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『水の中を走るもの』|第2章 暗くなる前に

第2章 暗くなる前に

 昭和五十四年五月の終わり、水代市の夕方は、日が長くなったぶんだけ子どもを油断させた。

 ヒロシは十一歳だった。六年生になったばかりで、背は少し伸びたが、声はまだ子どものままだった。弟のジュンは四年生で、何をするにも兄の後ろをついてきた。喧嘩もよくした。おやつの取り合いでは、どちらが先に皿を見たかで本気で怒鳴り合った。それでも学校が終わると、二人はだいたい一緒に帰った。

 その日、二人は体操着のままだった。

 白いTシャツは汗で背中に張りつき、紺の短パンの裾には砂埃がついている。ランドセルの革は日を吸って熱く、肩に食い込む。家に帰れば着替えろと言われる。手を洗え、宿題をしろ、暗くなる前に帰ってこい。母の言葉は毎日同じで、だからこそ、ヒロシにはその重さがよく分かっていなかった。

 「兄ちゃん、こっちの木、汁出とる」

 ジュンが雑木林の奥で呼んだ。

 南原林は、中学校へ続く一本道の両側に広がっていた。正式な名前を子どもたちは知らない。ただ、夏になるとカブトムシやクワガタがいる林、というだけで十分だった。樹皮が裂け、黒く湿った筋がついている木を見つけると、二人は宝を見つけたように興奮した。

 ヒロシはランドセルを地面に置き、木の幹に鼻を近づけた。甘酸っぱい匂いがした。

 「これ、絶対くるぞ。六月なったら、夜見に来よ」

 「夜はだめだって」

 「懐中電灯持ってくればええ」

 「母ちゃんにばれる」

 「ばれんように行くんや」

 そう言いながら、ヒロシ自身も夜の林を想像して背中が寒くなった。昼間でも、林の奥は暗い。細い枝が何本も重なり、風が吹くと、誰かが手を振っているように見える。カスミ網が張られた場所では、白い網の線が光を受けてふっと浮かび上がることがあった。大人が小鳥を捕るために仕掛けたものだと聞いていたが、初めて見たとき、ヒロシは幽霊の網だと思った。

 林の奥には、骨が落ちている場所もあった。

 それを最初に見つけたのは同級生のタケシだった。白っぽい棒が枯葉の上に散らばり、丸い骨には黒い穴があいていた。子どもたちは人骨だ、人殺しだと騒いだ。あとで畜産農家が豚の骨を捨てているのだと分かったが、分かったあとも怖さは消えなかった。人の骨ではないと知っても、骨は骨だった。そこだけ林の空気が違う。

 「そっち行くなよ」

 ヒロシはジュンに言った。

 「行かんよ」

 「ほんとに行くなよ。骨あるで」

 「分かっとるって」

 ジュンは口を尖らせた。弟扱いされるのが嫌なのだ。けれど、怖い場所の話になると、兄のそばから離れない。ヒロシはそれが少し嬉しかった。弟の前では、怖がっていないふりができる。

 林を抜けると、田んぼが開けた。

 南原分譲地は、その田んぼの中に作られた小さな住宅地だった。家はまだぽつぽつとしか建っていない。自宅の前にも造成途中の区画があり、コンクリートの基礎だけが残っている場所や、土が盛られた場所があった。子どもたちには、それが基地であり、山であり、城だった。

 分譲地から三百メートルほど先に久瀬川が流れている。川までの間は、全部田んぼだった。田植えが終わったばかりの水田は、空を映して銀色に光る。遠くを見ると、川向こうの田んぼの先に低い山が見え、その麓に水代駅があった。駅の方から電車の音が聞こえることもある。けれど、南原の農道に立っていると、町はどこにもないように思えた。

 道は舗装されていない。

 軽トラックが一台通れるだけの幅の農道で、轍の部分だけ土が固まり、真ん中と両脇には草が生えている。雨のあとにはぬかるみ、晴れた日には乾いた土が靴の中へ入る。街灯など一本もない。昼間は広く見える田んぼも、日が落ちると急に深くなる。水面が空を映すせいで、どこまでが道で、どこからが田んぼなのか分からなくなる。

 その日、二人は林で遊びすぎた。

 ヒロシが気づいたとき、太陽は山の少し上まで下がっていた。空の色はまだ明るいが、田んぼの水はもう黒くなり始めている。

 「まずい」

 「何が」

 「時間」

 ジュンが顔を上げた。兄の声色で、事態を理解したらしい。

 「怒られる?」

 「怒られる」

 「おやつなし?」

 「たぶん」

 二人は同時に走り出しかけ、すぐに止まった。

 家へ帰る道は二つあった。

 一つは、県道へ出て大回りする道。車が通るから怖くない。遠回りだが、夕方でも人目がある。もう一つは、病院の前を抜ける近道だった。小学校へ通うときにも使う道で、昼間ならどうということはない。ただ、夕方になると話は別だった。

 県立水代療養病院。

 大人たちは「あの辺では気をつけなさい」と言った。何に気をつけるのか、はっきり言う大人は少なかった。子どもに分かるのは、あそこは少し違う場所だということだけだった。

 病院の敷地は広かった。正門から中を見ると、芝生があり、大きな木があり、池と小川があった。奥には弓道場もある。白い病棟は、そのさらに奥に建っていた。よく見なければ分からないが、一階と二階の窓には鉄格子がついている。

 患者が逃げないようにしているんだ。

 誰が言ったのか分からないその言葉を、ヒロシはずっと信じていた。信じていたというより、怖さを説明するために使っていた。鉄格子があるから怖い。病院だから怖い。大人が注意しろと言うから怖い。理由はいくつもあった。

 「県道回る?」

 ジュンが聞いた。

 ヒロシは空を見た。県道を回れば確実に遅れる。遅れれば、母は黙って時計を見る。その沈黙の方が叱られるよりきつい。

 「病院前、行く」

 言った瞬間、胸の奥がすっと冷えた。

 ジュンは嫌そうな顔をした。

 「兄ちゃん、病院のとこ、怖いやん」

 「昼みたいなもんや。まだ明るいし」

 「でも、あそこ、鉄の窓ある」

 「見んかったらええ」

 「見んようにしても、見えるやん」

 ヒロシは返事に詰まった。確かに見える。見ようとしなければ余計に見える。樹木の隙間、白い壁、黒い格子。その向こうに誰かが立っていたらどうするのか。そう考えただけで、舌の奥が乾いた。

 「走ればすぐや」

 ヒロシはランドセルを背負い直した。

 「遅れたら、おやつなしやぞ」

 その一言で、ジュンは黙った。

 二人は農道を走り始めた。ランドセルが背中で跳ねる。靴の底が砂利を蹴る。草むらから虫が飛び、田んぼの水面に小さな波が広がった。遠くで犬が吠えた。山の方から電車の音が聞こえた。人の声はない。

 病院へ向かう道は、少しずつ暗くなっていくように感じられた。

 それは実際に日が沈んでいたからかもしれない。あるいは、二人が病院のことを考え始めたからかもしれない。

 ヒロシは怖くないふりをした。走る速度を落とさず、振り返らず、ジュンが遅れれば「早くしろ」とだけ言った。

 だが、心の中では何度も同じ言葉を繰り返していた。

 何もおらん。何もおらん。病院や。人がおるだけや。

 そのころ、口裂け女の噂はまだ、水代の学校でははっきりした形を持っていなかった。

 街の方で出たらしい。隣の学校の子が見たらしい。マスクをした女が聞くらしい。そんな断片だけが、休み時間の教室や校庭の隅で囁かれていた。

 まだ、誰も病院の二階窓とは結びつけていなかった。

 まだ、女はそこに立つ理由を持っていなかった。

 ヒロシとジュンがその道を選ぶまでは。

家の灯り

 二人の家では、夕方になると台所の窓が最初に明るくなった。

 分譲地にはまだ家が少なかったから、その灯りは遠くからでも分かった。周囲が田んぼだから、よけいに目立つ。母が夕飯の支度を始めると、換気扇の音がし、味噌汁の匂いが外まで流れた。ヒロシにとって家の灯りは、帰る場所であると同時に、遅れたことを知られる場所でもあった。

 父は仕事から戻ると、まず手を洗い、テレビの前に座った。ニュースの音、野球中継の歓声、茶碗の触れる音。そういう普通の音が家にはあった。だからこそ、外の暗さは家の中へ持ち込んではいけないもののように感じられた。

 「暗くなる前に帰りなさい」

 母が毎日言うのは、厳しいからだけではなかった。あの頃の農道は、本当に暗かった。車のライトも少なく、人の目もない。田んぼの水路に落ちれば危ない。知らない大人に声をかけられても、助けを呼ぶ家まで距離がある。親たちは、怪異ではなく現実の危険を心配していた。

 だが、子どもはその現実の危険を、うまく怖がれない。

 用水路へ落ちるかもしれない、軽トラックに気づかれないかもしれない、そう言われても、どこか他人事だった。鉄格子の窓にいる女の方が、ずっと想像しやすい。現実の危険は輪郭がぼやけている。怪談は輪郭を与えてくれる。

 ヒロシは、弟の前では兄でいたかった。

 怖い場所を怖いと言い切ってしまえば、ジュンはもっと怖がる。だから「走ればすぐや」と言う。自分の声が震えないように、少し乱暴に言う。弟を守るためというより、自分が怖がりだと知られないためだった。けれど、その小さな見栄も、後から思えば兄弟を農道へ進ませる力の一つになった。

 ジュンはジュンで、兄が言うことなら半分は信じた。

 兄は乱暴で、時々ずるい。おやつも取るし、秘密基地の場所も独り占めする。それでも、怖いときには兄の背中を見る。兄が前を歩いていれば、そこは通れる道になる。病院前の近道も、雑木林の一本道も、兄が先に行けば自分も行ける。

 この信頼は、強いようで脆かった。

 なぜなら、兄も本当は怖いからだ。

 その日の夕方、二人はまだそれを知らないふりをしていた。

子どもの時間

 ヒロシとジュンにとって、一キロの通学路は長かった。

 大人の足なら短い距離でも、子どもの帰り道では別の長さになる。石を蹴れば長くなり、虫を見つければ止まり、友達と別れる場所ごとに少し寂しくなる。田んぼの畦に降りて叱られ、用水路を覗き、軽トラックが来れば草むらへ避ける。その繰り返しで、家までの一キロは世界全体のように広がっていた。

 雨の日は砂利道がぬかるみ、晴れた日は乾いた土が白く舞った。ランドセルの底にはいつも砂が入った。小学校へ続く最後の舗装道路に出ると、靴音が急に変わる。その音の変化だけで、学校が近いことが分かった。

 帰り道には、いくつもの境界があった。

 小学校の門を出る境界。

 舗装道路から砂利道へ変わる境界。

 病院の正門前を通る境界。

 友達と別れて兄弟だけになる境界。

 田んぼの中へ入り、家の灯りが見えるのにまだ遠い境界。

 子どもは境界に敏感だ。そこから先は一人で行く。そこから先は走る。そこから先は見ない。そういう決まりを、自分たちの中で勝手に作る。

 口裂け女の噂は、その境界にぴったりはまった。

 学校の中では笑える。友達と一緒なら話せる。家の中では大人に否定される。だが、友達と別れ、日が落ち、田んぼの水面が黒くなり始める場所では、噂は急に本気になる。

 ヒロシは、そのことを言葉では知らなかった。

 ただ、暗くなる前に帰るという約束が、日が傾くにつれて体の中で重くなることだけは知っていた。

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次話:第3章 白い建物の二階

前話:第1章 橋のたもとのスナック

目次:『水の中を走るもの』








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