教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第二章 コンピエーニュ初訪問/三人の教皇/サンドニ/休戦
【アナトール・フランス『ジャンヌ・ダルクの生涯』完訳プロジェクト】1908年発行の名著を、膨大な独自注釈とともに現代日本語で蘇らせる個人翻訳プロジェクトです。継続的な活動維持と出版支援のため、一部を有料公開としています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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【この章のポイント】
- 戦略的休戦と政治的駆け引き
- 異端審問の火種となるアルマニャック伯とジャンヌの問答
- サンドニ進軍と重なる疑惑の影
2.1 コンピエーニュ初訪問とボーヴェ奪還の恨み
現時点で、表題の「コンピエーニュ」では特に何も起きないが、のちにジャンヌが救援に駆けつけ、敵に捕らわれる因縁の地。
また、ボーヴェ司教のピエール・コーションはジャンヌの異端審問と火刑を主導する重要人物。下巻の中盤〜後半かけての重要シーンで登場する。
イングランド軍がノルマンディーへ出発した後、シャルル王はクレピーからサンリスへ、ヴァンドーム伯、ジル・ド・レ元帥、ブサック元帥を兵士たちと共に派遣した。
住民たちは彼らに、フルール・ド・リス(フランス王家の紋章)を支持する意向を伝えた。[82] こうしてコンピエーニュの降伏(服従)は確実となった。
国王は市民たちに自分を迎えるよう呼びかけ、18日の水曜日に町の鍵が国王のもとに届けられた。翌日、国王は入城した。[83]
代表司政官(Procureurs)[84](コンピエーニュでは市参事会員(échevins)がこの名で呼ばれていた)たちは、彼らが町の総督(知事)に選出したギヨーム・ド・フラヴィを、最も経験豊富で忠実な市民として国王に紹介した。
紹介に際し、彼らは自分たちの特権に従い、フラヴィの総督任命を承認・認可するよう求めた。
しかし、ラ・トレモイユ卿がみずからコンピエーニュ総督に就任し、ギヨーム・ド・フラヴィを副官に任命した。それでもなお、住民は彼を隊長と見なしていた。[85]
シャルル王はひとつずつ、良き町々を取り戻していった。
王はボーヴェの市民に、自分を領主として認めるよう命じた。
使者がフルール・ド・リスを掲げているのを見ると、市民は「フランス王シャルル万歳!」と叫んだ。聖職者たちはテ・デウム(Te Deum、讃美歌)をうたい、大いなる歓喜に包まれた。
シャルル七世への忠誠を拒んだ者は、財産を持ち出す許可を得た上で町から追放された。[86]
ボーヴェの司教でありヴィダム(Vidame、司教代理または副支配者)であるピエール・コーション卿は、アンリ王(ヘンリー六世)のフランス大法官を務めており、重要な教会事業の交渉役でもあったが、自分の都市がフランス陣営に戻るのを見て悲しんだ。[87]
それは都市にとって痛手であったが、彼にはどうすることもできなかった。
コーションは、この不名誉の一部は、アルマニャック派に影響力があり、全能の力を持つと評判の「オルレアンの乙女」のせいだと気づいていた。
彼は優れた神学者だったので、悪魔が彼女を導いているのではないかと疑い、彼女に可能な限りの危害が及ぶことを願っていた。
*
この頃、アルトワ、ピカルディ、そしてフランス北部にあるブルゴーニュ領全土が、ブルゴーニュ公から離反しつつあった。
もしシャルル王がそこへ向かっていたら、ピカルディの堅固な塔や城塞に住む人たちの大半は、彼を自分たちの君主として迎え入れただろう。[88]
だが、敵はその隙を突いて、シャルル王がヴァロワやイル・ド・フランスで勝ち取ったばかりの地域を奪い返したに違いない。
**
国王と共にコンピエーニュに入城したジャンヌは、王の代官の住まいであるオテル・デュ・ブーフ(ブーフ邸)に宿泊した。
ジャンヌは代官の妻マリー・ル・ブーシェと寝床を共にした。
マリーは、オルレアンの財務官ジャック・ブーシェの親族だ。[89]
⚠️ブーフ(Bœuf):牛肉、去勢した牛のこと。英語のビーフ(Beef)の語源。
ジャンヌはパリへの進軍を切望していた。
例の「声」が約束したからには、必ず実現すると確信していたからだ。
伝えられるところによると、(コンピエーニュに到着して)2〜3日後、ジャンヌは我慢できなくなり、アランソン公を呼び出して、「美しい公爵様、あなたの兵士たちと他の隊長たちにも装備を整えるよう命じなさい」と言った。そして、こう叫んだと言われている。
「私の杖にかけて! パリへ行かなければならない」[90]
しかし、これは決してあり得ないことだ。乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)には兵士たちに命令を下す権限がなかったのだから。事実としては、アランソン公爵が多数の兵士を率いて国王のもとを離れることになり、ジャンヌも同行した。真相はそういうことである。
2.2 三人の教皇(1)アルマニャック伯の手紙
8月22日の月曜日、ジャンヌが馬に乗り込もうとしていたちょうどその時、アルマニャック伯からの使者が手紙を持ってきたので、彼女はそれを読んでもらった。[91] 手紙の内容は次の通りだ。
「わが最愛の貴女へ、
私は謹んで貴女に身をゆだねます。
神の名において、貴女にお願いしたいことがあります。
現在、普遍的な聖なる教会において、
教皇問題で分裂が生じているのをご存知でしょう。
今まさに、教皇の座を争う者が3人います。
(1)一人目はローマに在住し、みずからをマルティヌス五世と名乗り、すべてのキリスト教国の王が従っています。
(2)二人目はバレンシア王国のペニスコラに在住し、クレメンス八世と名乗っています。
(3)三人目は、サン=テティエンヌ枢機卿と少数の随行員を除いて居場所を知る者はいませんが、ベネディクトゥス十四世と名乗っています。
教皇マルティヌスと呼ばれる最初の人物は、
全キリスト教諸国の同意を得て
コンスタンツで選出されました。
教皇クレメンスと呼ばれる二人目は、
ベネディクトゥス十三世の死後に、
枢機卿3人によってペニスコラで選出されました。
ベネディクトゥス十四世と呼ばれる三人目は、
サン=テティエンヌ枢機卿によって
ペニスコラで密かに選出されました。
⚠️2人目と3人目は、対立教皇ベネディクトゥス十三世の後継者がさらに分裂した結果。
私は貴女に、無限の慈悲をもって——、
上記3人のうち真の教皇は誰なのか、
今後、私たちは誰に従うべきなのか
そして、誰を信じるべきなのか、
貴女を通して私たちに明らかにしてくださるよう、
主イエス・キリストに懇願していただきたいのです。
マルティヌスと呼ばれる者か、
クレメンスと呼ばれる者か、
ベネディクトゥスと呼ばれる者か、
秘密裡に、留保付きで、あるいは公の宣言によって、
示してくださるようお願い申し上げます。
私たちは皆、主イエス・キリストの御心と御意を
喜んで実行する用意があります。
つねにすべてに忠実なアルマニャック伯」[92]
手紙の差出人は、このように書き送った。ジャンヌを「わが最愛の貴女」と呼び、自らを謙虚に彼女に捧げたが、それは自己卑下の表れではない。現代風に言えば単なる礼儀からの文言である。彼は王室のもっとも有力な家臣のひとりだった。
だが、ジャンヌはこの貴族に会ったこともなければ、おそらく聞いたこともなかっただろう。
差出人は、1418年に殺されたフランス大元帥アルマニャック伯(ベルナール・ダルマニャック)の息子、ジャン四世である。王国でもっとも残忍な男で、当時は33〜34歳だった。
彼はアルマニャック派の黒党と白党、カトル・ヴァレ(Quatre-Vallées、4つの谷)、パルディアック、フェザンザック、アスタラック、ラ・ロマーニュ、そしてリル・ジュルダンといった伯爵領を支配していた。
フォワ伯に次ぐ、ガスコーニュ地方(フランス南西部)で最も有力な貴族だった。[93]
シャルル王の支持者の中にその名を連ね、またイングランドやブルゴーニュでは敵対者を指す呼称(アルマニャック派)として用いられたが、彼自身はフランス人でもイングランド人でもなく、単なるガスコーニュ人だった。
彼は「神の恩寵による伯爵」を自称したが、宗主である国王から贈り物を受け取る際には、いついかなるときも「自分は国王の臣下である」と認めていた。当のシャルル王はいついかなるときでも新しいブーツを買う余裕があるとは限らなかったが、有力な家臣たちには多額の金銭を惜しんでいられなかった。
⚠️シャルル七世がランス遠征に際して「新しいブーツがなかったので古いブーツに油を塗った」エピソードは、上巻・第十六章『16.13 シャンパーニュ遠征計画(3)ジアンに集結』後半を参照。
その一方で、アルマニャック伯ジャン四世は(父と違って)イングランドにも配慮を示し、摂政ベッドフォード公に雇われた傭兵を保護し、赤い十字架(イングランド兵の目印となるお仕着せ)を身につけた者たちを家臣として取り立てた。
彼は、配下の者たちと同じくらい暴力的で不誠実だった。ごく最近も、セヴラック元帥を不法に拘束すると、全財産を譲渡するよう強要した上で絞殺した。[94]
⚠️アモーリー・ド・セヴラック元帥(Amaury de Séverac/Marshal de Séverac):代々アルマニャック伯に仕え、先代ベルナール(アルマニャック派の語源となった重要人物)の死後もフランス宮廷にとどまった。タンギ・デュ・シャテルなど王太子の重臣から一目置かれ、1424年、若きシャルル七世はセヴラックを元帥に抜擢して王室評議会に加える。だが、現アルマニャック伯ジャン四世はおもしろくなかったようで、亡き父ベルナールがセヴラックに与えた財産をすべて差し押さえた。後日、アルマニャック伯が所有する城の窓から首を吊って死んでいるのが発見された。
2.3 三人の教皇(2)アラゴン王とアルマニャック伯の破門
この殺人事件はごく最近(2年前)のことだった。そして今、聖なる教会の従順な息子が、真の霊的な父が誰であるかを熱心に知りたがっているように見える。
⚠️わかりやすく言い換えると、「アルマニャック伯は過去の罪を悔いて、模範とすべき人を探しているように見える」といった感じか。
しかしどうやら、アルマニャック伯の心はすでに決まっており、自分の質問に対する答えもすでに知っていたようだ。
実のところ、キリスト教世界を長きにわたって引き裂いた教会大分裂は、12年前に終結していた。
1417年11月8日にコンスタンツの商人会館に召集されたコンクラーヴェ(教皇選挙)で、同月11日、聖マルティヌスの日に、枢機卿助祭オットー・コロンナを教皇として選出・宣言された(教会分裂は終わった)。彼はマルティヌス五世という称号を名乗り、永遠の都ローマにおいて、ロレンツォ・ギベルティが8体の黄金像で装飾された戴冠式用のティアラを戴いた。[95]
そして、この狡猾なローマ人は、イングランドばかりかフランスからも承認を得ることに成功し、これ以降、フランス出身の教皇は一人も望めなくなった。
シャルル七世の顧問たちは、公会議の開催問題でマルティヌス五世と意見が一致しなかったかもしれないが、1425年の勅令により、フランス王国におけるローマ教皇の権限はすべて回復された。
したがって、1429年時点ではマルティヌス五世こそが唯一の教皇だった。
しかしながら、アラゴン王アルフォンソは、教皇マルティヌス五世が「ナポリ王国の権利を争っていたルイ・ダンジューを支持した」ことに激怒し、ローマ教皇に対抗する新教皇を擁立することを決意した。
そして、アラゴン王のすぐ近くに、教皇(クレメンス八世)を自称する聖職者がいた。彼の根拠は以下の通りである。
先代の対立教皇ベネディクトゥス十三世はペニスコラ(イベリア半島の東岸)へ逃亡し、臨終の際に枢機卿4人を指名してコンクラーヴェをひらいた。そのうち3人がバルセロナの聖職参事会員であるヒル・ムニョスを後継者に任命し、クレメンス八世という称号を名乗った。
三方を海に囲まれた不毛の地ペニスコラの城に幽閉されていたこの人物こそが、アラゴン王がマルティヌス五世のライバルに選んだ対立教皇クレメンス八世だった。[96]
教皇はアラゴン王を破門した後、問題解決に向けて交渉を開始した。
アルマニャック伯は、アラゴン王の陣営についた。
伯爵は子供たちの洗礼のために、亡き対立教皇ベネディクトゥス十三世に祝福された聖水をペニスコラから取り寄せた。彼も同様に破門された。
この打撃はまさにこの年、1429年に降りかかった。
したがって、アルマニャック伯はこの数ヶ月間、秘跡を受けることを禁じられ、公の礼拝からも締め出されていた。この災難のせいであらゆる世俗的な困難が生じ、それに加えて、彼はおそらく悪魔を恐れていたのだろう。
追い討ちをかけるように、アルマニャック伯の立場はますます困難になっていた。強力な同盟者だったアラゴン王は屈服し、自らが擁立した対立教皇クレメンス八世に退位を要求した。
アルマニャック伯がフランスの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に教皇問題について尋ねたとき、彼は明らかに、不運な対立教皇への忠誠を撤回しようと考えていた。
なぜなら、クレメンス八世は7月26日にペニスコラで退位したからだ。
時系列から考えて(ジャンヌのもとに手紙が届いたのは8月22日)、伯爵の手紙が退位の日よりずっと前に書かれたはずがない。それ以降だった可能性がある。
いずれにせよ、アルマニャック伯がジャンヌ宛の手紙を口述した時点で、対立教皇クレメンス八世の処遇はほぼ決まっていたに違いない。
⚠️わかりやすく補足:アルマニャック伯は、教皇問題でアラゴン王からはしごを外されてキリスト教界隈で不利な立場(破門)に置かれている。支持する教皇を変えたいが、不忠義のそしりを免れるために、最近評判の聖女にわかりきった質問を投げかけている。ようするに、ジャンヌの口から「真の教皇はマルティヌス五世だ」と言質を取りたい。
手紙の中で言及されている3人目の教皇、ベネディクトゥス十四世については、アルマニャック伯は何も知らなかった。実際、沈黙を決め込んでいた。
この教皇選出は、枢機卿たった1人で行われたという点で特異だった。
ベネディクトゥス十四世の教皇位継承権は、1409年に昇格した際に、対立教皇ベネディクトゥス十三世によって任命された枢機卿によって伝えられていた。その枢機卿とはフランス人で、法学士と司祭、そしてモンテチェーリオのサン=テティエンヌ枢機卿を務めるジャン・バレールだ。
アルマニャック伯が忠誠を誓おうと考えていたのは、どう考えてもベネディクトゥス十四世ではない。マルティヌス五世に服従することを切望していたのは明らかだ。
2.4 三人の教皇(3)アルマニャック伯の本心と策略
したがって、アルマニャック伯がなぜジャンヌに真の教皇を示すように求めたのかを突き止めるのは容易ではない。おそらく、神の啓示を受けた聖なる乙女に、あらゆる種類の問題について相談するのが当時の慣習だったからだろう。
ジャンヌはそういうことを期待される「乙女」であり、預言者としての名声はごく短期間のうちに広まった。彼女は隠された事柄を明らかにし、未来のカーテンを開けることができる(と信じられていた)。
オルレアン解放から約3週間後、トゥールーズのカピトゥール(capitouls、都市の行政官)[97]が、貨幣の劣化問題を解決するためにジャンヌに相談するよう勧めたことを思い出してほしい。
⚠️上巻・第十四章『14.11 ジャンヌの崇拝者たち(1)乙女の祈り』参照。
他にも、ミラノのボナ(ボンヌ・ヴィスコンティ)は、いとこのイザボー王妃の従者を務める貧しい紳士と結婚していたが、ヴィスコンティ家の子孫として公国を取り戻すために権利を主張しており、その件で乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の助言を求めた。[98]
探し物、都市行政の運営、王侯の権力争いまで、世俗の問題解決を期待されるのだ。聖なる乙女に「教皇と対立教皇の問題」について質問することは、まさしく適切だった。
しかし、この問題の最も難しい点は、アルマニャック伯自身がすでに十分な情報を持っていたと思われる問題について、なぜ乙女に相談したのか? その理由は何だったのかを明らかにすることだ。
以下が最も可能性が高いと思われる。
ジャン四世(アルマニャック伯)はマルティヌス五世を教皇として承認する用意はあったが、その服従が名誉ある、理にかなったものであるように見せかけたかった。
そのため、アルマニャック伯はこれから取ろうとしている行動の動機について、「聖女を通して語るイエス・キリストの命令に従う」という理屈を思いついた。しかし、その命令は彼の意向に沿ったものでなければならない。
彼はジャンヌに、そしてひいては神に、手紙の中でやんわりと(彼が望む答えへ)誘導している。どのような返答が適切であるかを、注意深く示している。
つい最近、自分を破門したマルティヌス五世が、「コンスタンツ公会議で全キリスト教国の同意を得て選出」されたこと、「ローマに居住」していること、「すべてのキリスト教国の王が服従している」という事実を強調しているではないか。
その反面、クレメンス八世がわずか3人の枢機卿によって選出されたこと、そしてさらに滑稽なベネディクトゥス十四世がたった1人の枢機卿からなるコンクラーベ(教皇選挙)で選出されたことを指摘し、後者二人の教皇選出は無効だと暗示している。[99]
2.5 三人の教皇(4)ジャンヌからアルマニャック伯への返信
これほど明白な説明を受けて、それでもなお「マルティヌス五世が真の教皇かどうか」をわずかでも疑う余地があるだろうか?
しかし、このような巧妙な策略はジャンヌには通用しなかった。
彼女には、手紙の内容がまったく理解できなかったのだ。
馬に乗りながら読んでもらったアルマニャック伯の手紙は、ジャンヌからすれば非常に難解かつ曖昧に思えたに違いない。[100]
ベネディクトゥス、クレメンス、マルティヌスという名前を、ジャンヌは一度も聞いたことがなかった。つねに会話していた聖カタリナと聖マルガリータは、教皇について何も教えてくれなかった。
聖女たちは、フランス王国に関することしか話さなかった。
ジャンヌもその慎重さから、口にする予言は戦争関連だけに限定していた。この事実は、あるドイツ人聖職者によって、ジャンヌの特筆すべき事柄として指摘されている。[101]
しかし今回だけは、預言者としての名声を保つため、そしてアルマニャックという称号にジャンヌは強く惹かれたため、ジャン四世(アルマニャック伯)に返答することにした。
「今は真の教皇について教えることはできないが、神が乙女に啓示するところに従って、三人のうち誰を信じるべきかを後で伝える」
ようするにジャンヌは、神託の発表を後日に延期する占い師のやり方に倣ったのである。
「ジーザス † マリア
アルマニャック伯爵、我が良き友、愛する人よ、
ジャンヌ・ラ・ピュセルより、あなたからの手紙が
私のところに届いていることをお知らせします。
手紙の中で言及されている三人の教皇のうち、
どの教皇を信じるべきかを私に尋ねるため、
あなたが住んでいる地域から私宛てに送ったと
その手紙は伝えています。
この件については、今のところ、
私がパリに着くか、あるいは
どこか別の場所で休息を取って落ち着くまで、
真実を伝えることはできません。
なぜなら、今は戦争のことでとても忙しいからです。
ですが、私がパリにいると聞いたら手紙をください。
そうすれば、あなたが正しく信じるべきこと、
そして全世界の王であり、正義であり、
最高権力者であるわが主の助言によって
私が知ったこと、あなたがなすべきことを、
私の知る限り、教えましょう。
神にあなたを委ねます。神があなたを守られますように。
8月22日、コンピエーニュにて記す」[102]
ジャンヌはこの返答をする前に、善良な修道士パスケレルにも、同じく善良な修道士リシャールにも、あるいは他の同行者の誰にも相談しなかったようだ。
もし仲間の誰かがこの手紙のことを知っていたら、「真の教皇はローマにいるマルティヌス五世である」とジャンヌに教えただろう。あるいは、「教皇と対立教皇について神の啓示に訴えることは、ジャンヌが教会の権威を軽視している(と見なされる危険な行為だ)」と忠告したかもしれない。
神が、教会の秘密について聖人に打ち明けることが、たまにはあるかもしれない。しかし、そのような非常に稀な特権を、安易に期待するのは軽率すぎる。
ジャンヌは、手紙を持ってきた使者と短い言葉を交わしたが、面会は短時間で終わった。
アルマニャック伯の使者が、町に居続けることは安全ではなかった。
兵士たちが、主人(アルマニャック伯)の犯罪と裏切りに対する報復をしようと画策したからではない。
ラ・トレモイユ卿がコンピエーニュにいたせいだ。
彼は、現在アルマニャック伯がリッシュモン大元帥と同盟を結んで、自分に対して何か企んでいることを察知していた。
ラ・トレモイユは、アルマニャック伯ほど悪意に満ちていなかった。
それでも、哀れな使者は、オワーズ川に投げ込まれるところをかろうじて逃れた。[103]
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