『水の中を走るもの』|第1章 橋のたもとのスナック
橋のたもとのスナック

水代市の古い住宅地図で、スナック「みずどり」を探すのは難しくなかった。
久瀬川の西側を走る県道が、一本の橋で東へ渡る。その橋のたもとに、平屋の建物がぽつんと描かれている。隣家はない。北も南も田んぼで、東には川、西には農道。いまの地図では、そこ一帯は太陽光発電所になっていた。
怜奈は図書館の複写機で古地図を拡大し、赤鉛筆で店の場所を囲んだ。丸で囲むだけで、そこが何かの病巣のように見えた。土地の記憶を調べるとき、彼女はいつも同じ感覚を覚える。地図は冷静だ。紙の上では、どんな噂もただの位置になる。だからこそ、その場所に染みついた恐怖が見えやすくなる。
「みずどり」は、昭和四十年代の終わりに開店したらしい。
市街地から少し離れた県道沿いに、工事関係者や農家の男性が車で寄る店だった。夜になると看板の赤い鳥が光り、橋を渡る車のライトが壁を撫でた。店内はカウンター八席と小さなボックス席が二つ。奥に厨房、さらに奥に男女兼用のトイレが一つ。トイレの小窓は、川側ではなく、店の裏の用水に向いていた。
当時を知る者は、店のことをよく覚えていた。
「田んぼの中に、あそこだけ明るかったんです」
そう語ったのは、元常連の男性だった。現在は七十代半ば。取材用の録音機を置くと、少し照れたように笑った。
「若いもんは市街地の店へ行くけど、こっちは作業着のままでも入れたからね。田植えのあと、稲刈りのあと、寄り合いの帰り。あそこへ行くと誰かいる。そういう店でした」
怜奈は写真を見せた。
男性は一瞬だけ黙り、すぐに顔を背けた。
「それ、トイレの窓ですな」
「何か、見覚えがありますか」
「見覚えっていうか、話は聞きましたよ。窓の外に女がいたって。白いマスクした女が、じっと中を見てたって」
「その人は、酔っていた?」
「まあ、スナックですからね」
男性はそう言って笑ったが、笑いは長く続かなかった。
「けど、同じことを二人言ったんです。一人は昭和五十五年ごろ。もう一人は、その何年かあと。どっちも違う人です。話を合わせるほど仲がよかったわけでもない」
「口裂け女だと?」
「あとから、そうなったんでしょうね。最初はマスクの女。次は、口が変だった女。そのうち、口裂け女。そうやって名前がついた」
彼の言葉は、怜奈がこれまで追ってきた噂と同じ構造を持っていた。最初にあるのは、不完全な目撃である。白いものが見えた。女がいた気がした。誰かに似ていた。そこへ、地域の記憶や流行した怪談が重なり、意味が与えられる。意味が与えられた瞬間、不完全な目撃は物語になる。
ただ、「みずどり」の噂には奇妙な点があった。
口裂け女の全国的な流行は、昭和五十四年を中心に語られる。ところが「みずどり」で女が出たという証言は、それより後だった。昭和五十五年、五十八年、平成の初め。店が閉まってからも、廃墟になったあとも、噂だけが残った。
まるで、女がそこへ移動してきたようだった。
怜奈は、スナック跡へ向かった。
夏の午後、県道には車が少なかった。水代駅のある山麓の方角から雲が流れ、田んぼの水面に影が落ちる。橋の手前で車を停めると、熱気の中に草の匂いがした。舗装道路の脇には、古い農道が細く残っている。軽トラックが一台通ればいっぱいになる幅だった。
スナックはもうない。
跡地にはフェンスが張られ、内側に黒い太陽光パネルが並んでいた。パネルは整然としているのに、どこか墓標に似ていた。風が吹くと、パネルの表面に空と雲が揺れる。川の水面よりも硬く、窓ガラスよりも広い反射面が、かつての店の場所を覆っていた。
怜奈はフェンス越しに写真を撮った。
撮影した画像を確認する。パネルに映っているのは曇った空だけだ。白いマスクも、女の影もない。そう思ったところで、彼女は自分のスマートフォンの黒い縁に、白い空と自分の指が歪んで映っているのを見た。
反射面。
トイレの小窓。川。水田。太陽光パネル。
彼女はノートにその四つを書いた。まだ意味はなかった。ただ、偶然にしては並びがよすぎる。
橋の欄干にもたれて川を見ると、久瀬川は思ったより幅があった。子どもの目なら大きな川に見えるだろう。土手には背の高い草が生え、ところどころに踏み分け道がある。川向こうには田んぼが続き、その向こうに低い山が見えた。山の麓に駅がある。設計された郊外ではなく、田んぼの中に少しずつ住宅が置かれていった町だった。
「ここに店があった頃、夜は暗かったでしょうね」
同行していた市の郷土史サークルの男性が言った。
「街灯は?」
「ほとんどありません。県道沿いには少しありましたが、農道にはなかった。子どもが夕方に通るには、怖かったでしょう」
彼は橋の東側を指した。
「あちらに小さな分譲地がありました。南原と言います。昭和五十年代に家がぽつぽつ建ち始めた。小学校へ行くには、病院の前を通るのが早かった」
「病院?」
「県立水代療養病院です。今は名前が変わっていますが、当時は精神科の病棟がありました」
言葉の最後が、わずかに濁った。
怜奈はその濁りを聞き逃さなかった。人は、恐れているものの名前を出すとき、声を小さくする。病気でも、死でも、犯罪でも、怪異でも同じだった。名前を口にすると、近づいてくる気がするのだ。
「子どもたちの口裂け女の噂も、その病院から始まったと聞きました」
男性は困ったように笑った。
「そう言われています。ただ、病院側からすれば迷惑な話だったでしょう。患者さんが逃げたとか、変な女がいるとか、子どもたちが勝手に言っただけですから」
勝手に言っただけ。
怜奈はその言葉をノートに書いた。大人にとっては、子どもの噂は勝手なものだ。だが、子どもにとって噂は生活の地図だった。どの道を通ってはいけないか。どの家の前で走るか。どの林に入ると怒られるか。何を見たら逃げるべきか。
昭和五十四年の水代市で、口裂け女は単なる怪談ではなかった。
それは、帰り道を選ばせるものだった。
怜奈は、橋の下を流れる水を見た。水面は灰色で、空を映している。反射の中で雲がゆっくり流れた。川の流れよりも、映った雲の方が速く見える。
彼女はその場で、もう一度封筒の写真を開いた。
トイレの窓に写った白いもの。よく見ると、その端はほんの少し歪んでいる。まるで、水に映った顔を撮ったように。
写真の裏には、平成八年秋とだけ書かれていた。
だが、怜奈にはその白いものが、もっと古い時代から来たように思えた。閉店後の廃墟からではない。太陽光パネルの時代からでもない。もっと前、街灯のない農道を、子どもが息を切らして走っていた時代から。
取材は、橋のたもとのスナックで終わらなかった。
そこは、到着点だった。
始まりは、白い病棟の二階にある。
資料断章 スナックの配置
怜奈が古い建築確認の写しを探すと、「みずどり」は住居を改装した店舗だったことが分かった。入口は県道側。カウンターの奥に厨房。トイレは店の最も暗い場所にあり、小窓は用水路へ向いていた。窓の高さは大人の胸ほどで、外から覗くには、用水の縁に足を置かなければならない。
市の職員は、現地で首をひねった。
「ここ、当時はもっと水があったはずです。田んぼへ引く用水ですから。夜に立つのは危ないですよ」
「酔った客の見間違いという説明は」
「できます。ただ、外に人が立っていたという説明は、しにくいですね」
怜奈は、そこに引っかかった。
怪談では、窓の外に女が立つ。それが自然だからだ。トイレという閉じた場所で、窓の向こうから見られる。単純で怖い。だが、「みずどり」の窓は、外から覗くには不向きだった。むしろ、店内の光を受けて、内側のものを映す窓だった。
小松千鶴は後日、もう一つだけ思い出したと電話をくれた。
「最初に見たって言ったお客さんね、トイレから戻ってきたあと、しばらく鏡を見てたんです」
「鏡ですか」
「店の奥に、安い姿見がありました。お客さん用というより、ママが身だしなみを見るための。そこをじっと見て、『さっきの女、俺の後ろにおらんかったか』って」
「その場にいた人は?」
「誰もいません。みんな笑いました。でも、その人、しばらく酒を飲めなくなってね。口癖みたいに言ってました。窓の外じゃない。後ろだった、って」
怜奈はその証言を、本文に入れるか迷った。入れれば怖い。だが、怖すぎる証言は、作り物に見える。記事では抑えるかもしれない。小説なら書けるかもしれない。
現地には、もう姿見もトイレ窓もない。
けれど、反射するものだけは増えている。太陽光パネルは朝から晩まで空を映し、フェンスの金属は車のライトを返し、橋の欄干は川面の光を受ける。店がなくなったことで、女の出る場所が消えたのではない。窓一枚だったものが、土地全体へ広がったように見えた。
小松千鶴の夜
千鶴が一度だけ、自分も見たかもしれないと話した夜がある。
閉店間際、客は二人だけだった。カウンターには飲み残しのグラスがあり、灰皿には吸い殻が山になっていた。ママは厨房で片付けをしていた。千鶴はトイレの前に置かれた雑巾を拾い上げようとして、小窓の白さに気づいた。
最初は、外を通った車のライトだと思った。
だが、県道は反対側にある。用水側に車は通らない。白いものはすぐ消えず、窓の中央に残っていた。すりガラス越しなので輪郭は曖昧だったが、それは人の顔の高さにあった。

彼女は声を出さなかった。
怖かったからではない。店の中で怖がると、客にからかわれる。女が夜の店で働くには、見なかったことにする技術が必要だった。酔った客の手、外からの視線、帰り道の暗さ。ひとつひとつに反応していたら働けない。
千鶴は雑巾を拾い、何事もなかったようにカウンターへ戻った。
そのあと、姿見を見た。
窓の白いものは消えていた。けれど、姿見の中で、自分の肩の後ろに白い影がある気がした。振り返ると何もない。鏡を見ると、やはり何かがある。千鶴は鏡を布で覆い、ママには「汚れてるから」とだけ言った。
「その話を、なぜ今までしなかったんですか」
怜奈が聞くと、千鶴は苦笑した。
「水商売の女が、店で変なものを見たなんて言ってもね。酔ってたんだろう、疲れてたんだろう、男の気を引きたいんだろうって言われるだけです」
千鶴の証言にも、現実の重さがあった。
怪異は、語れる人間を選ぶ。語っても信じてもらえる者と、笑われる者がいる。子どもの噂は広がったが、夜の店で働く女の証言は残らなかった。その差を、怜奈は記事のどこかに入れたいと思った。
口裂け女は女の怪異である。
しかし、その話を語る女たちは、いつも安全な場所にいたわけではない。
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