イブ物語|判断寓話|ファンタジー小説|猫征|第六話
ヒーバ大森林――アルカン王国野営地。
若い兵士が歩哨に立ちながら、焚き火にあたっている。
少し離れたテントからは、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「まったく、なんで俺たちだけこんな役なんですか?」
「しょうがねえだろ。お偉いさんたちは奴隷商から金をもらって、笑いが止まらないだろうさ」
ベテラン兵士は、ため息混じりに答えた。
「俺たちは帝国から国を守るために来たんです! たかが獣人のために兵を動かすなんて、間違ってます!」
「前線に送られて、いつ死ぬかもわからないんだ。だったら少しくらい楽しめれば、いいじゃないか」
ベテラン兵士は乾いた笑い声を漏らした。
「獣人の女なんて、気持ち悪い」
吐き捨てるように言った若い兵士は、ベテラン兵士が座ったまま動かないことに気づいた。
慌てて身体を揺らすと、そのまま前のめりに倒れ込む。
背中には矢が刺さっていた。
「ひっ!」
若い兵士が声を上げるより早く、背後から伸びたナイフが喉を深く刺した。
ワンは倒れ込む兵士を静かに横たえる。
焚き火の灯りが、その顔を照らし出していた。

猫から始まる世界征服 第六話
「ガベージ隊長。この度はご尽力いただき、ありがとうございます」
小太りの奴隷商人が媚びた笑みを浮かべ、ガベージの杯に酒を注いだ。
派手な装飾を施した全身鎧を身につけた中年男は、満足げに杯を空けると、口元を吊り上げた。
「ああ。帝国の哨戒部隊についての情報には感謝している」
大きな天幕の中には、豪華な食事と金貨の入った袋が並べられていた。
「敵軍の動向を探るうちに獣人の拠点を発見。帝国への恭順の姿勢を崩さなかったため、あえなく殲滅か……」
ガベージは、まるで未来の報告書を読み上げるように口にした。
「はい。その通りでございます。捕らえた獣人の取り扱いは、いつも通りで」
奴隷商人は手をさすりながら、下卑た笑みを浮かべた。
「獣人でも女には変わりない。まあ、何日保つか楽しみだがな」
そう言うと、ガベージは口にした肉を引きちぎるように噛み切り、口元を舌先で舐めた。
その時だった。
テントの外が急に慌ただしくなる。
一人の兵士が声を上げながら駆け込んできた。
「敵襲です!」
「あ? 帝国か?」
ガベージは怒鳴るように尋ね、震えながら報告する兵士を睨みつけた。
「わかりません。ただ、恐ろしいほど手練れの黒い鎧の男が一人現れて、あっという間に小隊長二名を殺害。残ったライ小隊長も重傷です」
矢継ぎ早の報告を受け、ガベージの顔色が変わる。
「なんだと! すぐに兵を起こして取り囲め!」
大声で命じると、自身も剣を抜いてテントを出ようとする。
それを止めるように兵士が声を上げた。
「すでに逃走しました」
みるみるうちに、ガベージの顔が赤く染まっていく。
「たった一人の襲撃で小隊長三名が死傷? そんな報告、上げられるわけないだろ!」
ガベージが机を叩くと、皿が床へ落ちて割れた。
怒鳴られた兵士は俯きながら答える。
「現場に、獣人のものと思われる痕跡がありました」
そう言って、兵士は手にしていたペンダントをガベージへ差し出した。
紐に動物の牙が一つ括りつけられたペンダントが、ランプの灯りに照らされる。
「獣人のもので間違いございません」
隣で話を聞いていた奴隷商人が口を開いた。
「獣人どもの間では、成人の証として、抜けた乳歯の牙をペンダントにする風習がございます」
その言葉を聞いたガベージは、机の上を剣で薙ぎ払った。
「探し出せ! 王国に刃向かう獣人どもを根絶やしにしてやる!」
*
王国軍野営地から離れた小高い丘の上で、テイルは遠目を使い、慌ただしく動く軍の様子を確認していた。
「ワンさんは流石ですね。どうやったら、あんなに簡単に王国軍が反応するのか……」
テイルは少し呆れたように呟いた。
その隣では、アトラが笑みを浮かべている。
「あの人、ニアの前ではポンコツなのに、戦いになると妙にカッコ良くなるから」
アトラの表情は少し複雑だった。
ワンが村へ来てから、今回の作戦の準備まで二日と経っていない。
その短い間の出来事を思い返しているようだった。
「惚れたら苦労しますよ」
テイルが遠目を覗いたまま呟いた。
「わかってるわよ。それより、合図は送らなくていいの?」
アトラが急かすように尋ねる。
「アトラさん。尻尾を左右に振ってください」
テイルが振り返って言うと、アトラは理由がわからないまま、尻尾を大きく左右に振った。
それを満足そうに見つめたあと、テイルは狼煙に火をつける。
黒い煙が、月明かりの下へ立ち上っていった。
「テイル。尻尾を振った意味は?」
アトラが尋ねると、テイルは平然と答えた。
「私が見たかっただけです」
アトラは頭に手をやり、大きく息を吐いた。
*
森の奥から、小さな犬のような姿が現れた。
獣人とは違う、怒りに染まった瞳。
突き出た牙からは唾液が溢れ落ちている。
コボルトたちだ。
一匹が鳴くような声を上げると、前を走る獣人を追いかけ始めた。
獣人は素早く木へ登り、枝から枝へと飛び移っていく。
それを見つけたコボルトが遠吠えのような声を上げ、仲間を呼んだ。
後方から、さらに多くのコボルトが集まってくる。
「よし。食いついた!」
木の上から様子を見守っていた、もう一人の獣人が声を上げた。
獣人たちは交代しながら、夜の森を狼煙の上がる方角へと進んでいった。
*
「ガベージ隊長。後詰に兵を残さないのですか?」
兵士が尋ねると、ガベージは怒鳴った。
「黒鎧も獣人どもの仲間に違いない。獣人どもの拠点を発見次第、戦闘だ! 全軍前進!」
ガベージの号令に従って兵が動きだす。
松明を掲げて動く集団はすぐに、ワンたちの姿を捉えた。
「敵、発見!」
先頭を進む王国軍の兵士が叫んだ。
視線の先では、一人の獣人が慌てたように逃げ出している。
「殺すなよ! 捕まえて仲間の居場所を吐かせろ!」
ガベージが命じると、弓を構えていた兵士が射るのを躊躇った。
「ガベージ隊長。捕まえるには距離が離れすぎています」
兵士の一人が困ったように進言する。
「馬鹿か? たかが獣人一匹を捕まえるのに何の問題がある。捕まえて巣穴を見つけたら、皆殺しにしてやる」
額に血管を浮かべるガベージを見て、兵士は小さく首を振った。
「小隊長がいれば……」
その続きを口にすることはなかった。
アルカン王国軍はガベージの怒鳴り声に従い、森の奥へと進んでいった。
*
「指揮官は無能だな」
先頭を走るワンは、表情を変えずに呟いた。
隣を走る獣人が、その言葉を聞いて口元を上げる。
「なんで、こんなに簡単に引っかかるんですか?」
独り言を聞かれたワンは、わずかに笑って答えた。
「全体を指揮する者は、だいたい臆病なものさ。組織が大きくなるほど慎重になる」
ワンは後ろへ視線を向け、王国軍が追ってきていることを確認した。
「慣れない地形に、視界の利かない夜。それに敵の戦力もわからない。普通なら追撃なんてしない。それなのに部隊を動かした。しかも全軍だ」
ワンは呆れたように続ける。
「臆病な指揮官だと引き込むのに苦労するけど、勇敢な無能は一番扱いやすい」
そう言うと、ワンは近づいてくる丘の狼煙を見つめながら足を速めた。

この戦いは後に、士官候補生の戦術教本へと記されることになる。
勇敢さと無謀さを取り違えた指揮官を誘導し、少数の部隊で多数の部隊を撃退した戦例として、後世まで広く知られるようになった。
ただし、狼煙を上げる前に尻尾を振る合図は、後に廃止されている。
