消化管ホルモンとして知られるが、不安と痛みの結節点でも働く。
ファブリツィオ・ベネデッティらの一連の研究では、否定的な暗示によって痛みが増す状態を作り出したうえで、CCKの働きを妨げる薬(プログルミド)を投与すると、その痛みの増強が抑えられた。
予期によって生じた痛覚の亢進が、特定の受容体を介していることを示す結果である。
対照的なのがプラセボ側だ。
プラセボによる鎮痛は、オピオイド拮抗薬であるナロキソンによって打ち消される。
期待と不安は、脳内の別々の化学系を走っている。
プラセボとノセボは同じ現象の符号違いではない、という結論がここから導かれる。
脳画像による観察も積み重ねられてきた。
否定的な予期のもとでは、前帯状皮質、島皮質、扁桃体(へんとうたい)といった、痛みの情動的側面を担う領域の活動が変わる。
さらに、反応は脳にとどまらない。
痛み信号が最初に中継される脊髄後角のレベルで、すでに応答が増強されていることを示す研究がある。
予期は、痛みが脳に届いてから解釈を加えるのではなく、届く前の段階に介入している。
ドーパミン系やHPA軸(視床下部―下垂体―副腎系)の関与も報告されている。
不安が高まればコルチゾールが動き、身体は警戒態勢に入る。その態勢そのものが、吐き気や動悸や痛みとして自覚される。
つまり、患者が訴えている症状は、生理学的な裏づけを持った症状である。
この章はその一点を、生化学と画像の両側から固めていく。
この章のポイント
否定的な予期による痛みは、CCKを止める薬で抑えられた
プラセボ鎮痛はナロキソンで消え、ノセボはそうならなかった
予期は脊髄の段階ですでに信号を強めていた
第5章 心はどうやってノセボ効果を作り出すのか
ノセボ効果を作る材料は、予期と条件づけ、そして誤帰属の三つに整理できる。
前章が生化学だったのに対し、この章は心理学の側から同じ現象を組み立て直す。
出発点として押さえられるのが、症状のベースラインだ。
一九六〇年代に行われた古典的な調査では、薬を何も飲んでいない健康な人に数日間の体調を記録させたところ、大多数が頭痛・眠気・鼻づまりといった何らかの不調を報告した。
日常の身体は、常に小さなノイズを出している。
薬を飲み始めた瞬間に起きるのは、症状の発生ではなく、既にあったノイズの帰属先の変更である。
ここに情報が加わる。
添付文書やインフォームド・コンセントで副作用の一覧を渡された人は、どこに注意を向ければよいかを教わったことになる。
プラセボ群の有害事象プロファイルが、その試験で使われている実薬の副作用一覧に似てくる、という現象が複数の領域で報告されている。飲んでいるのは乳糖でも、期待されている副作用が出る。
第二の材料は条件づけだ。
過去に副作用を経験した人は、その経験を思い出させる手がかりに反応するようになる。第一章の、黄色を見て吐き気を催す子どもがこれにあたる。
第三の材料が、見た目と名前である。
有効成分が同じでも、錠剤の色や形が変わる、あるいは製品名が変わると、副作用の訴えが増える。ジェネリックへの切り替えで起きる不調の少なからぬ部分が、この経路で説明されうる。
では、どうするか。
章の後半で提示されるのは、副作用の再解釈という手法だ。
症状が出たときに「薬が合っていない証拠」と受け取るか、「薬が作用している証拠」と受け取るかで、その後の耐えやすさと服薬継続率が変わる。嘘をつく必要はない。同じ事実に、別の枠を与えるだけである。
材料が三つとも「情報の扱い方」に還元されるからこそ、対策も情報の扱い方で組める。章はその見通しを示して終わる。
この章のポイント
薬を飲んでいない健康な人の大半が、何らかの不調を報告していた
乳糖の錠剤でも、実薬に典型的な副作用が出た
色と名前が変わるだけで、訴えは増えた
〔注〕再解釈の手法は、使い方を誤れば「症状を訴えるな」という圧力に転化する。本書はこの点に自覚的で、患者の報告を抑制する方向には使わないという条件を付している。
第6章 ほんとうにノセボ効果?──哲学的に再考する
「ノセボ効果」という語は、いま使われすぎている。
この章の担当者は哲学を背景に持つ研究者で、冒頭の見出しは「医学には、こんまりが必要だ」。必要なのは新しい発見ではなく、概念の片づけだという主張だ。
まず区別されるのが、プラセボとプラセボ効果である。
プラセボは物であり、介入である。
プラセボ効果は結果であり、現象だ。
この二つを混同すると、「プラセボを使っていないのにプラセボ効果がある」といった言い方が意味不明になる。実際、実薬にもプラセボ効果は上乗せされている。ノセボについても同じ整理が要る。
次に区別されるのが、ノセボ効果と、ノセボ効果ではないものだ。
症状が悪化したように見える理由は、いくらでもある。病気の自然経過。平均への回帰。単に注意を向けたから気づいただけ。関係のない不調を薬のせいだと帰属した誤り。報告のされ方の偏り。
これらをすべて「ノセボ効果」と呼んでしまえば、その語はあらゆる悪化を説明でき、それゆえ何も説明しなくなる。
そのうえで指摘されるのが、カテゴリーの誤りだ。
ノセボ効果は、患者の心のなかにある実体ではない。
特定の条件下で観測される、予期と結果の関係である。それを人格特性のように扱えば、「ノセボ効果を起こしやすい人」というラベルが生まれ、訴えの軽視につながりかねない。
概念を締め直すことは、現象を否定することではない。
前章までで積み上げた実証的な知見を、使えるかたちに保つための作業である。第2部は、この整理をもって閉じられる。
この章のポイント
プラセボは物で、プラセボ効果は現象だ
何もかもノセボと呼べば、その語は説明力を失う
ノセボ効果は人の属性ではなく、条件下の関係だった
第7章 ノセボ効果から自分を守る
ノセボ効果は、知識があれば個人の側でも減らせる。
第3部は対処法にあてられる。
その最初の章は、チャールズという一人の患者を登場させることから始まる。
新しい薬を処方され、説明書の副作用欄を読み、飲み始めた翌日から不調を感じ、服用をやめようかと迷う。ここまで読んできた読者には、彼の身に何が起きているのか、いくつかの候補が見えているはずだ。
章の中心に置かれるのは、四つの基本方針である。
そのどれもが、症状を我慢しろとは言っていない。症状の原因をどこに帰属させるかを、決めつける前に一度保留せよと言っている。
方針の骨格は前章までの三つの材料に対応する。
情報をどこから取るか。
症状が出たときに何を候補に挙げるか。
医療者に何をどう聞くか。
そして、薬が効いている兆候にも同じだけ注意を向けるか。
最後にチャールズが再登場する。
同じ薬、同じ症状、違う結末。この構成は、読者が自分の服薬経験を当てはめられるように作られている。
ここで重要なのは、本書が「自己責任で乗り切れ」と言っていない点だ。個人にできることは限られている。次章以降、責任は医療者と制度の側に引き渡される。
この章のポイント
症状の原因を、飲み始めた薬に即断しない
情報の取り方そのものが、症状の設計図になる
同じ薬でも、結末は変えられた
第8章 悪い知らせを伝えるとき
副作用を正直に伝えることと、害を最小にすることは、両立しない場合がある。
この章は倫理を扱う。
出発点は、いまや医療倫理の悪役となったパターナリズムだ。
患者のためを思って情報を伏せる態度は、二〇世紀後半に徹底的に批判され、インフォームド・コンセントに置き換えられた。この転換自体は正しい、と本書は認める。
問題は、その正しさがノセボ効果と衝突することである。
副作用をすべて伝えれば、伝えたことによって副作用が増える。
増えた副作用は実在の苦痛であり、服薬中断を招き、健康被害につながりうる。かといって伏せれば、患者の自己決定権を侵す。
ここには、どちらを選んでも誰かが損なわれる構造がある。
本書が示す抜け道は、情報の量ではなく形式にある。
伝える中身を減らさずに、順序と枠づけを変える。
全体像のなかで副作用を位置づける。
数字の示し方を変える。
加えて、「知らない権利」を患者自身に選ばせるという選択肢も検討される。
あらかじめ「詳細を聞くかどうか」を患者が決めるなら、伏せることは隠蔽ではなく、患者の意思の実行になる。
もっとも、この手法にも問題は残る。
何を聞かないかを選ぶには、何があるかを知っていなければならない。章はこの循環を解決したとは言わず、扱いうる問題に落とし込んだところで止める。
そして最後に、責任の所在が確認される。ノセボ効果を知らずに患者を害することは、これまで免責されてきた。知ってしまった以上、免責は続かない。
この章のポイント
正直さと無害さが、ここでは同じ方向を向かない
情報の量を減らさずに、形を変える道がある
知らないままの加害は、もう言い訳にならない
第9章 医師にできること
伝え方の訓練は、医学教育のカリキュラムに存在しない。
医療者は解剖学と薬理学を叩き込まれるが、言葉が生理反応を変えるという事実については、体系的に教わらない。この章はその空白を埋める提案にあてられる。
第一が枠づけである。同じデータでも、副作用が出た人の割合を言うか、問題なく使えた人の割合を言うかで、聞き手の予期は変わる。どちらも嘘ではない。どちらを先に置くかだけが違う。
臨床でできる最も安価な介入は、順序を変えることだ。
第二がノセボ教育だ。
患者に対して、ノセボ効果という現象自体を説明しておく。
副作用を隠すのではなく、副作用の一部が予期に由来しうると先に伝える。この手法は、症状が出たときの帰属を変えるための予防接種として機能しうる、と論じられる。
第三が、医療者の態度そのものだ。
温かさ、能力への信頼、十分な時間。これらが治療効果を押し上げる方向に働くことは、プラセボ研究で繰り返し観察されてきた。ノセボ側で言えば、それが欠けていること自体が否定的な予期を作る。
章の末尾は、わかっていないことの列挙にあてられる。
どの手法がどの領域でどれだけ効くのか、長期的にはどうなるのか。実装の前に必要な検証が残っている、という慎重な締め方になっている。
この章のポイント
同じ数字でも、先に言うほうが予期を作る
ノセボ効果を説明すること自体が、予防になりうる
温かさと時間は、それ自体が治療の一部だった
第10章 高圧送電線の恐怖──環境とノセボ効果
環境要因への恐怖は、しばしばその要因そのものより大きな健康被害を生む。
第4部は、診察室の外へ出る。
最初の舞台は、電磁波と風力発電機だ。
電磁波過敏症を訴える人は世界中にいる。
頭痛、疲労、皮膚の異常。症状は本物である。
ところが二重盲検の暴露試験では、実際に電磁波が出ているかどうかを、当人が言い当てられないという結果が繰り返し報告されてきた。
症状は出る。
だが出るタイミングは、実際の暴露ではなく、暴露していると思ったかどうかに一致する。
風力発電機についても同様の実験が組まれた。
オークランドの研究チームは、参加者を二群に分け、一方には低周波音(インフラサウンド)の健康被害を訴える映像を、もう一方には無害だとする情報を見せた。
そのうえで、実際の低周波音を流す条件と、何も流さない偽の条件を用意する。すると症状の出方を決めていたのは、音の有無ではなく、事前に見せられた映像のほうだった。
耳に聞こえない音が問題なのではなく、耳に聞こえない音を警告する言葉が問題だった。
高圧送電線をめぐる住民の不安も、同じ枠組みで検討される。
ここで章の焦点は、リスクコミュニケーションの失敗へ移る。
安全だと繰り返し宣言することは、しばしば逆効果になる。宣言そのものが、危険がある可能性を前提にしてしまうからだ。
対策として提示されるのは、症状の存在を否定しないまま、原因の候補を広げること。訴えを気のせいだと退ければ、住民は説明を求めて他の情報源へ向かう。そこで待っているのが、次章の主題になる。
この章のポイント
暴露しているかどうかを、当人は言い当てられなかった
症状を決めていたのは、音ではなく事前の映像だった
安全だと宣言することが、不安を増やすことがある
第11章 メディアが生み出す副作用
報道は、副作用の報告数を桁単位で動かす。
この章の中心になるのが、ニュージーランドで起きた薬の切り替え事例だ。
二〇〇七年、甲状腺ホルモン薬エルトロキシンの製剤が変更された。
有効成分は変わっていない。
それにもかかわらず、有害事象の報告は約二〇〇〇倍に跳ね上がった。それまでの三〇年間で一四件だったものが、一八か月で一四〇〇件を超えた。新しい製剤は安価な原料で作られている、という噂も流れた。
さらに詳細な分析が加えられている。
錠剤に含まれる有効成分の量は同じで、生物学的同等性も確認され、想定外の成分も入っていなかった。
変わったのは、一〇〇マイクログラム錠の色が黄色から白になり、表示名がサイロキシンからレボチロキシンになった点である。
報告の急増が始まったのは、テレビ報道が流れた直後だった。二〇〇八年八月初旬までに寄せられた四六二件の報告のうち、四一九件は同年六月半ばの報道以降のものだった。
報道は、単に報告数を増やすだけではない。
ニュースが具体的に名指しした症状が、その後の報告のなかで選択的に増える。頭痛と言われれば頭痛が、視覚の異常と言われれば視覚の異常が増える。
報道は不安を煽(あお)るのではなく、身体のどこを点検すべきかを指定している。
ニュージーランドでは、抗うつ薬の製剤切り替えでも似た経過をたどった事例が報告されている。
公費負担の都合で数万人規模の患者が一斉に切り替えられ、報道が続き、副作用の訴えと元の製剤への戻し要求が増えた。
なぜ報道はこれほど強いのか。
理由として挙げられるのは、情報の反復、被害者の顔と声を伴う具体性、そして「自分にも起こりうる」という同定のしやすさである。統計は反証にならない。統計には顔がないからだ。
そして、なぜこれが問題なのか。
増えるのは訴えだけではない。服薬中断が増え、切り替えのコストが増え、規制当局の信頼が損なわれる。章はこの実害の列挙で閉じられる。
この章のポイント
成分が同じでも、報告は三〇年分の一〇〇倍になった
報道が名指しした症状だけが、選択的に増えた
統計には顔がなく、被害証言には顔があった
第12章 文化に潜むノセボ効果
ノセボ効果が生む症状の中身は、その社会が何を恐れているかで決まる。
最終章は、集団的に広がる症状の歴史をたどる。
まず確認されるのは、知覚の可塑性だ。
人間は、目や耳から来た信号をそのまま経験しているのではない。文脈と予備知識が、何を感じるかを組み立てている。
事例として詳しく扱われるのが、性器が縮小し体内に引き込まれるという恐怖の流行である。
シンガポールでは一九六〇年代後半に、中国南部では一九八〇年代半ばに、数百から数千人規模の訴えが記録された。
医学的な縮小は起きていない。
しかし、恐怖と、それに伴う身体感覚は本物だった。流行の前提には、その地域に共有されていた民間医学的な説明の枠組みがある。
同じ生理学的な仕組みが、地域が違えば違う症状として現れる。
次に扱われるのが、より新しい事例だ。
二〇一〇年代後半、キューバのアメリカ大使館員に頭痛やめまい、認知の不調が相次いだ。
原因として音響兵器やマイクロ波が取り沙汰され、報道が国際的に広がるにつれ、他国の職員にも同種の訴えが現れた。本書は、この一件を単一の説明で断定はしない。ただ、報道と予期が症状の分布に関与しうる可能性を、他の事例と並べて検討する。
歴史をさかのぼれば、この種の記録には事欠かない。
一八世紀のヨーロッパでは、グラスハーモニカという楽器の音が神経を病ませると信じられ、演奏を禁じた都市があった。テクノロジーが新しく、作用の仕組みが理解されておらず、権威ある人物が危険を語る。条件が揃えば、症状は現れる。
そして条件は、いまも揃い続けている。
むしろ情報の伝播速度が上がった分、揃いやすくなっている。章はその指摘で第4部を閉じる。
この章のポイント
医学的な縮小がなくても、恐怖と感覚は実在した
症状の中身は、その社会の説明枠組みが決めていた
新しい技術と、権威ある警告が揃うと症状が出る
結論──予期という一語に戻る
本書が最後に残すのは、予期という一語である。
一二の章は、診察室、パンデミック、心理療法、脳内の化学、概念の整理、患者の自衛、倫理、臨床教育、環境リスク、報道、文化史と、およそ共通点のなさそうな領域を渡り歩いてきた。
それらを縫っているのが予期だ。
身体は、次に何が起きるかについての予測を立てながら動いている。予測は経験から作られ、経験は言葉から作られる。
言葉が病を作るのではない。言葉が予測を作り、予測が身体を動かす。
ここから導かれる提案は、意外なほど地味である。
情報を隠すな。
ただし順序と枠づけを設計しろ。
症状を否定するな。
ただし原因の帰属を一つに固定するな。ノ
セボ効果という現象があること自体を、患者にも一般にも伝えろ。
派手な解決策が出てこないのは、この分野がまだ若いからでもある。
本書は、何がわかっていて何がわかっていないかを区別したうえで、わかっていない部分を正直に空欄のまま残す。空欄を埋めるのは、これから設計される研究と、これから書かれる説明文のほうだ、という構えで閉じられる。
この章のポイント
言葉は予測を作り、予測が身体を動かした
提案は地味で、情報を減らさずに形を変えるものだった
わかっていない部分は、空欄のまま残された
まとめ
①
まず押さえるべきは、これが医療不信の本ではない、という点である。
「副作用の七六パーセントはノセボだった」という数字は、切り出せばいくらでも危険な使い道がある。
ワクチン懐疑論の燃料にもなれば、患者の訴えを黙らせる棍棒にもなる。本書はその両方を、構成のレベルで拒んでいる。
実証データの章のあとに哲学的整理の章を置き、「何もかもノセボと呼ぶな」と釘を刺す。
集団的な症状の章では、断定を避けて可能性の併記にとどめる。強い数字を出す本が、同時に、その数字の使い方に制限をかけている。
もう一つ押さえるべきは、責任の配分だ。
ノセボ効果は患者の心の弱さではなく、情報環境の産物として描かれる。
だから対策の主語は、患者ではなく、医療者・規制当局・報道・企業のほうに置かれる。第7章で個人の自衛を扱ったあと、第8章から第11章まで、責任は一貫して発信側へ移動していく。
この本は「あなたの症状は気のせいだ」と言うためではなく、「その症状を作った説明文は誰が書いたのか」と問うために書かれている。
読者がまず受け取るべきは、この向きだと思う。
②
ここから先は、本書の外側からの読み替えで、著者の意図からはかなり離れる。
本書を通読して残るのは、副作用の話ではなく、注意の配分の話ではないか、という感触だ。
第5章で示されたとおり、健康な人の身体は常に小さなノイズを出している。
頭痛、だるさ、鼻づまり。それらは薬を飲まなくても存在する。
薬の説明書がしていることは、症状を生むことではなく、そのノイズのどこに注意を向けるかを指定することだ。第11章の報道も同じで、名指しされた症状だけが選択的に増えていた。
だとすれば、この本が扱っているのは「情報が身体を害する」ではなく、「情報が身体のどこを見るかを決める」という話になる。
害はその副産物にすぎない。
この読み替えを採ると、射程は医療の外まで伸びる。
パフォーマンスの直前に何を言われたか。
試験の前に何を読んだか。
自分の身体について、どの語彙(ごい)を持っているか。
語彙がなければ症状は分節されず、語彙があれば分節される。
症状とは、身体で起きていることに、言葉が輪郭を与えたもののことだ。
もちろん本書はここまでは書いていない。
本書が扱うのは臨床と公衆衛生の範囲であり、この拡張は私が勝手に伸ばした線である。ただ、第12章で文化ごとに症状の中身が変わると示された時点で、テキストの側にこの線を引くための足場は用意されている、とは言えると思う。
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